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2018年1月1日月曜日

2018年平成30年正月を迎えて

 
2018年の初日の出
東京は穏やかな新春を迎えた



2018年平成30年年頭所感。

 曇天、初雪の大晦日に比べ、2018年元旦は、一転、快晴の穏やかな1日となった。午前零時の大井埠頭の一斉汽笛とお台場の花火とともに明けた2018年。見事な初日の出を拝むことができた。

 今年は平成30年。平成を振り返る番組が正月から特集されている。今年が平成最後の一年になるからだ。これは我が国の歴史上画期的な出来事だ。なぜなら来年2019年5月に元号が変わることが事前にわかっているからだ。昨年、天皇陛下の退位のご意向が明らかになり、平成31年4月30日に天皇陛下は退位されることとなった。いわゆる生前退位である。ご高齢、象徴天皇としてのご公務継続に支障ということで、ご自身が退位の意思を表明された。皇太子が5月1日に即位され新天皇になられる。すなわち元号が改まる。平成は31年で終わることが事前に決まったというわけだ。そうか、もう振り返る「時代」に成ったのか平成は。平成生まれの若者は、小渕官房長官の「平成」という新元号を掲げる写真を「歴史の教科書」で見たことあると曰う。昭和なぞ、もうすでに「歴史」になってしまったわけだ。「ゆく年や昭和は遠くなりにけり」

 こうした改元は日本だけの事情であるが、元号がその時代を象徴するキーワードになる。「昭和」が「明治」の国家の近代化の行き着く所の無謀な戦争と無残な敗戦、奇跡の戦後復興と高度経済成長、という激動の時代であったのにたいし、「平成」はバブル崩壊、失われた20年の時代。日本が高度成長を終えて、低成長、少子高齢化、人口減少、の時代を歩み始めた時代である。世界を見渡すと、日本のアジアにおける19世紀後半の近代化のトップランナーとしての役割と経済成長牽引役は、21世紀に入り中国へと移り、さらにその中国が世界のリーダーアメリカにとって変わろうとする時代に入った。戦後レジームは大きく変わろうとしている。戦後をリードしたグローバリズムとリベラリズム、知性主義が後退し、自国ファースト、反移民、ポヒュリズム、反知性主義へ揺り戻しの時代へと大きくステージが変わりつつある。2016年のイギリスのEU脱退国民投票、いわゆるBrexitを皮切りに、欧州における反グローバリズムと反移民、極右勢力の伸張、11月にはアメリカはその憲政史上およそもっともふさわしくない人物を大統領に選択した。すなわちアメリカは自由と民主主義と資本主義の旗を掲げ、宿敵共産主義を倒し、正義と繁栄の戦後レジームを築いたリーダとしての地位と、その誇りをかなぐり捨てることを選択した。そして2017年は核兵器を弄ぶトランプと金正恩に振り回された年となった。

