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2009年12月29日火曜日

富田林寺内町

富田林は大阪市の南のベッドタウンだ。あべの橋から近鉄南大阪線で30分ほどで着く。今年最後の時空旅はこの中世末に成立した一向宗の寺内町だ。こんな都心に近いベッドタウンの中に、タイムカプセルのようにこの一角だけ歴史的な景観が良く保存されている所がすごい。地区の総面積は約3万㎡で周辺部との境界には土手が巡らされていた。近畿地方によく見られる掘割が巡らされた環濠集落は低地に建設されているが、ここは高台に位置していて、集落の外縁部からは各方面とも道が大きく下っている。東からは下に石川を、遠くは葛城、金剛山が望める。当時は高台の要塞都市的な性格だったのだろう。

富田林は、このように街の中心に今でもある興正寺を中核とした宗教自治としとして建設された。江戸期以降はそうした自治都市としての特権的な地位は失われたが,交通の便の良い地の利から在郷町と呼ばれる商業の中心としての発展を遂げた。ここ富田林寺内町は多くの木綿、油、酒等を商う商家が栄え、豪壮な町家が今でも良く残っている。

こうした寺内町は,隣の大和の今井町が有名である。その建築物群の密集度と保存状態の良さなどの点では他に類を見ないが、ここ富田林は都市化が進む大阪の郊外でこれだけの景観が保存されている点が驚嘆に値する。近畿圏は総じて今でも長い歴史の上に人々の生活や文化、習俗、経済活動、町並みが成り立っていることにいつも驚かされるが、この富田林の寺内町はその象徴と言っても良いかもしれない。東京のような町は、江戸開府400年と言っても歴史的に見れば新興都市であることを認識させられる。

2009年12月28日月曜日

大航海時代 東と西の遭遇 〜ウィリアム・アダムスの生きた時代〜

 久しぶりにSamurai William(Giles Milton)の和訳本「さむらいウィリアム−三浦按針の生きた時代ー築地誠子訳)を読んだが、原著が読みたくてAmazonで注文。届いた「Samurai William The Englishman who opened Japan」はなかなか素敵な装丁の本。挿画がいい。日本の南蛮屏風絵や多分イエズス会の伝道師か、オランダの商人が描いたと思われる日本の17世紀初頭の光景が新鮮だ。腹切りや、キリシタンの処刑の光景があるかと思えば、大阪夏の陣冬の陣の現場リポート風挿画、江戸城や壮大の江戸市中の光景。平戸の漁師の姿。家康の軍隊の装備など、描き方が泰西名画的で、日本ではないような感じだが、逆に当時の日本人が描いた南蛮屏風に登場するポルトガル人や、スペイン人がこれまた異様な風体に描かれているのと対比できて面白い。もちろんこうした出来事は史実としては知っているが、当時はるばるユーラシア大陸の西の端からやって来た西洋人の目で見た日本が可視化されていて、まさに時空トラベラーの視点が新鮮だ。冒険的商人、航海士らがロッテルダムの港を出て以来、様々な未知の土地で、海域で危険と遭遇しながらの航海。ようやく東の果てに見た伝説の国ジパングを「野蛮人の群れをかきわけて進んだ末に到達したもうひとつの文明国」とみている点にも興味がそそられる。当時の日本は戦国時代。おぞましい内戦が長く続く混乱の時勢であったにもかかわらず。

 当時の地図を見ると日本は不思議な形状の島として描かれている。彼らが頼りにした日本の地図はおそらくイエズス会の宣教師が持ち帰ったものを元に、オランダやベルギーあたりのメルカトール、オルテリウス、ヤンソン、ブラウ等の地図製作者(カートグラファー)が人の話を聞き、想像で描き足したものだろうといわれている。宣教師が入手した元の日本地図が何だったのかは謎だが、研究者によれば、さかのぼること奈良時代の僧、行基が作った行基図が元では?といわれている。8世紀から17世紀まで日本には正確な地図はなかったのあろうか? ともあれ、私がロンドンで買ったQuadのAsiaという地図(1600年出版ケルン)には日本がサモサ様な形で描かれている。良く見ると九州、四国、そしてミヤコのある近畿地方、すなわち瀬戸内海、大阪湾部分のみが描かれ、その他は適当に線を引いた、という感じの地図になっている。当時の西洋人が知りえた「日本」の範囲がわかって面白い。ちなみに、九州にはFacataという街が記されている。その後やはりロンドンで入手したヤン・ヤンソンのIapanの地図では、北海道を除く他の日本列島が描かれており、都市や国名がMiakko,とか、Tonssa, Bungo,などと記されている。都市や国以外では石見銀山の位置が記されており、世界史的にも重要なランドマークであったことを示している。朝鮮半島は島なのか半島なのかいまだ不明、と注記されている。

 East encouters West. 初めて日本に到達した西洋人は種子島に漂着したポルトガル人だといわれているが、その後ザビエル等のイエズス会宣教師が次々と来日する。そしてイギリスの航海士William Adamsがオランダ船Liefde号で豊後府内に漂着する(目的を持って日本に来たらしいが,到着の様子は漂着に近かった)。この頃のオランダはヨーロッパの強大な帝国スペインからの独立直後で、いよいよ海洋国家として世界に羽ばたいた時期。イギリス人もその冒険的なオランダ貿易船に乗船していた。Adamsの出身地ロンドン郊外のギリンガムには小さな石碑が建っている。日本では三浦按針として歴史に名を残し、三浦半島に領地を得て「サムライ」となったイギリス人時空トラベラーも母国イギリスではあまりたいした歴史的扱いを受けていないと見える。

 この当時の日本における、いわゆる西洋人の出入りを見ていると、16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパにおける、スペイン、ポルトガルといった大航海時代の先進国、カトリック国(日本人がいう南蛮人)と、オランダ、イギリスのような新興国、プロテスタント国(紅毛人)が大きな時代の流れの中で激しく世界市場の利権を争っていた時代が反映されていること分かる。何故、最初に種子島に漂着した西洋人がポルトガル人だったのか。 何故その後イエズス会宣教師が日本に来て、やがて禁教令で去らざるを得なくなり、代わって新興国のオランダが日本に進出して平戸、長崎出島にとどまることが出来たのか。何ゆえイギリスは平戸に商館を開いたのに、著者の表現を借りるならば、「まるで日本になぞにいたこともなかったかのように」いなくなったのか。

 そして240年後の19世紀に入り、鎖国日本の小さな窓、長崎から外界をのぞくと、いつのまにかAdamsが警戒し、徳川将軍が排除した旧教勢力は日本の周りからすっかり姿を消し、スペインはフィリピンに、ポルトガルはマカオにプレゼンスを確保するのみであった。もはや大航海時代を切り開いた覇者の姿はなくなっていた。代わって新興海洋帝国オランダが平戸に長崎に進出した。彼等はバタビアに東インド会社の拠点を置いてジャワ、モルッカ諸島(香料諸島)などの現在のインドネシアを植民地とした。オランダにやや遅れて日本進出を果たし、しかしオランダとの日本における覇権争いに負けて平戸を後にしたあのイギリスは、中東からインド、ビルマ、香港、さらにはオーストラリアを有する広大な世界帝国に発展していた。そして新世界からはイギリスからの独立を果たしたアメリカという新興国が太平洋に進出してくる。世界地図はすっかり塗り変わってしまっていた。

 日本はこうした世界の激動の中で240年国を閉ざし、曲がりなりにも平和を維持してきた。これはある意味世界史の不思議だ。 徳川政権の先見性なのか? あるいは歴史の偶然なのか? 伝説の国、黄金の島ジパングはあまりに遠すぎて忘れられたことも幸いしたのか? William Adamsは日本を世界に開いたはじめてのイギリス人と紹介されているが、同時にスペイン、ポルトガルの帝国主義的野望から日本を守り国を閉ざさせた(彼の意図ではなかったかもしれないが)イギリス人でもある。また皮肉にも彼の母国であるイギリスの日本での活動を支援しなかった人物でもある。平戸のイギリス商館が閉鎖され商館長コックス以下商館員が全員日本を去った後にロンドンへ帰還できたのはタダ一人の商館員だったといわれている。後にイギリス東インド会社が再び日本へ進出を企てた時に、彼は会社からの誘いを断り、その結果日本進出計画は破綻してしまった。結局、明治維新まで長崎に残った西洋人はオランダ人だけだったのだ。歴史に「たら」「れば」はないが、その時イギリスが再び日本に進出していたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。この意味においてもこのイギリス商館員はAdams同様、結果的に(勿論意図せず)日本をイギリスの世界帝国の野望から守ったのかもしれない。歴史の皮肉としか言いようがない。

Orteliusのアジア地図.真ん中上部のオタマジャクシのような列島が日本

アダムスのリーフデ号はロッテルダムを出港し、東周りで豊後府内(現在の大分市)に到着した。
というより「漂着」と言ってよい有様であった。


Samurai William: The Adventurer Who Unlocked Japan
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Samurai William: The Adventurer Who Unlocked Japan発売日:2003-02-03
さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代
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2009年12月21日月曜日

京都 嵯峨鳥居本

京都の嵐山,嵯峨野と言えば観光スポットとしてあまりにも有名。春の桜,秋の紅葉の季節ともなれば大勢の京都ファンが押し掛けるいわば京都定番、初心者コース。渡月橋から天竜寺、大河内山荘、落柿舎、常寂光寺、祇王寺、二尊院そして化野念仏寺くらいまでは誰もが知る有名観光コースだ。嵯峨御所と呼ばれる大覚寺へもかなりの人が訪れる。この時空の旅人もその昔、彼女とデートした思い出深いコースである。今では私のツレアイとなったその「彼女」が今でも憧れるコースである。渡月橋のたもとからボートに乗ったりしたっけ.....




(渡月橋あたりは観光客で賑わうが、堰を切る水の輝きに眼を奪われる人は少ないのでは....)





(冬の太陽の光が水面に煌めいて美しい。特殊なフィルターは使ってません,念のために)






しかし、化野の念仏寺からさらに先へ歩を進める人は意外に少ない。この先の嵯峨鳥居本は観光ガイドブックにも詳しい説明が掲載されていることがまれであるようだ。この清滝に至る愛宕街道は愛宕山参りの参道でもあった。瓦屋根の町家や蔵の続く家並から、参詣道らしく茶屋や土産物の店が並ぶあたりを過ぎ、さらに進むと苔むす茅葺きの農家や山荘風の宿が続く。山に囲まれた地形と相まってこの一本の道の両側にはとてもバラエティーにとんだ景観が展開している。愛宕山の赤い一の鳥居辺りには昔から続く料亭宿、苔むす茅葺き屋根のつたやと平野屋が鳥居を挟んで二軒、暖簾を誇って建っている。嵯峨鳥居本は京という都の雅と、その郊外の農村ののどかさとがシームレスに融合する地域なのだ。




(参詣道、観光地らしくみやげ物の店が軒をつらねるが、化野の念仏寺を過ぎるあたりからだんだん人が少なくなる)



ここは元々は京のはずれの農村、山村であった所だが,その歴史は古く室町期には集落が形成されていたようだ。また何時しか愛宕山参詣の為の参道として栄えた。今はかつてのような門前町としての賑わいはなくなったが、その分静かな嵯峨野観光の奥座敷となっている。この鳥居本の町並みは平成17年には重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。景観保存という考え方は,そこに暮らす人々の生活と建造物、道、それ等を取り巻く全体の環境を景観としてまとめて保存してゆこうというものである。こうした町並み、景観保存の活動は、それ自体を歴史ある日本の文化財として未来に残そうというもので、このような活動が評価されるようになったということは日本もようやく成熟した大人の国に近づいた、ということだ。時空トラベラーとしてはいつかは全ての伝建地区を巡りたいと思っているが、さらにまだ伝建地区に指定されていないが,ひっそりと忘れ去られそうになっている情景、未来に残しておきたい景観についても探し出して見ておきたいと思う。

しかし、これまで回った中でもこの嵯峨鳥居本の佇まいは強く心を引かれる。京都という1000年の都はあちらこちらにその歴史が熟成させた本物の文化の香りを漂わせている。東京などの都市ほどではないが、街全体としては都市化により大きくその景観を変容させてしまったが、仔細に見るとそこここにそれを感じ取ることが出来る。ここも京の町家の風情と農村の茅葺き屋根と信仰と山村の自然が融合するという点でユニークな都の景観だと思う。





(ここから嵯峨鳥居本の景観保存地域。左の壁に景観保存地域の説明があり、町家資料館も開設されている。正面には愛宕山の一の鳥居が見える)





(鮎料理の老舗、つたや。苔むす茅葺き屋根がこの辺りの景観を独特のものにしている)





(ここには鳥居を挟んでもう一軒の老舗料亭、平野屋がある。)





(愛宕山の一の鳥居。山あいの街道に華やかさを添える。ここから愛宕山を目指して人々の行列が続いたのだろう)




愛宕山は京都市の北西にそびえる標高924メートルの市の最高峰である。山城と丹波の国境に位置し、比叡山や比良山を望む位置にある。山上には全国900余の愛宕神社の総本社である愛宕神社が鎮座ましましている。創建はさかのぼること1300年前、役行者によると言われる。明智光秀が本能寺に織田信長を攻める前に参詣し、神籤を引き四回の「凶」の後に五回目で「吉」を引いた、という逸話が残っている。その後、宿坊で連歌を催した。

「時は今 雨が下しる 五月かな」

これが秘めたる謀反の決意を表した歌だと言われている。

この鳥居本の愛宕神社一の鳥居から愛宕山上の本殿までは山道を遥かに登り続けなければならず、昔の参詣はかなりの苦行であったことだろう。明治の頃になって嵐山電鉄嵐山駅から愛宕鉄道、ケーブル線ができ、乗り継いで愛宕山頂まで行けたそうだ。まるで今の比叡山のような行楽地であったのだろう。これもすごいはなしだ。今人々が散策する嵯峨野に廃線跡は見つけることが出来ない。戦争中にこうした交通手段は撤去され戦後復活することはなかった。いまでは、再び古の昔に戻り、山頂へ向かうには清滝から徒歩で2時間ほど登らねばならない。元来参詣とは苦労して神仏に到達するもので、そうしてこそ法悦を感じたものだったはずだ。簡単に行けてはありがた味がないのだ。それだけにいにしえ人にとっても、参詣をすませ麓の街道沿いの集落に降りて来てからの楽しみは地元の鮎料理やおいしい酒だったのであろう。千日参りの善男善女が賑々しく行き来する光景が眼に浮かぶようだ。

2009年12月20日日曜日

帰って来た来た阿修羅 ジャニーズ系八部衆の時空旅

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(若草山から望む興福寺の五重塔、南円堂、そして奈良の街)

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(阿修羅像は撮影禁止。九州国立博物館の写真をお借りした)