 2018年はどのような年になるのだろうか。日本では30年に及ぶ長い停頓の時代、平成が最後の一年を終えようとしている。日本も世界も負のスパイラルを変えることができるのか。日本は新たな成長と繁栄の時代を築けるのか。いままでのような平和を享受できるのか。残念ながらあまりポジティヴな展望が開けない気がする。為政者や国家の動きに任せていると、個人はどこへ連れて行かれるかわからないという不安がある。ポピュリズムや反知性主義は、すなわち国民の現行の国家や政治権力への不信の表れだ。しかし、その反作用としてリベラリズムやグローバリズムを否定するグループを支持するという誤った選択肢を選ぼうとしている。さらに大衆受けする政策のスピーディーな意思決定と実行、これまで営々と気づきあげてきたものを一気に否定する「分かりやすさ」が国民の熱狂を呼ぶ。しかし、ふとドイツの戦後復興(第一次大戦)を規定した理想主義的なワイマール体制への批判がナチスを生んだ状況が脳裏をよぎる。ナチスは、BOPだけでなく、政治無関心層であった中産階級や、裕福な上流階級にも一気に支持されていった。ナチスのスローガンの一つは「信頼の政治」「政治の効率性」だ。しかし政治や為政者を簡単に信頼することができるなら民主主義も自由主義も法の支配生まれてこなかっただろう。これらのシステムは、専制君主であれ、民主的に選ばれた指導者であれ、独裁者であれ「為政者への不信」が原点にあるものだ。政治を経営や経済のような数量的な合理性や効率性でのみ測ることはできない。民主主義とは結構めんどくさいものだ。「分かりやすい」説明には時として落とし穴があることを知っておくべきだ。多様な価値観の調整には時間がかかり、万人に分かりやすい仕事ではない。しかしそれを厭うことがあっては危険だ。二度の世界大戦を経験した世界はその歴史にまだ学んでいない気がする。こうなると人は国家という枠組みとは別に、世界市民として、グローバルヴィレッジの住民として、一私人として、平和で幸福な人生を歩める社会を目指して連帯して行くべきかもしれないとすら思う。もし国民が衆愚政治にも独裁政治にもならぬように為政者を監視する能力と忍耐を放棄するのなら、これからも国家という枠組みが私人の幸せを保証する枠組みであり続けるのか疑問を抱かざるを得なくなってしまう。


Super Moon
on 2nd January

2017年12月28日木曜日

八木札の辻 〜「時空」の十字路〜

八木札の辻
横大路(伊勢街道、初瀬街道)と下ツ道(中街道)の交差点


 大和路散策の「時空トラベラー」が必ずといって良いほど利用する駅といえば?そう近鉄大和八木駅。近鉄大阪線と近鉄橿原線が交差する「鉄道交通の要衝」である。近鉄大阪上本町から桜井、三輪神社、山辺の道、長谷寺、室生寺へ向かう時には必ず経由する。また京都、西大寺方面から橿原神宮、橿原考古学研究所、飛鳥、吉野方面に向かう時にも経由する。あるいは大阪上本町から飛鳥に向かう時にはここ大和八木が乗換駅である。特急、急行停車駅だ。大和八木駅の近くには、今井町という寺内町、環濠集落が中世の姿そのままで残る不思議空間がある(八木西口が最寄り駅だが、大和八木からは目と鼻の先)。さらにウンチクを語れば、日本一長い路線バス、奈良交通の十津川村、熊野古道経由「新宮行き」バスはここ大和八木駅前から出発する。ここは大和路散策には欠かせない重要拠点ということになるわけだが、しかし、実はここで降りて街を散策する人はまずいない。私も実際、歩いてみたことはない。どんな街なのだろう。一度は探検してみる必要がありそうだ、と「時空トラベラー」的な好奇心が疼き始める。こんな重要な分岐点に何もないはずがない、という直感。ここは橿原市八木。地図を見ると先ほどの今井町だけでなく、藤原宮趾や耳成山も近い。古くは藤原京の西南の角(西京極)に位置する場所、古い街道筋の街並み、中世の環濠集落跡と思しき匂いの集落もある。Google Mapを見るとふと「八木札の辻」という表示が目に飛び込んでくる。なんだか面白そうだ。駅からは徒歩で7〜8分。メインストリートを外れながら歩を進める。やがて「八木札の辻」の表示を発見する。

 「八木札の辻」は、飛鳥時代からの古代の官道、東西に走る横大路、南北に走る下ツ道が交わるところである。今では、幹線道路から外れた集落の中を東西南北に走る細道、いわば生活道路になっているが、かつて横大路は重要な官道。飛鳥から西へ向かい竹内街道とつながり、二上山山麓の竹内峠を越え、丹比道、河内、難波へと通じる飛鳥の幹線道路であった。途中は古市古墳群や百舌鳥古墳群を抜け、難波宮に繋がる。さらには瀬戸内海、那の津を通じて大陸に繋がる文明の道。大陸からの外交使節が飛鳥、奈良に向かい、遣隋使、遣唐使が大陸に旅立っていった道。いわばシルクロードの東の果てと言って良いだろう。一方の下ツ道は上ツ道、中ツ道とともに大和盆地を南北に走る三本の古代官道の一番西の道。藤原京の西京極から平城京の中心、朱雀大路に繋がる重要な官道である。平城京造営の時には、建築/土木工事に必要な資材の運搬、藤原京から移転する建物や家財などを運ぶ列がこの下ツ津道を埋め尽くしたのだろう。そういう古代ヤマト倭国のクロスロードであった地点が「八木札の辻」なのだ。


大和の古道
Wikipediaより引用

 時間を一気に千百年ほど下った近世、江戸時代になると、横大路を含む東西の道は、長谷寺詣や伊勢詣に向かう初瀬街道、伊勢街道と呼ばれるようになる。また下ツ道は中街道と呼ばれるようになり、南は紀伊、吉野から、北は奈良を越えて山城、京へ通じる道となる。この二つの街道が交わる八木は、伊勢神宮や大峰山への参詣者、巡礼者で大いに賑わい、旅籠や茶店が軒を連ねる殷賑な街「八木札街(やぎふだのつじ)」と呼ばれるようになった。今は道筋ははっきりと確認できるが、通りに面して幾つかの古い商家や古民家が残っているものの、今井町のような圧倒的な中世、近世の街並みの残存率は期待できなくなっている。しかし、この「時空の交差点」には18〜19世紀の建築と思われる旅籠の建物と井戸の趾が残っている。東の平田家、西の平田家である。東の平田家建物は、最近まで子孫の方がお住まいで、時計屋を営んでおられたそうだ。しかし、商売を止めて市に建物を寄付。復元、修景保存されて「八木札の辻交流館」として一般に公開されている。その向かいの西の平田家建物は昔のまま現存しており、今でも子孫の方がお住まいだという。この二つの建物は、南側に切り妻、二階に欄干手すりという特色を共有する旅籠建築である。幕末の嘉永6年1856年の「西国三十三所名所図会」に描かれた「八木札街(やぎふだのつじ)」を見ると、この二つの旅籠と交差点の真ん中に高札場と井戸が確認でき、行き交う人々で賑わう様が描かれている。

 こうして今まで通過点でしかなかった大和八木駅で途中下車すると、素敵な「時空旅」が待っていた。大和にはいたるところにタイムホールが存在し、時間を超えた旅ができることを再認識する。しかし時空写真は難しい。その時代の心象風景、情感を古い町並みから嗅ぎ出して写し取ることは、現代のデジタル技術、AIをフル活用してもなかなか難しい。情感の表現は自分が感じ取った心の中にあるものを表現しなくてはならない。まず何を感じ取るかは、その人の歴史や習俗に関する深い知識と洞察力に根ざした感性による。デジタルやAIは技術であり道具にすぎない。高精細な写真を大量に撮ることは簡単になったが、ともすれば説明的な写真ばかりが並んでいてつまらない「情感」が映し出されている一枚を選び出すのはAIではない。入江泰吉マエストロの境地に達するには技術ではない。「時空トラベラー」が「時空フォトグラファー」になるのはまだまだ越えなくてはならないヤマがいくつもありそうだ。



嘉永6年(1853年)の「西国三十三所名所図会」に描かれた「八木札街
中央に高札場と井戸が描かれている。この井戸は半分になって現存している。




八木札の辻交流館
かつての東の平田家(旧旅籠)
18世紀後半から19世に前半に建てられたとされる建物の復元


古代官道「下ツ道」、後の中街道の今


八木札の辻
西の平田家(こちらも旅籠であった)