紅葉の季節も過ぎて、年も押し詰まった週末はこの冬一番の冷え込み。雪こそ降らなかったが風の強い寒い一日だった。こんな時に奈良公園を散策する通も世の中にはいないと見えて閑散としている。我はよほどの趣味人だと自覚。人影のないひっそりした観光地は、どこか寂しげで、鹿のせんべい売る人達も寒そうにただ佇んでいた。もちろん角切られてさっぱりした鹿達もヒマそう。

しかし、時空旅行者にとっては、観光客のいない奈良公園は興福寺の昔の栄華を夢想するにはうってつけ。あの阿修羅像も興福寺国宝館に戻り、八部衆の一員としての定位置でいつもの決めポーズで立っている。そして阿修羅像の前には誰も並んでない。東京と太宰府での2時間待ち行列は、いったいなんだったんだろう。

改めて阿修羅像をゆっくりと拝観させて頂いたが、ほんとに今風の若者の風貌であることに時空を超えた普遍性を感じた。阿修羅だけでなく八部衆はジャニーズ系だ。ははあ、アイドル見たさにみんな行列したのかな? いや,東京でも太宰府でも後ろ姿が見れるのは今回だけ、と宣伝してたっけ。後ろ見て「ああコウなってるのか」と、これで2時間並んだ甲斐もあったと,皆さん満足して帰ったのだろう。

興福寺は平城遷都の710年に藤原の不比等によって建立された藤原一族の氏寺。聖武天皇発願の官寺,東大寺と並ぶ南都の大寺として繁栄を誇ったが、その1300年の歴史の中では度重なる戦火、天災で堂塔はで大きなダメージを受けた。特に1180年(治承8年)の平家による南都焼き討ちで寺は焼失するが鎌倉期に再建される。江戸期に入り1717年(享保2年)の大火では中金堂を始め中心伽藍のほとんどが焼失した。直近の破壊は明治維新後の廃仏棄釈の嵐によるものだ。このときは興福寺自らの仏の道の放棄による荒廃も進んだ。五重塔は250円、三重塔は20円で売却(その後破壊を免れたが)、僧侶はことごとく還俗し、あるいは春日大社に帰属し、一時は西大寺の住職によって寺としての命脈が保たれた時期もあった。

こうした中、国宝館には数多くの仏像が今もその姿を止めていることは奇跡に近い。もちろん天平のジャニーズ阿修羅もその一つ。明治期初期には多くの仏像が破却され、川に流され、あるいは海外に流出した。かつての文化大革命における中国3000年の文物の破壊や、タリバンによるバーミアン石窟の爆破の例は対岸の理不尽ではない。この日の本でも起こった。人間の歴史においては時代の大きな変換点ではこのような極端な文化の破壊が起こって来た。

阿修羅はこうした過酷な歴史をくぐり抜け、場所を換えながら生き残って来た。長く厳しい時空旅から戻った。慈愛に満ちた観音の表情とは異なる少年のまなざし。その眉はジャニ系アイドルのそれじゃなくて、人の修羅を見て来た眼と一対になった眉だ。いま興福寺の復興とその復興事業のシンボルとしての中金堂再建のための資金集めに、この阿修羅が地方巡業で一役買ったのが東京と太宰府への旅だったとはね。

この日は他に奈良国立博物館もゆっくりと見ることが出来た。仏像の宝庫とは聞いていたが.....ううん。その数はすごい。しかし、こうなると信仰の対象というよりも、如来も菩薩も明王も天もここでは鑑賞の対象だ。仏教古美術のショーケースという佇まいだ。当世はやりの「歴女」「仏女」のにぎやかな歓声がますます、抹香臭さどころか世俗の匂いをまき散らしている。楽しくなって来た。

師走の日没は早い。寒さも一段と増して来たので,そそくさと近鉄奈良線の快速急行三宮行きで大阪上本町(うえろく)まで帰る。いつもの時空旅の週末のように上本町近鉄百貨店の銀座アスターでアスター麺食って帰ろうっと.... あっ、その前に,本屋に寄っていつも立ち読みしかしなかった杉本博司の「現(うつつ)な像」を今日は買って読もう。
現な像現な像
価格:¥ 2,520(税込)
発売日:2008-12

2009年12月1日火曜日

錦秋 京都 

今週末が今年最後の紅葉ハンティングのピークだ...  あまり観光客で混雑する歴史サイトへの時空旅行を避ける傾向の私も、そんなこと言ってられずにカメラをバッグに押し込んで家を飛び出した。朝起きると幸い昨日の天気予報に反し晴れ。京橋から京阪電車に飛び乗って三条まで。そこから京都市営地下鉄に乗り換え蹴上までゆく。いつものルートだ。
京都の紅葉ハイライト地区の一つである南禅寺、永観堂、真如堂、金戒光明寺コースを巡って紅葉を堪能して帰って来た。


南禅寺三門あたりが見頃のピークだ。人の波を避けた撮影に苦労したが、それ以上になかなか紅葉写真は難しい。照ったり曇ったりする光線下でチャンスを狙ったのだが、結果は...


色づきはよいようだ。晴れと曇りではかなり印象が異なりシャッタータイミングが難しい。




紅葉といえば永観堂、で、大勢の観光客で大変な騒ぎだった。見返り阿弥陀仏を拝ませてもらったうえに、赤や黄色の紅葉が美しくやはり来た甲斐あり。それにしてもの人の波。


真如堂。こちらは比較的落ち着いた雰囲気。真正極楽寺というのが本来の名前。本当に心落ち着く癒しの寺だ。銀杏と紅葉のコントラストが美しかったがなかなか表現し切れてない。腕が未熟。


真如堂の黒い塔が青空と銀杏の黄色と紅葉の赤に包まれて印象的


金戒光明寺の山門。日も西に傾きさらに人は少なくなって静かになるが、この紅葉は見事!

という訳で、心のフィルム(CCD?)にはしっかりと紅葉の美しさが写りこんだのだが、この写真家の愛用ニコンにはなかなかうまく収まらず、心の興奮とそれを表現しきれない我が腕、そのギャップに愕然としながら夕闇迫る出町柳から帰途についた。

錦秋 奈良公園

京都に続き、せっかくだから奈良の紅葉も求めて。鶴橋から近鉄で奈良まで。あいにくの天気で、きらめく錦秋という訳には行かないが、かえって落ち着いた奈良らしい紅葉が楽しめた。人気の京都に比べるとぐっと人出が少ない。また、広い奈良公園のあちこちに紅葉スポットがあり、鹿と戯れながらゆっくりと散策しながら移り行く季節を愛でるならやはり奈良がおすすめだ。


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正倉院の横にある池から東大寺大仏殿と若草山を望む。絶景ポイントの一つだ。この辺りは観光コースから少し離れているだけで静かに錦綾なす秋を楽しむことが出来る。

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銀杏の黄色がピーク。池の水面に映える姿は絶品。

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紅葉も今が盛り。水面の小さなさざ波に奈良の静けさを感じることが出来る。

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東大寺二月堂。奈良観光の定番コースであるが、秋にはこのような赤と黄色の錦の美しさに彩られることを初めて知った。

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春日大社への道すがら。鬱蒼とした森を歩くと真っ赤な紅葉に出くわす。

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苔むすつくばいにひとひらの紅葉が。依水園にて。

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奈良公園はのどかなり。銀杏の黄色い絨毯で遊ぶ幼子達がこの季節の主役だ。

いつもの奈良公園が,この季節は一段と鮮やかで華やかになる。それでも京都のように喧噪に巻き込まれることなくゆったりと出来るのは、かつて南都大寺が平城京廃都後も広大な寺域を持っていたからだ。今の奈良公園は東大寺と興福寺と春日大社の敷地だった。隆盛を誇る藤原氏の氏寺である興福寺は平安末期の平家の南都焼き討ち以来、度重なる災いに見舞われ、さらに明治期の廃仏棄釈の中で多くの堂塔を廃棄し見る影もなくなっていた。しかし残された広大な敷地が今の奈良公園の創設に役立った。興福寺もこのたび金堂,講堂や南大門の再建に乗出した。阿修羅像の東京、太宰府での公開もその資金集めに貢献した訳だ。脈々と続く奈良の伝統。平安京に都が移っても依然奈良は京都のみやこびとのあこがれの土地であった。今、ちょうど都が東京に移っても京都があこがれの土地であるように。

2009年11月15日日曜日

ついに卑弥呼の宮殿跡見つかる!?

纒向遺跡の発掘調査で3世紀の大型の居館と見られる建物跡が見つかったことがNHKや新聞報道で流れた。日経新聞も邪馬台国論争を特集するなど、早速,邪馬台国の卑弥呼の宮殿跡ではないか、と多くの考古学ファンが夢を膨らませている。

時空トラベラーも最近はかなり「邪馬台国近畿説」に近づいてきたので、このニュースに「やはり出たか!」と心が騒ぐ。秋も深まったし久しぶりに三輪山、山辺の道に紅葉を求めて散策しようと、週末、紅葉で有名な長岳寺へでかける事にした。そして「ついでに」そのJR桜井線巻向駅近くの発掘現場を訪ねてみようと。

邪馬台国ファンの私が何故「ついで」なのか? 素直に飛んでけば良いものを...  一つには、遺跡といってもどうせ柱が立っていた跡の穴が並んでるだけだろう(それを言っちゃあおしまいだが)。そして、そこへ大勢の人が押すな押すなで殺到する。日本の古代遺跡は草むす無人の野原だったり、石造物が一つポツンと建っていたり、松の木が一本目印然としてたたずんでいて風が吹き渡ってたりするのが想像をかき立てて良いのに... そしてもう一つにはそこが卑弥呼の館だと断定されたら、その時点でロマンは終わり。文献調査や、考古学調査は誰かがやってくれれば良い。その成果の話は聞きたいが、発掘現場を見たからといって素人に何かがわかる訳でもない... 永遠に「幻の邪馬台国」であって欲しい... などといいろいろ言い訳をしながら、人ごみに出て行く事をいとっているのだ。ブームが去って人気がなくなったら行くタイプだ。

いつもの近鉄桜井駅で降りると、ちょうどJR桜井線の奈良行きがうまく接続している。JRの駅はいつもと違い大勢のそれとすぐわかる「考古学ファン」の群れでホームはあふれていた。たいていが中高年のハイキングスタイルの男女(おじさん、おばさん)。関西の中高年は元気やわ、ホンマ。二両編成のワンマン電車は珍しく満員状態。私は柳本で降りるのだが、案の定一つ手前の巻向でほとんどの乗客がドッとが降りた。すごい!いつもは無人駅なのに今日は駅員が5人もいて切符受け取ったり案内したり.....大騒ぎ。

龍王山を背景とした長岳寺の紅葉はきれいだった。こちらも山辺の道ハイカーが集まっていたが、静に深まる秋を楽しみ、写真を心ゆくまで撮ることが出来た。そこから、多くの人は山辺の道を三輪方面か、天理方面に歩いてゆくのだが、へそ曲がりで人と同じ事するのがキライな時空トラベラーは、柳本の町まで戻り、そこから南へ古代官道「上つ道」を下った。後の世になって伊勢街道と呼ばれるこの道は三輪山や二上山を左右に仰ぎながら大和の集落を見て歩くのにちょうど良い。歩くこと約25分、先ほどの巻向駅までたどり着いた。さて、時間は4時半。人は先ほどに比べると少し減ったようだ。ここまで来たらくだんの発掘現場を見てゆくか... 駅の脇の空き地に受付センターなるテント小屋ができていて今回の発掘概容を説明した資料をくれる。なかなか良くできた資料だ。ツアーはもう終わりだ、と言ってたが、発掘担当者がいるので説明を聞けるとの事。
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現地は住宅街の中で、巻向駅プラットホームのすぐ目の前の空き地だ。ここに立って辺りを見回すと、東に三輪山を、そして西には雲間からの夕日の光芒に映し出される二上山、金剛山を望むことが出来る。ここが何かしら神聖で特別な場所であることが実感できる。それが魏志倭人伝に言うところの邪馬台国かどうかは別にしても。やはり現地に立ってみることは古代世界を時空トリップする為には大事だ。それだけで来て良かった(あまのじゃくな自分...)。

居館は当時は二本の川(現在は川は消滅している)に挟まれた微高地に位置しており、東西軸の一直線上にに4棟が配列されている(東に三輪山に、西に金剛山、二上山)。一番大きな建物は南北19.2m、東西12.4m、床面積238.08㎡で、これまでに発掘された3世紀中葉の建物の中では日本最大。高床式の神殿のような建物で、祭祀および権力者の居室をかねていたものらしい。建物の配置などが後の時代の宮殿の原型になるもののようだ。また出雲大社の建築にも通じるものだという。しかし、7世紀以降の大和朝廷の時代に入ってからの宮殿が南北軸上に配されるようになったのは中国の「天子南面す」の考えが入ってきてからのことのようだ。従ってこの東西の居館配置はまだ中国の影響を受ける前のものなのだろうか。

しかしこれが卑弥呼の宮殿だったのか? ここに邪馬台国があったのか? まだ明確な証拠は見つかっていない。当時の邪馬台国が筑紫の奴国や伊都国など30カ国余も支配下に置くの広範な倭国連合王国の盟主であったとしたら(それが経済的、軍事的に倭国を支配したのではなく、ある種の祭祀を司る権威で擁立されたものだとしても)、その女王である卑弥呼の居館としてはこの建物は少し小さいような気がする。この三輪地域の王(豪族)の居館くらいの規模だといってもおかしくない。ただ、この建物の東にさらに大きな建物がある可能性もあると言う。この居館の周辺がどのようになっていたのかが興味深い。今後の発掘に期待したい。

L1020645考古学ファン,とりわけ邪馬台国近畿説論者の期待にも関わらず、これが卑弥呼の建物なのかどうかはまだ確定できない。年代法によれば3世紀中頃のものだというが、これに異を唱える学者もいる。いずれにせよ、九州の吉野ケ里遺跡のような農耕と生活のための集落とは異なり、生活臭がなく、ある意図を持って人為的に建設された「都市」が纒向遺跡の特色だと言われてきたが、中心となるような宮殿、神殿にあたる建物が見つかっていなかったことが難点であった。そこでこのような政治や祭祀の場として建設されたであろう建物群が見つかった事は意義深い。ヤマト王権のルーツ、日本の古代史の未知の部分を解き明かす手がかりの一つになることは間違いないだろう。
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2009年11月12日木曜日

新・大大阪の夢 (御堂筋編)

先週末は土曜日には、奈良西ノ京の唐招提寺へ平成の修理完成落慶法要が済んだ金堂を見に、また東塔の解体修理が始まる薬師寺へ行った。
この写真は別途掲載するつもりだが、秋の観光シーズンたけなわであることも相まって、大勢の人出で、こころしずかに金堂の修復を愛で、諸仏に手を合わせる雰囲気ではなかった。

唐招提寺は入山に大勢の人の列。皆さんよく知ってるんだなあ。しかも寺院、仏像ブームもあって若い女性「仏女」が目立つ。特に薬師寺は東塔の解体修理への寄進イベントなのか、大勢の善男善女が東塔の公開に長蛇の列をなし、写経納経の受付でテントが並び、坊さんはハンドマイク片手に走り回わり、ライブイベント開催で金堂と講堂の間は立ち入り禁止。

ちょっと来る時期を間違えたなあ。

で、次の日には、がらりと趣向を換えて大阪の近代建築遺産を求めて,「新.大大阪の夢」シリーズの第3弾として御堂筋をライカM9片手に徘徊する。

だんだん「ブラタモリ」風になってきたなあ.....