東の平田家一階居間
格子戸越しに通りが見える



旅籠の玄関


現存する井戸

二階客室への階段


二階客室
欄間に凝っている

客室
六畳間、八畳間、三畳間がある
客室
二階客室から坪庭を見る
向かいの建物の瓦も昔ながらの本瓦

二階から通りを隔てて向かいの「西の平田家」
見事な本瓦葺きの屋根

札辻を見下ろす

西の平田家建物
こうやってみると二階はオリジナルの本瓦葺きの屋根であるのに対し、
一階部分は後世の瓦で葺き直されていることがわかる。

二階の客室をぐるりと取り巻く高欄
横大路、伊勢街道方面

 欄間透かし彫りコレクション。これから向かう旅先の伊勢神宮、二見浦や住吉大社などの物語を題材にしているという。









重い瓦屋根を頑丈な梁が支えている


軒に設けられた遊び心

(撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit-SL 24~90/2.8~4 ASPH)



 アクセス:近鉄大和八木駅南口から徒歩7分。


交流館パンフレットより



2017年12月24日日曜日

古代原始林の面影残る「糺ノ森」を逍遥す


糺ノ森

 京都の高野川と鴨川の合流点の北に広がっている鬱蒼とした森、賀茂御祖神社(通称下鴨神社)の社叢林である糺ノ森は、古代山城国時代の原始林の諸相をよく残す森であると言われる。平安遷都の頃には約500万平方メートルを誇った森も、時代を経て徐々にその面積が狭くなって行き、中世の「応仁の乱」では森が広範に焼失してしまったという。このような原始林をも焼き尽くした「応仁の乱」がいかに破壊的な戦乱であったかを物語っている。その後下鴨神社の社叢地として手が入れられて幾分整備されたものの、また明治維新後の社寺地の官有地化で森が減り、現在では往時の7分の一の面積になったと言われている。森の中にはいく筋かの小川や地下水脈があり、豊かな植生を育み、京都市内にあって貴重な水生植物の揺籃にもなっている。

 糺ノ森では古代祭祀跡が発掘されている。現在のような壮麗な社殿が創建される以前の原始神道の祭祀形態である磐座(いわくら)跡が複数箇所確認できる。もっとも、時代的には平安末期から鎌倉初期のもので、大和三輪山中の磐座や筑紫宗像大社の沖ノ島や高宮斎場のような弥生、飛鳥時代から続く屋外祭祀跡に比べると新しい。しかし、このような祭祀形態が平安末期から鎌倉初期まで続いていたことを示す貴重な遺跡だ。

 この上賀茂/下鴨神社は古代豪族である鴨(賀茂)氏のゆかりの神社である。末裔には鴨長明(下鴨社境内の河合神社の神官の息子で、「方丈記」の著者)や賀茂真淵(江戸時代の国学者)などの著名人があり、現在も賀茂/鴨/加茂を姓とする一族が続く日本の名家の一つである。ところがこの鴨(賀茂)氏、なかなか謎の多い豪族であり、その由来、出自が必ずしもわかっていない。

 鴨氏には大きく2系統あるといわれる。山城葛野の賀茂氏と大和葛城の鴨氏である。他にもあるようだが、この上賀茂/下鴨神社を依代とする山城葛野の賀茂氏系統は、日本書紀、古事記に、神武天皇の東征に際して熊野から大和に向かう道案内をした「八咫烏」の伝承に繋がる一族であるとされている。すなわち天神系の神を祀る一族であるという位置付けになっている。一方、大和葛城の鴨氏は、出雲系で三輪山の神、大国主命、大物主命、大田田根子(おおたたねこ)の伝承に繋がる一族であるという。すなわち国つ神、地祇系の神を祀る一族であるとされている。葛城と言えば大和盆地で大王家と勢力争いした一大勢力葛城襲津彦(葛城氏)との関係が問われるのだが、これもはっきりした伝承や記録が残っていない。しかし鴨氏と葛城氏は非常に近い関係にあったと考えられている。大和葛城の高鴨神社を依代とする。

 一方でこの葛城の鴨一族がのちに山背(後の山城)葛野に移ったのが上賀茂/下鴨神社の祭主である賀茂氏であるという説も唱えられている。同じく山背葛野を拠点とした渡来系氏族の秦氏(太秦広隆寺は秦氏の創建)との関係も深い。この秦氏は中国あるいは朝鮮半島から渡来した一族「弓月君」の末裔で、もともとは大和葛城に定住していた渡来系氏族と言われる。こちらも初期ヤマト王権により山背の葛野に移され、その後彼の地に大きな勢力を誇った。やがて和気清麻呂に協力して桓武帝の平安遷都を支援したと伝えられる。。

 このように定説がないのだが、初期ヤマト王権成立時に王権(三輪王朝)に対抗する一大勢力であった葛城襲津彦(葛城王朝)が争いに敗れ滅亡し、その残存勢力(鴨氏、秦氏を含む)が大和葛城から山背葛野に移動した(させられた)ようだ。先述のように強力な渡来系氏族の系譜を引き継いでおり、8世紀後半には平安遷都に大きな貢献を果たした。平安京の有力氏族になってゆくのだが、やがては平城京から移ってきた宮廷貴族である藤原一族が摂関政治により朝廷を牛耳ってゆく歴史は改めて語るまでもないだろう。賀茂氏は上賀茂/下鴨神社の祭主/神官として血脈をつないでゆくことになる。古代原始林はこうした歴史を見守ってきたのであろう。「糺ノ森」は黙して語らず、だが...


河合神社はイチョウの落ち葉に彩られる

小川の流れをいただく



賀茂御祖神社(下鴨神社)回廊

賀茂御祖神社(下鴨神社)楼門

下鴨神社鳥居


糺ノ森の紅葉残照


参道の名残の紅葉

古代祭祀「磐座」跡

日が沈む

発掘された祭祀跡


糺ノ森の小川


落ち葉

河合神社
女性に人気の神様

灯篭

干支ごとの神様

女性が絵馬で顔を叩き奉納すると美人になれる?





鴨長明の方丈
長明はこの河合神社の神官の息子だった





2017年12月21日木曜日

石光寺の寒牡丹 〜冬枯れの當麻の里に牡丹を愛でる〜


石光寺の寒牡丹


 奈良大和路散策は私の写真旅、時空旅の定番だ。このブログの投稿件数でも「奈良大和路散策」がダントツに多い。大阪時代から時間さえあればカメラ担いでせっせと回っている。その中でも、一番心が落ち着いて好きなのは當麻の里の散策だ。季節を問わず穏やかで美しい風景が楽しめるのである。由緒のある古寺とそれを取り巻くように佇む里。飛鳥古京から難波に抜ける竹内街道沿いの古代の面影を残す静かな仏の里だ。そしてここには大和路を象徴する双峰山がそびえている。大和の東の聖なる山が三輪山なら、西の聖なる山は二上山だ。ちょうど東西軸上にある聖山。二上山は夕日の沈む西方浄土の地。仏教が盛んになるにつれてこうした西の日が沈む地が憧れの浄土として崇められるようになる。

 その二上山の麓に位置する當麻の里の代表的な寺が當麻寺である事は言うまでもない。中将姫の伝説、當麻曼荼羅、真言宗、浄土宗共立の寺である。5月には當麻お練りが繰り広げられ、数多くの仏様が浄土からお出ましになる。桜の季節は護念院、西南院の枝垂れ桜が二塔を背景に咲き誇る。詳しくは、當麻寺の謎、桜の季節の當麻の里について書いた下記のブログをお読みいただきたい。