今回は淀屋橋を起点に南へ歩く。日曜日とあってオフィス街のこのあたりは人気が少なく,ゆっくりとブラパチ散策を楽しむことが出来た。

ビルの前で立ち止まって一生懸命カメラで下から上を仰ぎ見ていると、通りがかりの人が「なに撮ってんやろ?」と一緒になってビルを見上げるのが楽しい。つい,「このビルは素敵ですねえ」、「フーン、昔から建っとるけどな...」などと自転車に乗ったオッチャンと,ほとんど意味のない会話が成立するのが良い。大阪人は東京人のように周りに無関心(あるいは無関心を装っている)でないのがよい。気取りがなくて「好っきゃで」大阪!

そういえばニューヨークで建築写真撮ってたときも同じ経験をした。たいがいは「Oh, Nikon. Good Camera, isn't it?」と声をかけられる。建物ではなくカメラの方に関心が。ホームレスのおじさん(オニイさん?)がブツブツとカメラのうんちくを語り、最後に,要はナイコンが最高だ,と言って去っていったこともあった。通りがかりのおばさんが建築評論家よろしく,延々と建物の故事来歴を聞かせてくれたこともあった。大阪はニューヨークだ。人がオープンでよそよそしくない。

まずは、堂々とした白い石の塊、日本生命本館。そこから東に折れて緒方洪庵の適塾跡とその隣の大阪市立愛珠幼稚園、八木通商本社ビル、再び御堂筋に戻り大阪ガスビル、又一ビル、そして心斎橋大丸本館と写真を撮り回った。どれも大大阪を代表する近代建築であるが、その有様がそれぞれで楽しい。大阪は面白い!

なかでも一番感動したのは、日本で一番古いと言われる愛珠幼稚園だ。堂々たる近代建築群とは異なり、堂々たる日本建築。明治34年竣工。これが幼稚園か。しかもまだ現役の...  大大阪の中心地にこんな広大な敷地を有する幼稚園。船場の旦さん、ゴリョんさんの底力を見せつけられる。

もう一つは大阪ガスビル。昭和モダニズム建築の粋と言っていいだろう。1933年竣工で、ちょうど御堂筋拡張工事が本町通りまで進んだ時期だ。ここではガスを使った近代的な家庭生活をショールームとして紹介していたようだ。今でも最上階のレストランは大阪モダンの象徴である。大阪ってすごい町だったんだ。御堂筋のランドマークだ。

もちろん大丸心斎橋店ビルはウイリアム・ヴォリス設計の大阪を代表するアールヌーボー建築。御影石とスクラッチタイル、テラコッタの3段重ね。すごい装飾に覆われている。最近はデパートが景気悪くって、つぎつぎ店を畳んでる。大丸の隣のそごうも近代建築の代表的な建物であったが、取り壊されて新生そごうの本店として高層ビルに建て直された。それもつかの間、結局そごうは心斎橋から撤退を決めて、隣のライバル店、大丸へ売却。大丸北館として11月14日に再オープンする。大丸さんがんばってくれよな。一生懸命買い物するよってな、この建物の為にも。それだけの価値のある建物だよ。

最近の経済情勢を見るにつけ、「昔はよかったなあ」などと,年寄り臭い感慨に浸るのは嫌だけど、御堂筋沿いの古き良き時代の大大阪の建築遺産を見せつけられると、つい過去を振り返りたくなってしまう。

日本もヨーロッパの古い町のように時間の経過とともに熟成した町が増えると良いのだが。残念ながら日本は近代資本主義の時代に入ってわずか100年余。蓄積された近代建築の町並みが充分に景観として形成され熟成する時間を経ていないのと、その間に戦争や地震で失われてしまったのと、高度経済成長の時代に惜しげもなく取り壊してしまったのとで、ヨーロッパの都会ほどに厚みのある景観が残されていないのが残念だ。大阪の町に残された、数少なくなりつつある栄光の時代の遺産をこれからも大事に残してゆく努力が必要だろう。

むしろ,繁栄を享受した大都市よりも経済発展に取り残された地域、であるが故に戦争で空襲も受けず、地上げにも遭わずに残った地方の田舎の方に日本らしい町並みが残っているのは皮肉だ。こうした景観の集積は貴重で、これが普通の町の普通の景観になって欲しい。これからはこれらを大事に文化遺産として、今度こそ破壊せずに後世に残していかねばならないと思う。

2009年11月9日月曜日

新・大大阪の夢 (堂島・中之島編)

 前回,中之島のダイビル建て替えの話を書いたが、取り壊される前に是非一度見ておきたいと秋晴れの休日に訪ねた。
残念ながら建物は既に閉鎖されていて中をみることは出来なかったが、外観をカメラでなめ回してきたので下のアルバムでご覧あれ。ちなみにカメラはゲットしたばかりのライカM9。こうしたクラシックな建物をとるのにはちょうどいいカメラだ。が、一眼レフからスイッチすると、やはりレンジファインダーでのフレーミングがなかなかうまく行かなくて慣れるまで苦労した。だがエルマリート28mmの歪曲の少ない写りは、M9ボディーとのマッチングが最高であること示している。どうだ!

 中之島は再開発が進み、京阪の中之島線も去年10月に地下に開通してロイヤルホテルまで通じた。かつて山崎豊子の小説「白い巨塔」の舞台となった旧大阪大学医学部跡は堂島リバーフォーラムや朝日放送本社、タワーマンションなどに生まれ変わった。その向かいの旧大阪中央電信局、電話局は堂島テレパークとして建替えられ、今でもNTTグループの西日本の重要拠点として存在感を誇示している。堂島電電ビルとNTT西日本堂島ビルに挟まれた鉄塔が低く見えてしまう。この鉄塔はかつてここが全国の電話中継網の西のハブであったことを示すしていたのだが..... このようにここダイビルだけが周囲の新しい高層ビル群の中で圧倒的な存在感を持ってワイドスパンの敷地にドッカと座っている。周囲は関西電力本店ビルや,新ダイビル、三井ビルなどの高層オフィスビルやタワーマンションに囲まれてしまっているが。

 ダイビルは遠くからみると重厚な外見で,一見装飾性を排したシンプルなオフィスビルに見える。しかし,近寄ってみると外壁一面を覆うのはスクラッチタイル。壁からエントランスにかけて豪華な装飾の連続である。連続する柱は蛇や人面や動物のモチーフのテラコッタ装飾で飾られ,メインエントランスはことのほか豪華なレリーフで飾りまくられている。これらの一階の柱や外壁に用いられている石材は龍山石というものらしい。住友銀行本店ビルの外装全面にも用いられている石材だそうだ。

 残念ながら既に内部をみることは出来なくなってしまったが、一階のアーケードは吹き抜けの大天井、華やかな照明器具、漆黒のエレベータ、渋い金色に輝くメールボックスなど、徹底的に豪華さを誇るインテリアであるそうだ。残念。キット東京日比谷の三信ビル内のアーケードの様だったんだろうなあ。こちらは跡形もなく解体されてしまったが.....

 隣に新しい中之島ダイビルが建てられているが,こちらは低層部にクラシックな装飾が施されて,その上に高層のタワーが屹立している。ダイビルも立て替え後のイメージはこんなものなのだろうか。内部は確かに明るく合理的な空間と機能美のコラボレーションがさすがであるが、外見は最近流行の「壊してごめんね、だけど一応残しました」風の高層ビルだ。日本は古い建物の保存や修復に補助金や税金面での優遇措置などないのでビルオーナーだけに保存を押し付けるのは無理かもしれない。もう少し市民の側もこうしたビルのオリジナリティーや景観の価値を認識すべきだろう。

 土佐堀川沿いに東へ進むと、朝日新聞大阪本社、旧住友銀行本店があたりを圧倒する威容で立っている。高層ビルに囲まれて高さ的には睥睨することは出来ないが、その存在感は圧倒的である。この朝日ビル旧館はダイビルの4年後に竣工した古いビルだが、外見は古さを感じさせないモダンなものだ。御堂筋のガスビルにも通じる当時としては未来を予感させる景観をあたりにつくりだしていたに違いない。こちらも新・旧両方のビルが建替え計画中だ。

 西から見ると阪神高速の高架に視界を遮られた旧・住友銀行本店ビルはまさに大大阪を象徴するビルだ。土佐堀川沿いに建つフルブロックの建物の威厳と自信に満ちた有様は周りを黙らせるオーラを持っている。当時としては珍しく銀行内に建築部門を設け設計にあたらせたという力の入れ様だったと聞く。メンバーは辰野金吾の弟子達でその後の日本の建築史に名を刻む建築家がここで育った。第一期大正15年(1926年)、第二期昭和5年(1930年)の2期に渡って完成させた。その設計に携わった建築家の長谷部鋭吉、竹越健造がその後独立して開いたのが日本最大の設計事務所、日建設計である。

 さらに東へ向かうと、錦橋、淀屋橋、日本銀行大阪支店、大阪市役所、中之島図書館、中之島公会堂、と大阪のプロムナードをつなぎ、北浜の旧・大林組本店、大阪証券取引所,と続く。堂島川(旧・淀川)土佐堀川沿いの大大阪の東西軸のハイライトだ。どうだ,大阪はすごいだろう、とばかりに。

2009年11月8日日曜日

Leica M9 我が戦列に加わる!

とうとうM9がやってきた。
悩んだが選んだのはスチールグレーではなく,ブラックペイントボディーだ。

外見の違いはあまりなくて拍子ヌケするくらいだ。強いてあげれば、軍艦部の撮影枚数/バッテリー表示用の丸い液晶表示窓がなくなって、アナログMライカで継承されてきた巻き戻しクランク部の段差が復活した。別に機能的な意味はないがライカMシリーズを愛用してきたファンへのサービスみたいなものだ。その他はライカロゴマークがM8.2では黒であったのが赤に変わったことくらいで基本的にはM8とおなじ。あっ、あとアクセサリーシューがシルバーになってる。

中身だが、一番の変更点は,もちろん撮像素子が1800万画素フルサイズCCD(Kodak製は変わらずだが)となったことだ。つまり、M8がAPS-HサイズCCD(レンズ焦点距離が表示の1.3倍になる)であったのに対し、35mm判フィルムサイズ、すなわち「ライカ判」になった。これはライカ愛国主義者にとっては、他国に奪われし故国を取り戻したようなエポックメイキングな出来事なのだ。これで銀塩35mmフィルム用のM3、4、5、6、7などで使っていた従来からのライカレンズ資産(Mであれ,マウントアダプターを介してLであれ)がほぼ全てオリジナルの焦点距離で使えるようになったという事だ。50mmは50mmで、35mmは35mmで.....

実用的には50mm標準レンズが1.3倍の65mmの焦点距離となっても、それはそれで使いこなせるのだが,ライカ愛国主義同盟にとってそんな妥協は許されない。ライカのデジタルカメラが「ライカ判」を取り戻したことが画期的なのだ。いわば家元の権威を守ったことになるのだ。

これまでのM型ライカのボディー形状をほとんど変えることなく(デジタルになってちょっとメタボボディーにはなったが)フルサイズCCDを搭載したのだ。短いフランジバック(レンズ後端からフィルム面(撮像素子面)までの長さ)を大きく変えることなくデジタル化し、さらにフルサイズ化する。これはやはりドイツ人職人魂の勝利だろう。あくまでもレンズ資産を大事にするライカ愛国主義者の熱い支持を裏切らないボディー造りには技術的な格闘があったにちがいない。明らかにゼロからデジタルカメラを作り変える方が設計の自由度があって楽だっただろうと思う。

デジタル一眼レフですらライブビューを導入しているのに、あくまでも光学式のレンジファインダーにこだわり、ご丁寧に電池とメモリーカードの装填に、フィルム時代の底蓋を開けてフィルムの装填をするあのめんどくさい方式をユーザに強いたり。ライカならではのお作法を守る本家ライカ流家元の伝統をしっかりと受け継いでいる。

ライカ社はM9を「世界最小のフルサイズデジタルカメラ」とうたってる。ライカ愛国主義者同盟にとっては「世界最小」かどうかはどうでも良いことだ。むしろそんなことを日本製の高機能デジカメとの差異化要因としてキャッチコピーに使っていることには「怒っている」というよりは「笑ってしまう」。

このようにライカはニコンやキャノンとは異なる道具なのだ。決して比較などしてはならない。機能が劣っているとか、使いにくいとか、不合理だとか。そんなことが気になる人は使うなよ,という態度の人だけがライカ愛国主義者になれる。「こだわり」には時として合理性を超えた価値が含まれていることがあるんです。

さて、M9で,その他の改良点や気付いたところを箇条書きにしてみる。

1)レンズの6ビットコードの光学的自動読み取りはそのままだが、各種のレンズ情報がプリインストールされてマニュアルで選択、設定出来るようになった。これはいい。アナログ時代のレンズ資産を大事に使っているライカ主義者へ敬意を払うのであれば,ある意味当然の機能であろう。もっとも、いまだにこのレンズ情報を設定することによって何が変わるのかイマイチよく分からないが。

2)相変わらずローパスフィルターは省かれており、それがライカデジタルらしいクリアーでヌケの良い画像造りに寄与している。M8で問題になっていたマゼンダかぶり防止用のフィルターはボディー内の撮像素子前面に取り付けられ,レンズの前にいちいち変な色のフィルターを装着する必要がなくなった。これもM8からの改良だ(が、そもそもマゼンダかぶり起こすこと自体は欠陥なんじゃないのかな?)。

3)ISO感度設定ボタンがつきやりやすくなった。またISO80から2500まで選択出来る。実用的な感度もM8では320までで、それ以上だとノイズが目立って使う気になれなかった。M9では1000までなら使える。

4)露出補正がファインダーのぞきながらダイアルで設定出来るようになり、液晶画面上での設定と選択出来るようになった(M8でもファームウェアーバージジョンアップでダイアルでも可能となったはずだが,シャッターボタン半押しのタイミングが合わないととても設定が難しかった。何故なんだろう?)。これは使い勝手が向上した。

5)シャッター(音)の種類が4種から選択可能となった。しかし「静音」モードもそんなに明らかに静かかどうか.....ライカM3の横走り布幕フォーカルプレーンシャッターの、あの感触ではない。ディレーモードも日本のカメラメーカーの発想ではないなあ。

6)M8.2で「売り」であったスナップショットモードがなくなった(正確に言うとソフト的に選択する方式となった為、シャッターダイアルから「S」がなくなった)。そもそもこんなまやかしのスナップショットモードが保守的なこだわりライカ主義者にウケるとでも思ったのだろうか? 意図がわからん。まあとにかく視界から消えてよかった。

7)オートブラッケティングが設けられた。これは改良だ。今までなかったのが不思議だが。

8)バッテリー残量、撮影枚数(SDカード残量)はINFOボタンで液晶画面で確認するようになった。撮影枚数は時々ボタンを押して確認しないと,突然SDカードフルになり撮影がストップしてしまう。バッテリーの減り方が早くなったようだ。ちなみにこの画面だけがカラー表示なのは何故? 