 2014年9月26日「當麻寺の謎 豊穣の時を迎えた當麻の里散策」

 2016年4月5日「大和路桜紀行(2)春雨にけぶる當麻の里に桜花を愛でる」

 今回は、その當麻寺からゆったり徒歩で15分ほど。集落を抜けたところに静かに佇むもう一つの古刹、石光寺(せっこうじ)を訪ねた。正確に言うと今回の散策では、竹内街道の抜け、まず石光寺を参詣。そして當麻寺へ向かった。いつもとは逆コースをたどったことになる。石光寺を知る人はよほどの大和路通だろう。石光寺は天智天皇の治世(670年頃)、天皇勅願により役の小角が開山、弥勒如来を本尊としてお祀りしたのが始まりだと言われている。浄土宗の寺で當麻寺同様、中将姫ゆかりの寺でもある。中将姫は聖武天皇の御代(750年頃)に蓮糸曼荼羅を織り、この寺の池で洗い五色に染めたと言われている。そうした寺の創建由来も興味深いが、今では寒牡丹で有名な「花の御寺」として人気がある。

 桜や新緑、稲穂の波、紅葉に彩られる大和路の華やぎが終わると、やがて冬枯れの侘しい季節となる。稲の刈り取りがとっくに終わった當麻の里の田んぼと二上山のコントラストもそれはそれで良い。すべての華やぎが去ったこの風景。色即是空空即是の世界なのだが、どこかに彩りが欲しくなる。人間の煩悩はやはりとどまるところを知らない。その中で冬空に彩りを添えるのが石光寺の寒牡丹である。有名な長谷寺の牡丹や当麻寺の西南院、護念院の牡丹は春牡丹。4月中旬から五月中旬に華麗に咲き誇る。しかし、寒牡丹は11月下旬から1月下旬頃の寒い季節に盛りを迎える。一般に春牡丹は温室などで開花時期を調節しながら育てるのに対し、寒牡丹は自然のまま自力で咲くのを待つのだそうだ。したがってすべての株が一斉に咲き揃うのではなく、一輪一輪がポツポツと咲く。また株によっては咲かない年があったり、まさに孤高の力強さがある。時期になると色とりどりに咲き乱れる春牡丹のような壮観さなないが、寒い季節にしっかりと咲くオンリーワンの美しさがある。この季節、寒牡丹で名高い石光寺は観光客で賑わうわけでもなく、寒牡丹も誰のために咲くと言うわけでもなく、密やかではあるが気品をたたえながら一輪一輪が二上山を背にその美しさを誇っていた。

 毎回ブログに書くが、當麻の里散策のトリを飾るのはいつも「中将餅」。當麻寺駅前にある老舗の茶屋のあんころ餅がうまい。注文を受けてから白い割烹着のお姉さんが餡子をよもぎ餅に乗せて出してくれる、ここでしか食すことができないローカルフード。ただし、夕方になると売り切れ御免になることが多いので、本当は参詣前に手に入れて、散策途中の道すがらに食すのが良い。


竹内街道
菅原神社からの展望

竹内街道
大和棟の古民家が軒を連ねる

松尾芭蕉ゆかりの綿弓塚の古民家
昔は酒造業だった


當麻寺遠望

大和路といえば柿

葛城山を背景にした當麻の里

刈り入れも終わり冬枯れの景色
これも大和路の風景だ

  石光寺の寒牡丹コレクション











 さて石光寺を後にして、當麻寺へ向かうとしよう。

石光寺境内から二上山が覗く

石光寺山門


石光寺から當麻寺へ続く道すがらお地蔵様が。

大和棟の民家を見ながら當麻寺へ


當麻寺黒門にたどり着く
夕日刺す頃...

中将姫像

古當麻寺時代の石灯籠
当時はこちらが南に面する寺の正面であった

當麻曼荼羅がご本尊の曼荼羅堂
浄土宗両立の寺となってから増築されたのだが、現在では「本堂」になっている

散策に疲れたら當麻駅前の「中将餅」
注文を受けてから餡子をまぶす草餅は忘れられない味。

二上山
入江調の「二上山残照」にはまだ時間がある。


 (撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit-SL 24-90/2.8-4 ASPH, APO Vario Elmar-T 55-135/3.5-4.5 ASPH)