全体としてより完成度が高まりつつある(「高まった」とまでは言えない)感じだ。くらべちゃいけない,と言いながらついつい日本製のデジ一とくらべてしまうが、ソフトウェアーに手を入れることで追加出来る機能はいろいろあるはずなのに何故やらないのかな。例えばニコンのアクティブDライティングのようなダイナミックレンジを拡張する機能を追加するのは難しいのだろうか?せっかくレンズ情報を読ませる仕掛けを持ってるんだから、これを使った新機能をファームウェアーアップデートで追加してくれるとうれしいのだが。

同梱の画像処理ソフトがAdobe Photoshop Lightroom となったことは歓迎だ。Capture One(この日本語表示は意味不明が多い)よりは遥かに使い勝手がよいことは言うまでもない。また本体の画像エンジンに手が加えられたのであろう、画像の彩度が上がってよりビビッドな色調になったようだ。私好みだ。しかし,相変わらずホワイトバランスが不安定で、特にオートにすると暴れがち。条件によってはとんでもない色調に飛んだりする。これって何とかならないのか。ソフトウェアーで改良出来るんじゃないのかなあ? パソコンでLightroomで修正しろってことですか?あと、画像の読み込み速度が(特にRaw+JPEG Fineや連写で)遅いが、まあ、これ以上ニコンやキャノンと比べるのは止めとこう。

とにかく,今風の性能スペックや操作性よりも道具としての物理的な感触(とりわけ真鍮削り出しの堅牢な軍艦部)や、所有欲を満たすステータスで存在感を主張するカメラだ、ということだろう。もちろん「うまく撮れたときの」ライカ写真の息をのむ素晴らしさが一番の魅力だが。ライカ社はアサカメのインタビューなどで、性能的にも他社のデジ一と遜色ないレベルになった,と言っているが、ううん.....そうかなあ.....

ライカMレンズ群の「味」はなかなか他社の追随を許さない。それを遺憾なく発揮させるボディーはやはりライカMシリーズしかない。特にフルサイズ化した意味は大きい。であるが故にその伝統のシステムとそれを支えるプラットフォームにこだわると操作感に一歩譲る点がどうしても出てくる,という事なのだろう。しかし,それは欠点ではなく違う種類の楽しみを与えてくれる道具であるということに行き着く。レンジファインダーはプリズムや液晶を通して観るのではない,もう一つの「眼」を提供してくれるのだし、使いにくさは「道具を操る喜び」を与えてくれる。そして「ライカ流写真術のお作法」の楽しみを与えてくれる。それを愛する人こそライカ愛国主義者といえる。またそういって自分の選択を正当化するのがライカユーザでもある。

2009年11月2日月曜日

昭和の情景 〜宮本常一との時空旅〜

平成も21年が経ち、間もなく22年になろうとしている。「昭和は遠くなりにけり」。昭和は歴史になりつつある。書店を廻ると「昭和もの」の本が平積みになっている。これも懐古的昭和ブームの現れなんだろう。「今」を生きている20代から80代の人々の大部分が昭和生まれなのだから。ポテンシャルな購買層はまことに広い。なにしろ「昭和の町」なるものまで地域おこしで出現しているくらいだから

昭和は長い。戦前,戦中,戦後、高度成長期、とまさに日本の歴史の中の激動の時代だ。
私は戦後生まれのベビーブーマー、団塊世代の最後尾の世代だが、戦争の余塵を知っている世代でもある。父母、祖父母から聞いた戦争の悲惨さ、日本人が味わった歴史的屈辱、戦前と戦後の価値観激変ギャップへのとまどいの話からだけではない。 当時、福岡で育った小学生,中学生の私にとって戦争の残した土煙は日常の光景でもあった。特攻隊生き残りの小学校の先生(やさくれていた。すぐに生徒にもビンタが飛んだ。体罰なんて普通だった。)、小学校の同級生は満州、朝鮮半島からの引揚者(博多港は引揚げ港だった)の子供達が多かった。反対に大陸の故郷へ帰れない在日の子も友達にたくさんいた。皆名前は日本名だったが... 学校給食で出た米国支援物資の脱脂粉乳ミルク(まずい。しかしこれで育った)、南公園の高台に設置されていた米軍(進駐軍といっていた)の高射砲陣地(朝鮮半島を向いていた)、雁ノ巣の米軍飛行場(大きな格納庫と小さなかまぼこ兵舎が....)、春日原、白木原の米軍キャンプ(そこはアメリカだった)、博多の町を走り回るジープ(Give me chocolate.か?)、ラジオから聞こえるFEN「This is the Far East Network from Itazuke.」。南公園の動物園は米軍家族デーには我ら少国民は入れなかった。迷彩塗装の残る修猷館の校舎(なんで消さなかったの?)、新天町、西鉄街のバラック商店街の賑わい、土埃の電車道、街頭の傷痍軍人のアコーディオンとバイオリンの音.....全ては私自身の生活体感から来るあの頃の昭和の光景だ。後で知ったが、なんと私は連合国軍占領下の日本で生まれたのだ。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約調印のわずか以前。Made in Occupied Japanじゃなくて、Born in Occupied Japanだ!

昭和の写真集もいろいろあるが、そういった中でふと眼にとまった写真集があった。「宮本常一が撮った昭和の情景」(毎日新聞)上下二巻である。いや、正確に言えばこれは写真集ではなく、宮本常一氏自身も写真家ではない。著名な民俗学者である。宮本氏が日本全国を旅して撮りためた10万枚に及ぶ写真は昭和の日本人の輝きと忘れられていた昭和を克明に記録した,いわば民俗学フィールドノートである。

しかし,そこに記録された昭和の人々の生活やそれを取り巻く情景は、どんな写真家の写真集にも残されていない貴重な作品だ。本の帯に記載された宮本氏自身の言葉「旅の中でいわゆる民俗的なことよりも,そこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。.....民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えてきた。」と。

上巻は昭和30年〜39年,下巻は昭和40年〜55年の記録である。従ってそこに記録されているのは終戦直後の焼け跡の姿ではなく、高度経済成長前夜の人々の貧しくものたくましい日常の生活だ。そしてそこに写し出されているモノクロ写真の人々の姿、情景は古写真のそれではなく、私の記憶の中に鮮やかに蘇る私自身の情景だ。坊主頭にランニングシャツの男の子は靴下なしでズック靴。女の子はおかっぱ頭にゴムの入ったスカートかちょうちんブルマ。足には下駄。なんと粗末な姿だ。しかしなんと笑顔が輝いていることか。

ただただ懐かしいという気持ちと、「あの時」と「今」とのギャップへの驚きと、そして、豊かになったはずの「今」の我々が失ってしまったものがそこに鮮やかに写し出されていることへの感動と。自分自身が、「あの時」とはすっかり変わってしまっていたことを確認させられたような気分になる。しかし、一方忘れかけていた幼い日のナイーブな自分をフラッシュバックさせてくれる。写真家とは異なる民俗学者としての視点と、事実を事実として記録する科学者の眼。そして宮本氏が述べているように旅の中で知った民衆の生活自体への愛情がこの2冊にあふれている。ArtとしてではなくScienceとして記録し続けたものの中にArtを垣間みることが出来る。なんと楽しいことよ。

ちなみに、これらの写真はオリンパス・ペンSで撮られたものだそうだ。そのことが益々私にとっては愛着を感じさせる本になっている。高価なニコンやライカではなく、文字通り手軽にいつも持ち歩けるペンで綴られた写真ノートだ。フィルムが高価だった時代にハーフサイズで36枚撮りフィルムなら72枚も撮れる。メモ代わりに撮って歩くには最適な選択肢であっただろう。私的にも「写真家」ならぬ「写真家」ならではの愛着を感じざるを得ない。私が中学生の時、修学旅行用にと父が初めて買ってくれたカメラがこのオリンパス・ペンだった。これが「写真機家」の始まりだったわけだから。

”「眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和35年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした。......だが3万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何かを見、何かを感じようとしたかはわかるだろう。それはそれで記録としてものこるものだと思う。」”(宮本常一『私の日本地図1 天竜川に沿って』(あとがき)




2009年11月1日日曜日

突然ですがライカM9が入荷しました

いつも新品ライカ購入のときにお世話になっている日本橋のF越写真機店のS藤さんから電話だ。
M9発表のときに、一応、入荷は何時頃になりそうかメールで問い合わせていたのだ。
「入りましたけどどうしますか?」と。
「どうしますか」はないでしょう。欲しいに決まってるよ.....
心の底はすっかり見透かされている。
年内はとても無理かと思っていたが,思いがけずお早いお着きで。
さて困った。こんなに早くちゃあ手元資金がないのでどうにもならない。
金の工面はできるか.....
やっぱりM8や、キャノンや、溜まったデジタル機材をかき集めて売るしかない。
どうせデジカメは消費財だ。愛着を振り捨てれば出来なくはない。
どうにかキャッシュアウト最小限でゲットできそうだ。
愛機を売ってでもなんとか買おうという執念。
ゲニ恐ろしきは物欲煩悩。

2009年10月27日火曜日

久しぶりの大阪 ー 新・大大阪の夢 ー

すっかり秋も深まった大阪へ戻ってきた。薄暗くて寒い昨日に比べ,今日は久しぶりの晴天。しかし,大阪は何とも季節感のない町だ。緑地面積が少ないせいか?東京の方が季節の移ろいを感じることが出来る。大阪城公園では紅葉が始まっていることがオフィスの窓から分かるが。

今日の日経新聞に中之島のダイビル建て替えの話が出ている。大正14年(1925年)竣工の大大阪を象徴する8階建ての堂々たる洋風建築のビルだ。設計は当時の関西を代表する建築家渡辺節。他にも神戸の商船三井ビルなどを手がけている。外装はスクラッチスタイルの茶褐色のレンガ造り。内部はにはアーケードを設けるなど、発展する大阪を象徴する代表的なビルである。結局はこのビルの取り壊しを惜しむ声に応えて、2013年完成を目指す新ダイビルは低層部に現在の外観を復元し,上に高層棟を継ぎ足した地上22階建てのビルとすることで決着した。外装のレンガや石材を保存して復元し、内装も床タイルを再利用する。

東京でもこのような「保存」措置がとられた新ビルが数多くみられる。第一生命ビル、農林中金ビル、明治生命ビル、銀行協会、丸ビル、新丸ビル、みな眼の高さは近代建築としての景観を残したが,見上げると高層のグラスアンドスチールビルだ。しかも高さがどれも異なるので町並みが不揃いになってしまった。私が記憶するお堀端から丸の内辺りの景観は昭和の首都東京にふさわしいものであった。皇居前の高さが統一された整然とした町並みは美しかった。

ロンドンやパリの中心街のような歴史的景観はもはや東京や大阪には残されていない。地震や戦災にあって破壊を受けたことを考慮しても、せめて破壊を免れた歴史的な建造物を保存して欲しいものだ。「景観」の持つ価値そのものがあまり重視された形跡がないのが残念だ。日比谷の三信ビルなどのように無惨にも跡形もなく取り壊されてしまったのではどうにもならない。

そうは言っても、最近は経済合理性優先の町づくりへの反省と、日本人がようやく少し成熟した大人の市民に近づいてきたのとで、こうした景観保存、修復への動きが出てきているのは歓迎すべきことだ。丸の内に三菱一号館が復元されたことも朗報だ。ここに展示されている昔の「一丁倫敦」の写真を見ると、当時の東京はこんなに美しい町並みだったのか、と驚いてしまう。そしてこれらの赤煉瓦の建築群が時代の流れの中で消滅してしまったことを改めて知らされた。三菱一号館に続いて東京駅の赤煉瓦駅舎のオリジナル復元工事も始まった。少しずつ伝統的な建造物が復活することが楽しみだ。

そう思って大阪の町を歩いてみると、街中には大大阪時代の素敵な建築物や土木構造物が数多く残っていることに気付く。先ほどのダイビルのある堂島、中之島あたりは無論のこと、堺筋を歩くと、ここがかつての船場の中心街で、東洋のマンチェスター、東洋一の商工都市,と呼ばれていた大大阪のメインストリートへ発展していったことが分かる。今でこそ大阪のメインストリートは御堂筋になっているが、戦前の道幅6mの淀屋橋筋の拡幅工事や地下鉄工事などの大胆な大阪都市改造計画の成果が花開いたのは戦後のことだ。

ライオンの難波橋、北浜の大阪証券取引所、道修町の薬屋街、高麗橋、備後町、安土町の証券、銀行街.....多くの全国的な企業が本社を構えた。そしてかつての堺筋には大阪の主だったデパートも軒を連ねていた。三越大阪店が北浜に8階建ての高層ビルを建てたのもこの頃だ(いまや日本橋の高島屋別館(かつての松坂屋)を除いてデパートは一軒もない)。その大大阪の香りが随所に今も残されている堺筋周辺には今も往時を思い起こさせる近代建築が破壊を免れて現存している。東京のようにこれらの景観を惜しげもなく壊してしまって欲しくはない。いや皮肉なことに今の大阪は東京みたいに元気がないので、町が破壊されるスピードも緩やかだろう。

戦前の大阪は大正14年には人口200万を超えて,東京をしのぐ世界第6位の大都会であった。その繁栄の痕跡が町のいたるところに残されている訳だ。しかし、大阪はその戦前の活気と栄光を取り戻すことが出来るのか?堺筋は「歴史の道」になってしまうのか?産業革命の面影を残す現代の「マンチェスター」になってしまうのか。町は時代とともに変貌を遂げる。もはや御堂筋ですら、心斎橋辺りのデパートはそごうが再生の努力も虚しく閉店し、残るは大丸のみとなってしまった。南北軸の両端である梅田や難波が賑わいの中心となり、今日の大阪府議会で決着がつくはずだが、橋下大阪府知事が躍起になっている大阪府庁のWTC移転が決まれば,今度は東西軸の町の発展が見込まれるのだろうか。

江戸時代から続く天下の台所大坂、日本の資本主義の発展とともに歩んできた大阪。歴史的な建造物の残し、歴史と伝統の重みを感じる景観を保護しつつ、新たなエネルギーを放ち発展する「新・大大阪」を時空を超えて旅してみたいものだ。

2009年10月19日月曜日

出張で忙しい「時空トラベラー」のつぶやき

ここんところ、妙に仕事のスケジュールがたて込んでいて出張ばかり。四国の松山と高知へ行ったり、東京と大阪を何往復もしたり。なかなか歴史のトリビアを訪ねる旅に出る機会がなくなった。邪馬台国が遥か彼方へ..... かと言ってカメラをもてあそぶ時間もない。であるがゆえにこのブログも書くネタに事欠く。一番フラストレーションが溜まる事態だ。

ライカM9は発表したとたんに、メーカー在庫切れで入荷時期未定。すっかりネットショップ上からも姿が見えなくなってしまった。そんなにもったいつけられるとすっかり鼻白んでしまう。この不況のご時世に、こんな高価なカメラが飛ぶように売れるなんてホント!?  需要予測間違いならお粗末だし、意図的な少量生産なら白々しいし.....

おまけにここんところの円高。日本でのM9のプライシングは1ドル110円のまま設定してるんじゃないかと思ってしまう。NYのB&Hの値札が魅力的だ。1ドル90円ならこれは買いでしょう。在庫があればの話だが.....

そうこうしてる間にニコンからD3sが発表に。プロから絶賛されているフラグシップD3の改良機がお約束通りデビューという訳だ。こちらはライカM9の価格を見てしまうとずっとお値ごろ品に見える。11月28日発売だそうで予約すれば発売日に配送される。ライカはあてにならん。やはりニコンにするか。金もないくせに夢だけは膨らむ。

日本とドイツのモノ造りとマーケティングの違い、といえば違いだが。やっぱりニコンやキャノンが売れる訳だよ。製品性能、パフォーマンスの安定性、市場へのデリバリーの迅速性、コストパフォーマンス。やはりあらゆる点で信頼感がある。

ライカもデジタル化した以上、ドイツ流のクラフトマンシップが発揮出来るのはボディー筐体や、光学ファインダー、レンズの部分で、写真の画造りを決定するCCDやチップセット、特に画像エンジン部分を他社供給に頼っている以上は、私のようなライカブランドにノスタルジアを抱き、過去のレガシーレンズ資産をデジタルでも活用したい、と思っている趣味人を除いて、プロや一般のアマチュアの欲求を満たす製品造りは難しいかも。

商業的に成功させることと、本当によいモノ、楽しいモノを作ることとは必ずしも一致しないことを分かった上でもなお.....である。ライカはどこへ向かう? いつまでもブランド資産に依存したニッチプレーヤーでは事業として継続出来ないだろう。ここでもビジネスモデルイノベーションに取り組む経営決断が迫られている。

まあとにかく、早く良い道具を片手に時空トラベルを再開したい。しかし私のスケジュール帳には「時空トラベル」のは入り込む隙間がない。秋晴れの青空がうらめしい。

(とは言っても東京の秋も素敵。「復元なった三菱一号館」「NYで人気のアバクロ銀座進出」「皇居三の丸庭園の空」の3枚をご覧あれ)





2009年10月2日金曜日

鞆の浦埋め立て架橋事業差止判決 ー時代は変わるー

10月1日の新聞、NHKニュースをにぎわした話題に、広島県福山市の鞆の浦埋め立て架橋事業の差し止め判決がある。歴史的に価値のある鞆の浦の景観を残す為に、広島地方裁判所が住民の訴えを認めて県の湾の埋め立て事業を差し止めたものだ。景観の保護への配慮、あるいは、もっと進んで「景観利益」を保護することが、今後は公共事業の推進、デベロッパーによるマンションやショッピングセンター開発などの事業にも考慮されなければならなくなる時代が到来した。歴史的景観を求めて旅する時空トラベラーにとっては画期的な判決だと思う。

「景観利益」は必ずしも確立した法的権利ではない、というのが学会の有力説であるが、司法の場で景観が保護される判決が出たことには重要な意味がある。広島地裁は「鞆の浦の景観は住民だけではなく国民の財産というべき公益で、事業で重大な損害の恐れがある」として「公益」を守る為に事業の差し止めを命じた。

鞆の浦は江戸時代からの港町の景観と瀬戸内海の島々の景観両方ををよく残した美しい景勝地である。古くは朝鮮通信使が江戸へ向かう途中、必ずこの鞆の浦で宿を取り「日東第一の景勝地」と賛美した土地でもある。写真を見ても海辺の穏やかな町の佇まいに心癒される。私もいつか訪れたいと思いつつまだ果たしていない。しかし、利便性を求める現代の生活をもはやこの町が受けとめる余地はなく、車のすれ違いにも不自由な狭い道や、老朽化した水利施設などの社会インフラを整備する必要に迫られていたのも事実。ご多分にもれず過疎化と人口の老齢化が急速に進み、「若者が戻ってこない」ことが町の活性化を阻害しているとして、早急なインフラ整備を求める声が一方の住民のなかから上がったのもうなずける。

「景観か、利便性か」という二者択一の議論がなされがちだが、そのような二元論はなんの解決も生み出さない。利便性はどのような価値を実現する為の利便性なのか。景観はまたどのような価値を生み出すのか。ただのノスタルジアやロマンだけでは価値を認める人とそうでない人に分かれるだろう。こうした「価値論争」は充分な議論が尽くされてはいないし、地元住民や国民のコンセンサスも得られていない。また若者が戻ってきてどのように町を「活性化」するのか描けているとも思えない。まさかここに工場誘致したり、ショッピングモール造ったり、ディスコやゲーセン開いたりする為に道路を造る訳ではないだろう。通り過ぎる為だけのバイパスなら地元にカネは落ちない。景観が破壊されるだけだ。埋め立てなので取り返しのつかない破壊となる。「景観」が価値を有すというコンセンサスがどう形成されるか。こうした判決や議論が積み重ねられて一歩一歩進んでいくのだろう。

戦後日本が高度経済成長まっしぐらの時代には、「景観」なんて価値概念すらなかった。とにかく経済優先、成長優先。新しければよい。古いものは捨てる。結果、日本のランドマーク、東京日本橋をぶざまな高速道路の高架橋でフタしたり、江戸城の外堀を埋めて銀座の数寄屋橋を消滅させたり、伝統的町家を壊して無機質なマンション建てたり、緑の丘陵を剥ぎ取って博覧会したりゴルフ場造ったり..... ちょうど胡同四合院の生活を破壊してビル建てたり、紫禁城の外壁を撤去して高速環状道路造ったりの今の北京や上海と同じだった。しかし、今やアメリカやイギリスなどの成熟資本主義国家では高速道路の高架を撤去して景観を取り戻す動きが出ている。お隣韓国でもソウル市内の川を覆う高速道路の高架を撤去して清流を都市に蘇らせた。成熟した国では「景観」に価値を見いだし始めた。

どのみちこれから日本はグローバルエコノミーの戦いの中で経済大国にはならない。東京はますます世界の地方都市化しており、世界の富は少なくとも東京一極集中はしない。一方、首都への富の一極集中、という現象は、発展途上の国の都市と田舎の貧富格差を象徴するものであり、もういい加減終わりを迎えるだろう。そのような大都市への集中のおこぼれという富の分配を求めるのではなく、地方独自の価値を富に変える知恵出しと行動が必要だ。もともと日本は江戸時代までは地方分権国家だった。徳川幕藩体制は富を蓄積した地方の国々(藩)を統治する為の体制だ。中央集権が進んだのは西欧列強に対抗する為の「富国強兵」「殖産興業」を進める明治維新以降だ。

よく見ると今まで気付かなかった資源が、幸い都市部の経済発展による破壊に遭わなかった分だけ地方によく残っている。経済発展に取り残された地域ほどよく残っている。それを価値に換え、富に生まれ変わらせる。「景観」もその貴重な資源の一つだ。それがまず「価値」を持つことを共通認識とすることから始める必要がある。さらにそれが「富」を生む可能性を追いかける。ここからはさらにハードルが高くなる。何でも金に換えることを旨としてきたエコノミックアニマルマインドが薄れないと本当の「富」の創出は難しいかもしれない。

こういう話をしていると、私がかつて在籍したLSE(London School of Economics and Political Science)で指導教授Peter SelfとのTutorialで議論した、「経営(Business administration)と行政(Public administration)における合理的意思決定(Rational decision making)とは?」。「tangible valueとintangible valueのいずれを実現するかで企業経営か、行政サービスか分かれる、という議論はmake senseか?」。「科学的な分析手法(Cost Benefit Analysisのような)は合理的な意思決定を助けると言えるか?」といった古典的な問いをまた思い出した。もちろん答えはIt does not make sense.なのだが、ではどのような価値を実現するのが経営であり行政なのか?なにが合理的(rational)なのか、まだ答えは揺れている。

話がトンでもないところへ飛躍してしまったが、これからゆっくりした経済成長と少子高齢化が進む日本、経済合理性だけではなく、今までとは異なる価値を認め、もう少し成熟した落ち着いた大人の社会にしていくほうがいい。これは価値観の問題だ。価値観は多様であるべきだ。価値観は変わる。価値観が変わればそれによって生み出される富も変わる。合理性の判断基準も変わるだろう。

高度経済成長時代、バブル時代に話題になった交通標語「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」。今こそもう一度ほこりを払って看板出したらどうだろう。

2009年10月1日木曜日

ヤマトの農耕環濠集落 唐古-鍵遺跡

桜井から奈良へ向かうJR桜井線沿線には、各駅毎に時空トラベラー御用達の史跡や遺跡があり、一駅一駅、毎週末に廻ってもなかなか制覇出来ない。ぼちぼち踏破するつもりだが....

今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。

まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....

中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。

ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。

一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?

早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。

話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。

遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。

この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。

遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。

唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。年代もほぼ同じ紀元前3世紀頃から形成された弥生の集落である。現在は周辺の開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯の中心に位置していて瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。

この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。紀元前3世紀頃から形成された環濠集落そのものは古墳時代には消滅してしまった。その後は、跡地に古墳が築造されたり、中世にかけて地元武士団の砦が築かれたり、農村集落が形成されたりして現在に至っている。しかし、ここが古代ヤマト王権の発祥の地であった形跡はないそうだ。純粋に農耕集落としての歴史を歩んできた。

帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。

しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。

2009年9月29日火曜日

飛鳥稲淵 棚田を巡る

今年から出来た秋の大型連休シルバーウイーク。敬老の日が入ってるのと春の大型連休ゴールデンウイークに対抗して命名されたのだろう。日本も本当に休みが増えた。national holidayが先進国の中でももっとも多い国の一つになってしまった。日米貿易摩擦の時にアメリカに「日本人は働き過ぎ」とバッシングされたのはもう20年も前のバブル真っ盛りの頃。いまの日本はかつての日本ではない。働き過ぎどころか「働くところがない」。ゆとり教育世代は「働く気がない」で、「休んでばかりでなくてもっとしっかり働かんかい」のはずが、国民の祝日は増えるばかり。

で、そんな秋晴れの一日を飛鳥の稲淵で過ごし彼岸花に彩られた棚田散策を楽しんだ。飛鳥から飛鳥川に沿って芋峠を越えて吉野へ向かう上市古道。山と谷に挟まれた稲淵はその途中にある美しく豊かな山里である。この地形と人々の営みのコラボレーションが美しい棚田の景観を生んだ。

この道は、かつて持統天皇が足繁く吉野へ通った道だ。その後も多くのみやこ人達が吉野詣でに通った道だ。そして大海人皇子が皇位継承争いに巻き込まれて芋峠を越えて吉野へ身を隠した道。その後決起して大和へ向かい、戦いに勝利して皇位につく。壬申の乱の舞台の一つになったところでもある。こうして即位したのが天武天皇、すなわち持統天皇の夫である。この歴史に名を残した夫婦の天皇は飛鳥の天武/持統合葬陵墓に仲良く葬られている。

シルバーウイークの稲淵はこうした古代の出来事をゆっくりと思い起こさせるような静かな佇まいとは無縁の連休狂想曲なまっただ中であった。棚田は美しく秋の実りを誇示し、地元の農家の人々は刈入れ前の最後の稲田の手入れに余念がない。しかし、普段は静かな山里もこのときばかりは押し寄せる車の波とヒトの波。高速道路一律1000円で安近短トラベラーの車はこんなところにも殺到。山道は路上駐車の県外ナンバーの車で埋め尽くされ、片側しか通れなくなった道をワレ先に通ろうとする車で大混乱。クラクションの応酬。河内弁の罵声! 田んぼのあぜ道はヒトの列でおすなおすな。そう言ってる我々もその人の波の中にいた訳だが、元来人ごみが嫌いな私は、都会の喧噪を避けてきたのに「よりによってなんでこんなところにいるんだろう」とため息。

稲淵ではちょうど地元の人々の企画で「案山子祭り」が催されていた。100体近くの手作りの案山子が棚田沿いのあぜ道に並びアイデアとユーモアを競っている。ハイキングしながら見て回って好きな作品に投票するという趣向だ。なかなかユニークなものや微笑ましい案山子があって楽しませてくれる。地元の元気な小学校生たちが案山子の説明をしてくれたり、飲み物の世話をしてくれたりで、けなげでかわいらしかった。商業主義的な店や看板や幟旗が乱立するでもなく、村のお祭り的な雰囲気で安らぐではないか。

そう思ってみればあながち行楽地の喧噪を恨めしく語るのではなく、のどかな秋の日の一日を楽しむ場を地元の人たちが提供してくれたことに感謝する気持ちがわいてくる。あくまでも青い空、黄金色の棚田、畦を彩る真っ赤な彼岸花、ユーモラスな案山子に象徴される人々の暖かさ。やはり大和は國のまほろば。

ありがとう稲淵のみなさん。

Leica M9登場

ライカM9がついに登場。

いわく「世界最小のフルサイズデジタルカメラ登場」。つまり36×24mmのフルサイズCCD搭載のデジタルレンジファインダーカメラというわけだ。M8では27×18mmのAPS-HサイズCCDを採用、そのため普通の35mm判(すなわちライカ判)用レンズ装着時には焦点距離が1.33倍となる。従って50mm標準レンズは65mm中望遠レンズとなる。M9ではこれが50mmは50mmとして使えるようになった,という事だ。

それにしても「世界最小」を言うか。ニコンやキャノンのフルサイズデジタル一眼レフと比べて,という事ではね。ま、そのとおりだ。

ボディーサイズはこれまでのM8, 8.2と同じ。外見上は軍艦部のバッテリー表示と撮影枚数表示用の丸い液晶窓がなくなり、旧来のM型デザインを踏襲した段付きになった。外装はブラックペイント、しぼ皮、赤ロゴ(復活)、とスチールグレーペイントという新色の2種。写真、カタログ見ても確かに変化はない。

ライカ社の発表によると、有効画素数1800万画素CCD(M8は1030万画素)を採用、レンズ性能を活かすことを主眼にローパスフィルターは今回もなし。しかしCCD前には新たにフィルターガラスが採用されて、従来のようなマゼンダかぶり防止のフィルターをレンズに取り付ける必要がなくなった。また、レンズ情報伝達用の6ビットコードは引き続き採用されるものの、ボディー側でレンズ情報を手入力出来るようになったので、古いレンズでも周辺光量などの最適化が可能となった。これはいいね。また現像ソフトとして従来のCapture Oneにかわり、Adobe Photoshop Lightroomが同梱される。

心配なのはホワイトバランス。あの不安定さは改良されたのだろうか?また撮影後にPCで現像ソフトで修正しろ、ってことだとちょっとなあ。何しろ価格が価格だけに、やっぱりカラーマネジメントソフトの開発に精力を注いだ日本製のデジタルカメラに比べてあまりにも見劣りがする。また最近の中級以上のデジタル一眼レフはダイナミックレンジを調整する機能が標準装備されているが、これもないんだろうな。

しかし、フルサイズデジタルMが出て伝統的な「ライカ判」が本家ライカのデジタルプラットフォーム上でついに復活、というファンの期待に応えた形だ。つい去年の11月にM8.2を出したときに「フルサイズは出さないのか」という問いに、ライカ社技術陣は「従来のMボディーサイズを出来るだけ踏襲し、Mレンズ資産を使えるボディーとする為にはフルサイズは無理」と断言していた。しかし一年後にYesの答えを出したのは技術陣の根性と賞賛すべきなのだろうが、その時M8.2を買ったファンはなにか割り切れない思いでM9に(M8を下取りに出して)買い換えるのだろう。

さて、9月下旬には製品出荷、とアナウンスされていたM9だが、例によって今日現在で実機を手にしたユーザは限られているようだ。時たま「ついにゲット」などとリポートするブログを目にするが、まだまだ出荷台数が限られているようだ。ライカジャパンのHPhttp://www.leica-camera.co.jp/home/では、出荷遅れのお詫びと納期が約束出来ない旨のアナウンスが出ている。ビックカメラでも予約客への配送は10月下旬以降、と。これも伝説のライカを神格化するマーケティング戦略だろうが手の内が分かってるだけにあまりインパクトもない。慌てて買う必要はない。欲しけりゃ待てば良いだけだ。でもできるだけ早く欲しい.....いや、やっぱり待てん。oon hitono ashimoto miyagatte.

「M9_catalog_jp.pdf」をダウンロード







2009年9月25日金曜日

土佐の高知 我がルーツ

仕事で高知へ行った。
まず松山に用事があったので伊丹からボンバルディアで飛ぶ。松山からは高速バスで高知まで2時間半。時間距離は意外と近い。しかし心理的な距離は遠い。四国山脈をくぐって太平洋まであと00キロの表示を見ながら、延々と続くトンネルを抜け、連続する峻険な峡谷を渡りたどり着いた高知はすっかり日が落ちていた。
こんなに小さな島に2000m級の山々がそそり立って行く手を阻んでいるんだ。それにしても日本の土木技術はすごい。瀬戸大橋もすごいがこの四国縦断高速道路もすごい。

高知は我が父祖の地。父方だけでなく、母方も、連れ合いの父方も、皆一族の故郷は高知。
といっても自分自身が生まれた訳でも、育った訳でもなくて、祖父母から高知なまりで聞かされた「故郷」の思い出が、父母から聞かされた「帰省先」としての高知の話があるだけだ。

しかし、「土佐の高知」と聞くだけで何か懐かしい想いにとらわれるのは、やはり私にも土佐の血が流れているからだろうか。ワクワクしながらの高知到着だ。

街を歩くと、父母、祖父母、親戚の叔父叔母、から聞かされた懐かしい地名が次々に現れる。
枡形、乗出、八百屋町、唐人町は父方の本家、分家一族の居所。桜馬場、永国寺町は母方の一族。上町、水通町は連れ合いの父方一族の地。鏡川を隔てて向うにそびえる山が潮江山。最近は筆山と呼ばれてるようだ。ここには我が一族の墓所がある。高知支店の人たちの尽力で墓も見つけることが出来た。何しろ古い墓所だけに所在が不明な墓や荒れ放題の墓が多い。幸い市役所が管理している墓地なので登録情報があったのと、墓守の方が我が一族の墓を管理してくれていたのとで見つけることが出来た。高知支店の方々に改めて感謝感謝。ヤブ蚊にいっぱい刺されたが。

高知は背後を壁のような四国山脈、前を広大な太平洋に挟まれた狭隘な町だ。かつてはここに住む人たちは容易に京都や大阪や東京へ出て行けた訳ではない。土讃線が開通したのは長い歴史の中ではつい最近のこと。大阪へは浦戸湾から船で天保山へ行くしかない。山内一豊公も船で浦戸から入国している。太陽に恵まれた明るくて恵まれた土地だが、かといって高知にとどまっても何か出来る訳でもない。食い扶持も限られている。そんな土地に育った若者はやはりハングリーになる。瀬戸内海を見て育ったわけではない。太平洋を見て育ったのだ。「言うたちいかんちあ、おらんくの池にゃ、潮吹くビンビが泳いじょる」んだから。この海の向うはもうアメリカだ。そしてここを出てゆく。青雲の志を持って故郷を後にする。たまりにたまったエネルギーをやがて新天地で爆発させることになる。坂本龍馬をモデルとする土佐人像だ。

鹿児島もそうだ。そうした若者のエネルギーが日本を動かす。世界を動かす。高知も鹿児島も人口の少ない、県民所得も最下位に近い地域だが、出身者で世界をまたにかけて活躍している人たちが多いのには驚かされる。県人会が強力な人的ネットワークを形成している点も同じだ。鹿児島に行ったときに、地元のヒトから鹿児島県の人口よりも鹿児島県人会の会員数の方が多い、と言っていた。表現に多少の誇張はあるが県外にいる鹿児島県出身者が多いのは事実だろう。ちょうどアイルランド本国は人口800万人なのに、アイルランド系アメリカ人は3000万人いるのと同じ理屈だ。

我が一族の本家筋の人たちは地元高知で実業家一族として活躍しているが、わたしの祖父のような分家の次男坊は高知を出て行かざるを得ない。当時日本でもっとも繁栄した大大阪へ出て行って一家を成した。銀行員から転じて今はやりのベンチャー事業を起業し、西宮に屋敷を構えた。母方の祖父も同じだ。三男坊で、継ぐべき財産がなければ学問で身を立てるしかない。東京へ出てゆき帝大出を中央政府官僚として活躍した。つれあいの一族も次男坊以下は皆東京や大阪や上海へ出て行って立身出世していった。みんなハングリーで、豊かな未来を信じていた。そしてみな故郷高知を懐かしんでいる。集まると高知弁で話が尽きない。

ルーツの旅が出来る幸せをかみしめている。父祖の地を出て我々一族の新天地での基礎を築いてくれた祖父母、父母、叔父叔母に感謝の念を抱くとともに、私の世代の後に続く子々孫々の益々の繁栄を祈念するを禁じ得ない。

高知龍馬空港から、再びあの双発プロペラ機ボンバルディアに乗って高知を後にした。この峻険な四国山脈をエンジンを唸らせながらかろうじて飛び越て、わずか40分で大阪に着いた。次は土讃線に乗ってみよう。

2009年9月9日水曜日

天領日田 豆田町を歩く

福岡での少年期、毎夏、都会の暑さを避けて一家でくじゅうへ避暑に出かけるのが我が家の年中行事であった。
父の運転する赤いコンテッサ1300で風を切って走る。父は車の運転が好きであったのであちこち連れて行ってもらった。

当時は高速道路もなくて、福岡から国道3号線を南下し、西鉄朝倉街道駅から別れて甘木方面、日田街道へ折れ、夜明けダムまで一気に走る。ここまで来るとやっと山間の涼しげな空気を感じることが出来た。夜明けダムの駐車場で一休みしたら、もう日田はすぐ。三隈川沿いに日田の町に入る。九州の小京都とか天領日田とか称される静かで美しい町である。

しかし、当時は早く久住高原にたどり着くことばかり考えていたので日田は単なる通過地点でしかなかった。何となく雰囲気のいい町だなあとは感じていたものの降り立つことはなかった。そのまま日本三大美林の一つ、日田杉の林の中を抜けて、杖立温泉、小国経由で長者原へでるか、豊後中村から十三曲りをくねくねとよじ上ってやまなみハイウエーに合流するコースか、どちらかで天上界へ向かうのだ。当時のクーラーもない車でたどり着くくじゅうの涼しさ、さわやかさは筆舌に尽くしがたいものがあった。

そういう訳で、実は今回生まれて初めて日田の町を歩いた。広瀬淡窓の咸宜園も初めて訪ねた。
豆田町は昔はあまり話題になっていた記憶がない。最近、特に町並み保存や景観の修復が盛んになり、伝統的建造物保存地区に指定されたりしてから急に有名になったのだろう。

日田は江戸時代には徳川幕府の天領として栄えた町だ。西国筋郡代が置かれ(郡代が置かれたのは江戸と飛騨高山の三カ所だそうだ)、九州の外様大名達の動きを見張る、という戦略的にも、幕藩体制維持的にも重要な役割を果たしていた。
権力あるところにヒト/モノ/カネ集まる。もとより日田は林業が盛んな土地柄であったところに、日田金と呼ばれた金融、川や街道を利用した諸国からの物資の集散拠点、交通の要衝としても栄えた。豆田町はこうしたにぎわいを見せる天領日田の商業地として殷賑を極めた町であった。

栄枯盛衰、おごれるものは久しからず。幕府が倒れ、時代は明治へ。日田の最大のパトロン、徳川幕府という権力構造が崩壊した後の日田は、山間の町の静けさを取り戻し、美しく老いた婦人のように、豊かではないが気品を忘れない大人の熟成した町とした今に残っている。

首都圏や関西圏の「小京都」と違って、これだけの「観光資源」がありながら観光客で賑わっている訳でもなく、商業的にはもっとプロモーション出来そうな余地があって、もったいない気もするが、そもそもこれで金儲けしようと言うのはもう止めた方が良い。奈良の今井町なども。あれだけの中世、近世以降の町家がタイムカプセルのように密度濃く集積しているにもかかわらず、住民の方々のポリシーとしてお土産ややレストランなどの商業施設への転換を極力抑えている例もある。であるが故に町に気品と歴史を感じる。経済合理性で文化財や史跡の価値を計るのは止めようよ。

しかしそれにしても、かの有名な広瀬淡窓の咸宜園も広大な敷地がほとんど手つかずの空き地状況でわずかに母屋といくつかの離れや井戸が現存しているだけである。訪れる観光客もなくやや哀れをもようす。無料で公開されている建物は受付にボランティアとおぼしきおじさんが一人座ってるだけだ。隣の敷地で建物の復元移築の作業が進められているようだが、こうした地道な自治体や地域の人たちの活動には頭が下がる。

一方、豆田町は伝統的重要建造物保存地区に指定されたこともあり、町家の修復、復元、電柱の地中化、通りの舗装など、良く町が整備されお金がかかっている様子が分かる。町は八百屋さんや理髪店、電気屋さん、歯医者さん、薬屋さんから銀行、と日常の生活の場としての豆田町の顔と、文化財としての保存建築やお土産や、飲食店、駐車場、と観光地としての豆田町が混在している。住んでいるヒトにとって以前より住みやすくなったのだろうか?

どこへ行っても思うのだが、古い伝統的な町並みの保存は難しい。そこの生活を破壊してしまったら、その町並みを形成してきた歴史は終わる。テーマパークのような生活臭のない、非日常的なスケルトン都市になってしまう。地元の人々の日々の暮らしが保存された町並みと一体化されるのが望ましいが、生活の糧を旧来の伝統的な仕事から得られなくなってしまった時、なおかつその場にとどまって生きてゆく為には「観光」で食っていくしかなのも現実だろう。あるいは都会の子供夫婦を頼って街を捨てるか。空き家も目立つ。地元の人々の戸惑いと自分たちの街なのに自分たちの居場所を探している姿が気になる。

イギリスの田舎町を訪ねたときにも同じことを感じた。コッツウオルドが美しいのはそこにヒトが生活しているからだ。自分が住んでいる家を自慢し、愛し、自分の手で修復し、芝を手入れし、花を植え、歩道を掃除する。街並みの保存に常に関与し、地元自治体にも働きかける。そこに暮らしている人たちは必ずしも伝統的な産業に今でも従事している人たちではない。ロンドンから移り住んだヒトや、キャッスルクームのようにホテルにして観光客に提供しているケースもあるが、共通しているのは、そこで稼いだり、一時期を楽しんだらまたどこかへ移動するのではなく、そこでの生活を自分たちのquality of lifeとして楽しみ、自分たちをlocalizeすることに絶え間なく努力している姿だ。よそ者として過ごすのではなく、permanent residentsとして暮らす覚悟をしていることに感銘を受けた。
自分の人生の価値やライフスタイルをどう考えるかによるのだが。

けっしてNational Trust活動を否定するものではないが、博物館化した町や建物は寂しい。そうはいっても最後は破却されて、後世に歴史的な文化遺産が残らないのでは元も子もないのでlast resortとしてのNational Trustの役割は大きいが。

2009年9月7日月曜日

柳本古墳群 古代ヤマトを歩く (その2)

JR桜井線の柳本駅からまず黒塚古墳を目指す。暑い!真っ青な夏空の下、太陽が容赦なく照りつける。遮るモノもなし。買ったばかりの帽子が役に立つ。そもそも帽子姿の自分がとっても嫌いなのだが、そんな事言ってられない。
カメラが熱くなっている。

柳本はこの辺りでは比較的大きい集落だ。古代の官道「上つ道」が集落を南北に貫く。この「上つ道」を横切り、駅から5分ほど東へ歩くと右手に黒板塀の堂々とした屋敷が見え、その左手に掘割と前方後円墳が見える。ここが景初3年の年号入りの三角縁神獣鏡が33枚と画文帯神獣鏡1枚が出土した黒塚古墳だ。このときは、これこそ魏志倭人伝に記述がある卑弥呼に贈られた魏鏡100枚の一部で、邪馬台国がここ大和地方にあった事を証明するものだ、と騒がれたものだ。

その後、三角縁神獣鏡は九州を含め全国の古墳から続々と500枚余り出土し、どれがオリジナルの魏鏡でどれが国内で製造されたコピーなのか解明出来ないこと、そもそも中国では一枚も出土していないことなどで、本当にこれらが魏鏡なのかが確認出来ていない。結局、邪馬台国論争における黒塚古墳熱は冷めてしまったかに見える。

古墳そのものは円墳部の頂上に埋葬する竪穴式で、古墳時代初期、すなわち3世紀後半から4世紀前半の築造であろうと言われている。被葬者は特定出来ていない。石室部分は古墳の規模に比してかなり大きく、また盗掘を受けていないため副葬品もよい状態で出土している。その出土状況は隣接する資料館に復元されている。現地は埋め戻されており、石室を示す表示が設置されている。

円墳部頂上は眺望が開けており、遠くに箸墓古墳、さらには三輪山、大和三山が見渡せる。一体は発掘後美しい公園として整備され、周囲は掘割を隔てて重厚な屋敷群に囲まれており、古墳というよりは城跡のような雰囲気をただよわせている。

ちなみに、この古墳部は「黒塚」と呼ばれ、中世から戦国時代にかけて砦として利用されたようで、その遺構も見つかっている。また江戸時代には柳本織田家の拠点として活用され、黒塚の東には広大な織田家屋敷が(いまは小学校になっている)、また堀割り周辺には武家屋敷が(先ほどの堂々たる黒板塀のお屋敷もそうか)広がっていた。だからなんだ。柳本の集落がやや城下町的な雰囲気を保っているのは。大和におけるその後の織田家と言えば、大宇陀の松山も織田信雄の末裔が住んだ城下町だった。

黒塚古墳から東へ向かうと、国道を隔てて行燈山古墳(宮内庁管理の崇神天皇陵)が威容を誇っている。ここからはいわゆる「山辺の道」が南北に山麓を縫うように様々な史跡をつないでいる。「山辺の道」をやや南に下るとやはり大型の渋谷向山古墳(宮内庁管理の景行天皇陵)が。いずれも濠に取り巻かれた大王の陵墓にふさわしい堂々たる造りだ。

柳本古墳群にはこの二つの大型古墳を中心に、廻りには中小の古墳が集積している。先ほどの黒塚古墳も行燈山古墳が立地する丘の稜線上に位置している。すぐ後ろ(東側)には竜王山がそびえ、その山麓に繋がる傾斜地の高台から見渡す大和盆地の景観は素晴らしい。ヤマト王権の地にふさわしい位置だ。逆に、これらの威容を誇る巨大建造物は、下から見上げる民にとっては大王や豪族達の権威のシンボルに見えたことだろう。

多くの中小古墳群は天皇陵の培塚だと言われているが、そもそもこの二つの大型古墳が天皇陵であるかどうかはまだ調査、確定されていないので、培塚と言い切れるか結論付けは出来ない。また濠も後の世に農業用として構築されたものもあり、天皇陵だから周濠があるという訳でもなさそうだ。

被葬者と言われている崇神天皇は、日本書紀に「ハツクニシラススメラミコト」と記されており、事実上の最初のヤマト王権の大王であったと言われる。神武天皇と、その後の八代の天皇は「欠史八代」として実在せず、8世紀の日本書紀編纂期に創出された天皇であろうとされている。崇神天皇の四道将軍伝承や景行天皇の皇子、日本武尊が東征、西征して倭国を平定した事など、史実であったかどうか確認できない点もあるが、どうやら崇神天皇が実在の大王であった事は学会の定説になっているようだ。また崇神、垂仁、景行と続く3代の大王全て実在したかどうかは議論があるが、初期ヤマト王権あるいは第一次ヤマト王権(三輪王権)がこの地に打ち立てられたのはこの頃だとされている。。

そうだとすると3世紀半に現れたという崇神天皇は、魏志倭人伝に記述がある3世紀初頭に亡くなった邪馬台国の女王、卑弥呼、その跡を継いだとされる女王、薹与(トヨ)とどのような関係なのか興味深い。魏志倭人伝以降、薹与が遣使したという記述の後、中国の史書に倭国の名が現れるのは5世紀に入ってからで、倭王武が時の南朝に上奏し、安東将軍の称号を得たという記述まで「倭国情報」は途絶えている。いわゆる空白の4世紀である。この間の倭国の政権交代の状況が分からない。ちなみに崇神天皇が実在の人物だとしても、その事と行燈山古墳が崇神天皇の墓である、という証明とは別の事である。

大和古墳群のなかでも、ここ柳本古墳群は大型古墳とそれを取り巻く数々の古墳に彩られたいわば「王家の谷」ならぬ「王家の丘」とも言うべき景観を作り出している。ただ問題は、これだけの墓がありながら、後の時代に破壊されたり、宮内庁管理で出入りを禁じられたりで、充分な考古学的調査が出来ておらず、正確な被葬者を特定出来ないのがもどかしい。ヤマトの歴史、古代の日本の歴史の解明にはまだまだ時間が必要なのか。

帰りは、渋谷向山古墳から田んぼの中のだらだら坂を真っ直ぐ西へ向かい、「上つ道」で左折して古い町並みを見ながら桜井線巻向駅から帰途についた。暑い一日だった。

2009年8月18日火曜日

纒向遺跡と箸墓古墳 古代ヤマトを歩く

最近、あらためていろいろ古代史に関する本を読みあさっていると、主に考古学分野での研究成果の蓄積により、永年の「邪馬台国位置論争」にも一定の答えが見えてきたような気がする。 もちろん位置を特定する決定的な証拠(例えば当時の地図、親魏倭王の金印、卑弥呼を特定出来る遺物など)が出てこない限り、断定的に証明されないのだが、そんなモノが発見される可能性は極めて低いから、あくまでも状況証拠で判断するしかない。 

で、どうも邪馬台国はやはり大和、特に桜井市の三輪山の麓一帯にあったのではないか、という感がしてきた。学問の世界では明確な科学的根拠がない限り軽々に結論付けることは慎まねばならないから、研究者は誰も断定したがらないが、時空の旅人はとりあえずそう結論付けて旅を楽しむのもまた一興だと思う。

個人的には、邪馬台国九州説を信じたい。1世紀の「漢委奴国王」のクニ以来、3世紀半ばの「親魏倭王」卑弥呼の死まで当時の倭国の経済的、文化的先進地域であった九州(特に北部九州)に奴国や伊都国といった有力なクニグニとともに邪馬台国があった、中国の後漢や魏の王朝の権威を利用して筑紫連合、さらには「倭国大乱」へて倭国連合を形成していった、と考える方が自然であるような気がする。しかし、あくまでもそれを証明する証拠(状況証拠であれ)は見つかっていない。また考古学的検証からはヤマト王権の基になるクニが九州にあって、それが東遷して近畿へ移った事を立証することもできていない。文献的には魏志倭人伝の記述が奴国、伊都国の南の九州島内にあるかのような表現になっている事から、邪馬台国九州説が出てきたのだが、その記述が誤りで、東方向への行程と読み替えると、むしろ近畿の方がしっくり来る。

私の邪馬台国九州説支持の立場は、文献や考古学的考察によるものというよりは、もともとは個人的な願望や、「そうだと面白いのにな」という空想的ロマンによるものである。残念ながら..... また筑紫のクニグニを育む地理的景観が大和の景観にきわめて似ており、古代のクニの発生、都市、王都建設の位置選定に共通のものを感じることも一因であった。福岡で育ち、周囲に数多くの遺跡や金印などの出土品や、それらしい地名が多かった事から夢が膨むのもやむを得ないだろう。

一方、邪馬台国近畿説論者にとっては有利な、それなりに説得力のある証拠が出てきている。

まず第一に三輪山麓に広がる纒向(まきむく)遺跡。弥生後期から古墳時代初期の纒向遺跡は全体のまだほんの3%ほどしか発掘されていないが、他の地域の稲作を中心として形成された環濠集落、クニ、とは異なり、指導者の意図と一定の計画に基づき造営された「都市」である様子が明らかになりつつある。しかもそこには当時の倭国各地から人々が集まったであろう事を推定させる各地の特色を示す土器が大量に出土している。もっとも宮殿や大掛かりな祭祀を行ったと見られる建物などの遺構はまだ見つかっていない。ひょっとすると、周辺に広がる大規模古墳の築造に駆り集められた各地の人々の「飯場」の跡かもしれないが。今後の発掘成果が期待される。

第二に箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓ではないかと言われてきたが、最近の年代測定法によれば、箸墓古墳は3世紀中葉に造営された可能性が高く、従来の古墳時代の始まり年代よりもさらに弥生時代後期にくい込む年代に造営されたらしい、と。卑弥呼の死、その後に「大いに塚を造る」という魏志倭人伝の記述にも年代的に符合する。この3世紀最大の前方後円墳はなぜこの纒向/箸中の傾斜地に造営されたのか。

最近の研究成果の詳細をここで記述して論ずるつもりはないが、こうした考古学的調査に基づく証拠だけでは何とも満足出来ないのが「時空トラベラー」の性質であり、まず現地へ行ってあたりの「空気」を嗅いでみねば,という事になる。

いつもの「邪馬台国ツアー」出発駅、近鉄大阪上本町を出発、近鉄桜井駅へ。そこからJR桜井線に乗り換えて一駅目。三輪駅で降りる。三輪神社へ向かう参道にでるが、今回は大鳥居近くの桜井市埋蔵文化財保存センターへ。そこで発掘調査の成果を概観してから、南北に走る古代官道の一つである、上つ道を北上する。 両側に大和路の風情を感じさせる古い民家を見ながらの家並を抜けると、道は左手に箸墓古墳の円形部分をカスって箸中集落に入る。いよいよ古代ヤマトのど真ん中。JR桜井線の無人駅である巻向駅近くに纒向遺跡の発掘跡がある。大溝の遺構が見つかったところだ。再び巻向駅を左に見ながら線路を渡り、山辺の道に向かって緩い上り坂を歩む。青空に積乱雲がまぶしい真夏のヤマト。暑い。

纒向のゆるい傾斜地の中程に立ってあたりの風景を見回すと、古代人が好む甘南備型の山容(低くてなだらかな三角形の山)の三輪山と纒向山、初瀬山の三山が背後に控え、大和青垣山系が纒向扇状地の東に壁のようにたたずむ。古代都市、クニの舞台設定としては理想的な地理的環境に見える。 ふと見上げると真っ青な空を背景に青垣と三輪山の上に夏雲がせり上がっている。あたりは「とよあしはらみずほのくに」にふさわしい田園地帯が広がり、箸墓古墳は緑の海原に浮かぶ島のようだ。さらに彼方に二上山を背景に美しい大和国中の風景が一望の下に見渡せる。

しかし当時はこのような扇状傾斜地では水耕栽培での稲作は無理だった。集落の周囲を取り巻く掘り割りを形成する事も困難であった。現にここでは縄文時代の集落遺跡は発見されているが、弥生時代の環濠を伴う耕作集落遺跡は発見されていない。そのような事からも、ここ纒向遺跡はこれまでの弥生系の農耕を目的に形成された集落、クニとは異なり、「都市」あるいは初期ヤマト王権の「王都」として建設されたのかもしれない。さらに後世までここが「都市」ないしは「王都」として存続した形跡も実はない。4世紀中頃に突然消滅しているのだ。やっぱり土木工事の「飯場」跡かな。

この纒向、箸中の微高地上には数多くの古墳が点在している。大和(おおやまと)古墳群だ。特に箸墓古墳は3世紀後半、古墳時代初期最大(278m)の前方後円墳で、その近くにも南北約8キロの地域(いわゆる「山辺の道」沿い)に渋谷向山古墳(景行天皇陵)や行灯山古墳(崇神天皇陵)などの古墳時代前期の巨大前方後円墳が並んでいる。また卑弥呼の鏡とされる、三角縁神獣鏡が33枚も発見された事で騒がれた黒塚古墳や、埋葬形式が確認出来るホケノ古墳などなど。

古墳造営にはこれを築造出来るだけの技術と人をかき集める事の出来る権力、財力が必須であるから、弥生時代末期の3世紀以降にこれだけの古墳の主がいたことになる。この中の誰かが初期ヤマト王権を造った大王であったとしても不思議ではない。それが倭国連合の統合の象徴として各クニグニの王によって擁立された邪馬台国の卑弥呼だったのかもしれない。箸墓古墳は宮内庁の参考陵墓で、発掘はおろか立ち入りも許されていないので謎は解明されないままだが、記紀によれば倭トトト日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であるとされている。

こうしてこの地にたたずんでいると神聖なる三輪山の麓の大和古墳群や纒向遺跡のあたりが、やはり邪馬台国だったのだ、という「気配」を感じる。少なくとも初期ヤマト王権発祥の地で、ここから大王の時代を経て、天皇(すめらみこと)を中心とした大和朝廷の体制へと変遷していったのだろう、と。

しかし、そうだとしたら、それはそれで新たな疑問がわいてくる。大陸文化との交流の窓口であり、当時の倭国の最先進地域であった北部九州ではなく、大陸からはなれ、外海から隔絶された瀬戸内海に接する近畿にどのようにして強大なクニ、政権が生まれたのか。やがては先進地域であった北部九州の筑紫王権を併合してゆくほどの政権に成長していくわけだが。

また、壬申の乱後の7世紀、天武朝から編纂された日本書紀や古事記に記されている、天孫降臨神話や神武天皇の九州日向からの東征神話が史実に基づくものではないにしても、日本の文明が大陸に近い西から東へ発展していった事を示唆しているのではないか?という疑問にどのように答えうるのだろうか。

当時は中国や朝鮮半島の動乱の時代。こうした東アジア情勢とは無関係な立場に倭国が置かれていたとは思えない。倭の王達に権威を与える中華帝国の皇帝にも、文化や技術を伝える朝鮮半島の王にも大きな変遷があった時代だ。大陸から多くの亡命者や難民も押し寄せたであろう。こうした動きが倭国連合の形成、やがてはヤマト王権確立にどのような影響を与えたのか。

邪馬台国位置論争は、すなわちヤマト王権の成立過程、倭国におけるヤマト体制の確立過程の解明論議の一側面に他ならない。古代史の謎はまだまだ解明されてない事が多い。いろいろ想像しながら大和や筑紫を巡る「時空旅」はまだまだ続く。

2009年8月16日日曜日

終戦の日

8月15日は終戦記念日。ヒロシマ、ナガサキの原爆の日に続いて.....鎮魂。
真夏の太陽がジリジリと照りつけ、この世に生きるものは死者の業火の苦しみに想いを馳せる。先の大戦で亡くなった多くの人々の御霊を弔う。何と、この戦争で日本人だけでも310万人が亡くなった......
64年前のあの時、日本人は今では想像もできないような毎日を送っていた。数々の時空を超えた旅行の中でももっとも生々しく重い時空トラベル、これが64年前へのタイムスリップ。

西欧列強のアジアにおける帝国主義的植民地支配を排除するとして、一時はアジアの開放者にも見えかけた日本。結局は西欧列強に対抗する後発者としてアジア植民地支配の道に走ってしまった日本。その結果アジアの同胞に取り返しのつかない災いをもたらした歴史の事実は今さら語る必要もないが、この戦争は日本の国民にも未曾有の災いをもたらした事も忘れてはならない。本来「国民」を守るべき「国家」が「国民」を苦しめる。その事を感じずにはいられない。

ヒロシマの、ナガサキの原爆で、東京大空襲で何十万という市民がわずかな時間の間に殺戮された。沖縄では市民を巻き込んだ戦闘が。南方の島々での血みどろの戦闘で、無謀な作戦遂行の中で、大陸での行軍の中で、飢餓で、病気で、極寒の大地からの逃避行のなかで、抑留された収容所で、絶望的な特攻攻撃にかり出されて、頭上に炸裂した爆弾や焼夷弾で.....  普通に暮らしていた「国民」が、戦地にかり出され、国策で植民地へ移住させられ、内地に居て空襲にみまわれ、死なねばない事態に追いやられた悲劇。家族や友人を失う悲しみを味わわされた。

日本という国家の誕生以来、この民族がかつて経験した事もない悲劇にみまわれた。二度とこのような過ちが繰り返されない為の反省とケジメは出来たのか? 戦勝国が戦敗国に対して行った「裁判」では何の問題解決になっていない。国民あるいは市民の立場からの戦争の加害、被害についてなにも裁かれていない。「人道に対する罪」というなら戦勝国側の指導者にも負ってもらわなければならない。戦争を引き起こした「国家」は「国民」に対してどのように責任を負うのか? また「国家」が戦争へと突き進む事態を止められなかった「国民」は、その無力さをどのように反省し、民主主義と平和と自由を守っているか?

8月は旧盆でもあり、彼岸に旅立った者とこの世に生かされている者が相見える季節である。
今年はまた集中豪雨や台風で多くの方々が亡くなった。
あの日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落したのもこの月。
ため息をつきたくなるほど多くの死者の霊がこの季節、何を我々に語りかけてくるのか。 
毎年8月にやってくる戦没者慰霊祭や原爆慰霊祭、各地で行われる精霊流しを季節の風物詩として眺めることはできない。暑い暑い夏を今年も過ごす。

2009年8月8日土曜日

筑紫君磐井 ヤマト体制組入れに抗戦 その時東アジア情勢は.....


 東西10数キロに及ぶ八女丘陵は、12基の前方後円墳を含む約300基の古墳からなる八女古墳群を背負う。
中でも岩戸山古墳は九州でも最大級の前方後円墳で、東西約135m、後円部直径約60m、高さ約18mで、周濠、周堤を含むと全長約170mにも及ぶ。この古墳は日本書紀継体天皇21年(527年)の記述にあるように、筑紫君磐井の墳墓である。このように古墳造営者と年代が分かっている古墳は全国的にも珍しい。

 岩戸山古墳には一辺43mの方形の別区が存在しており、ここに珍しい石造りの人形、動物、器具等(石人、石馬、犬、鶏、盾、刀など)が並んでいた。いまはそのレプリカが置かれており、オリジナルは近くにある岩戸山歴史資料館に保存展示されている。こうした石像はこの辺りで見られる阿蘇凝灰岩で造られたもので、同時に円筒形埴輪も出土していることから、粘土製の埴輪の代わりに石製のものを、しかも等身大を基本に並べた、と理解されている。
要するに6世紀初頭に、ここ筑紫の地にはこれほどの墳墓を構築出来る(ヤマトの大王クラスの)権力者が存在していたことを大和朝廷成立後8世紀になってに編纂された官製の史書である日本書紀も認めているわけだ。考古学的にも八女丘陵に集約された300からなる古墳群の存在も、ここにヤマトに匹敵する倭国の権力基盤が存在していたであろう事を物語っている。

岩戸山古墳
別区の石人、石馬像

ヤマト体制の正統性を記録する為に編纂された日本書紀の記述によれば、磐井は「筑紫の国造」であり、大和朝廷の意向に反して、ヤマト政権が軍事的に同盟を結んでいた朝鮮半島の百済に敵対する新羅から「賄賂」を受け取って「反乱」を起こした、となっている。しかし、この当時の「大和朝廷」の倭国支配権はまだ充分に確立していたとは言えない。とりわけ歴史的、経済的、外交/軍事的、文化的にも倭国の一大先進地域であった筑紫のヤマト体制編入には随分時間を要したはずだ。当時の磐井は筑紫を支配する大豪族で、いわば筑紫の「大王」ともいえる、ヤマト体制からは独立した存在だったのであろう。従ってヤマト体制の地方官僚職である「国造」でもなければ、その地方官僚が新羅から「賄賂」を受け取ってヤマト/百済同盟に「反乱」を起こしたのでもなく、筑紫の大王がヤマト体制と争って、その倭国における権力基盤と経済的支配権を確立する為に新羅と同盟した。そして筑紫におけるその支配権を簒奪しようとしたヤマト政権に対抗した、というのが正しいだろう。

しかし、結局は磐井はヤマトの大王、継体天皇から派遣されてきた物部荒甲(あらかひ)の軍と2年に渡る闘いの後敗れて殺され、その子が糟屋の屯倉をヤマト政権に差し出し筑紫はヤマト体制に組み入れられる事になる。磐井の一族は息子を含め滅ぼされる事はなく、ヤマト体制に移行して後の筑紫の安定を果たす役割を期待されている。遠征軍による支配は困難である事と、その地方の有力者が体制に帰順してくればそれに勝る支配はない事。洋の東西を問わぬ人類の歴史的経験だろう。

 一方、この紛争は倭国と当時の中国、朝鮮半島を含む東アジア情勢の変化の中での出来事である。歴史的にも1世紀の「漢委奴国王」時代以来、6世紀の初頭まで、倭国の政権は中国への柵封外交政策を取り続け、政権のレジティマシーを維持しようとしていたのだから。倭国の支配権をより上位の権威によって正当化する作業を脈々とし続けてきた。晋書に倭の五王の記述があり、さらに宋に遣使した倭王武(雄略天皇)の上奏に、自ら甲冑をつけ、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」と。大王自ら中国皇帝の藩塀として東辺の蛮族を征討して地域の安寧を保つ努力をしているのでその権威を保証してくれ、と頼んでいる。大陸により近い筑紫の権力者は歴史的にヤマトの権力者よりも、より緊密に朝鮮半島や中国との外交関係をコントロールする能力に長けていても不思議ではない。多くの渡来人も筑紫にはいたであろう。官製の史書には出てこないが磐井にはヤマト/百済同盟への対抗軸としての新羅との太いパイプがあったはずだ。

 6世紀には朝鮮半島では新羅と百済の争いが激化し、倭国の朝鮮半島での拠点が置かれたという任那、伽耶は562年に新羅に滅ぼされる。さらに時代が下って100年の後、唐/新羅による百済の征討が660年。さらに白村江の戦いで日本が半島から撤退を余儀なくされたのが663年。新羅と結んだ磐井の戦いの後の100年は東アジアの勢力図が大きく変わった時代でもある。倭国、日本がその激変の一方の当事者であった事を思い浮かべれば、倭国内の争い(いわゆる「筑紫国造磐井の反乱」)が単なる国内政権内での「反乱」ではなく、このもう少しマクロ的な視点での争いと無縁ではなかった事は明白だ。

 岩戸山古墳は未盗掘墓だそうだ。また、墳墓の中の調査は行われていないとも。岩戸山資料館の女性館員の方が詳しく説明をしてくれた。大方の八女古墳群の墓は盗掘されているが、岩戸山だけが未盗掘。いろいろな副葬品や当時をうかがえる考古学的資料が手つかずのまま眠っている?と、不思議に思っていたら、彼女いわく「結局磐井はここには埋葬されなくて、ここはカラの墓なんですよ」。

 確かに磐井が築造したらしい事は、江戸時代の久留米藩の歴史学者矢野一貞による地道な調査により明らかになっている(もっとも彼の研究成果が日の目を見るのはご維新後の明治になってから)。確かに磐井が埋葬されているはずはない。なぜなら彼はヤマト政権の筑紫方面派遣軍司令官の物部あらかひに殺されているのだから。征服者が非征服者の亡骸をこのような巨大な墳墓に埋葬する事はないはずだ。資料館に展示されている石人像なども剣でたたき割られたものが多い。ヤマトからの遠征軍を苦しめた磐井に対する反感、兵士の憎しみがうかがえる(写真の石馬も首が切り落とされている)。

 こうした考古学的な成果物からは、日本書紀の記述だけでは分からないいろんな事が見えてくる。筑後平野の南に位置する今はお茶と果物で有名な平和な農村地帯、八女地方が、かつて、我が国の歴史の表舞台で脚光をあびた時代があった。玄界灘の彼方の朝鮮半島を視野に入れた戦略を持った大王がいた。九州人の反「中央」意識はこの頃から伝承され続けてきたのだろう。九州人が「中央」に出て行って権力中枢で活躍するようになるのは明治維新以降だ。


(岩戸山古墳から眺める八女地方の風景はなんと大和の三輪山山麓の風景に似ていることか.....)
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2009年8月5日水曜日

オリンパス・ペン E-P1でレンズグルメ

E-P1のアドバンテージの一つに、レンズアダプターを介して様々なレンズで撮影を楽しむことが出来ることがあげられる。フォーサーズでは焦点距離は35mm版の2倍、すなわち50mm標準レンズは100mm中望遠レンズとなるので、広角撮影にはやや不利だ。しかし望遠、マクロでは結構迫力のある撮影を楽しめる。

E-P1購入と同時に、所有するフィルム時代レンズ資産活用という観点から、旧オリンパスOMシリーズレンズ用アダプター(オリンパスから純正として販売)と、ライカMシリーズレンズ用アダプター(パナソニックから純正として販売)をゲットした。

まず、フィルム時代の一眼レフのOMレンズ群の中では比較的新しい90mm f.2マクロレンズを試してみた。焦点距離は180mmとなりかなりの望遠効果がある。小さなボディーに重いレンズという組み合わせで、手ぶれが心配だが、E-P1は絞り優先モードにセットすると露出補正も手ぶれ補正(さすがボディー内補正システム。マニュアルで焦点距離は入力すればok)も使える。装着した姿はやはりレンズがでかくてバランスが悪いが、結構戦闘的なカメラに見える。液晶モニターでのピント合わせも思ったよりきちんと出来る(ついファインダーをのぞこうと眼をカメラに寄せてしまう癖が抜けないのが笑えるが)。また撮影結果をクローズアップでピント確認出来る。下の写真(ズミクロンのクローズアップ)は手持ちで撮影したが、暗い光源下でも手ぶれせず、ピントもきちんと来ている。なかなかやるね。

続いて、ライカのズミクロン35mm F.2(ドイツ製8枚玉)という伝説のレンズ。ワクワクする。E-P1に装着したその姿はなかなか決まっている。かなりライカチックなスナップカメラに仕上がり、心をくすぐる。レンジファインダーカメラ用のライカレンズがデジカメの液晶モニターを通して画像を結ぶ姿は感動だ。伝統的なライカファンから見れば噴飯ものだろうが、8枚玉ズミクロンの画像がライブで見れるようになるという事は、ライカにとっても時代の転換を意識せざるを得ない事実だ。

それにしてもこのズミクロン、約50年ほど前の古い設計のレンズだが、実に解像力、ピントのキレ、ボケの美しさ、どれをとっても秀逸で、あらためてうれしくなる。金属鏡胴に指掛けと無限大ストッパーのついた凝った造りの距離リングも、経済合理性よりも、手間ヒマかけても最高の品質、高品格なものを造ろうと意気込む職人思想がにじみ出ている。趣味人にとって至福のときだ。このあたりのモノ造りに対するこだわりが日本製カメラとの思想の違いだ。

最短撮影距離は70cmだが、焦点距離が70mmとなる(画角が狭くなる)ので、結構クローズアップ効果を得る事が出来る。フォーサーズの威力か。本家のライカM8だと焦点距離は1.3倍となるのでもう少し広角で撮影出来るが、それよりもE-P1のボディー内手ぶれ補正や、ISO高感度ノイズ補正、ライブビューの機能の便利さは、やはりうれしい。そして、画造りの基本である画像処理エンジンもM8より優れていると思う。何度撮ってもM8のホワイトバランスやISO感度ノイズは気になる。

まだまだ遊び足りない。E-P1はこうした様々なレガシーな単焦点レンズをつけてじっくり撮る「写真機」でもある。「蔵」からオールドレンズを出して、カビ掃除してセッセと遊ぼう。ちなみにオールドライカマウントレンズ(スクリューマウント)もL/Mアダプターを介して装着、撮影可能である事は言うまでもない。

(下の写真、上段2枚がOMズイコー90mmマクロで撮影したライカズミクロンのクローズアップ写真。下段2枚は、そのズミクロンで撮影したもの。いずれも手持ち、アベーラブルライト撮影、かなり暗い状況での撮影にも関わらず、手ぶれもなく、特にオールドズミクロンの解像力、ピントのキレ、ボケに注目!)

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2009年7月30日木曜日

筑後八女福島の町並み

 筑紫の国には古い町並みがいたるところに残されている。筑後吉井、筑前秋月、筑前山家、などなど。
 ここ八女福島は、天正5年(1587年)に筑紫広門の福島城の城下町として開かれ、その後慶長6年(1601年)柳川に入城した田中吉政の支城として城は改修整備され城下町も整備された。そのときの町割りが今もそのまま残されている。
その後、徳川幕府の一国一城令により城は破却されたが町人町は残り、街道沿いの在方町(農村地域の商工業中心地)として発展した。
八女と言えば全国的にお茶が有名。その他にも、仏壇や提灯、和紙、酒などが今でもこの地域の特産として造り続けられ、往時の繁栄を今に伝えている。

 福岡からは西鉄天神大牟田線の電車で西鉄久留米まで行き、そこからは八女行きのバスで40分くらい。筑後平野の南に位置し、あたりはお茶や果物の産地としても有名。

 かなり広範囲に古い町家が広がり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている面積は20ヘクタールに及ぶ。大和の今井町や河内の富田林のような密集度はないが、これから修理、再生される建物が増えれば、町の規模としてはかなりの大きさを誇り、景観的にも堂々たる町が復元されるものと期待される。城下町からスタートして商業地として発展した歴史は、大和の大宇陀にも似ている。

 それにしても八女福島の町や、その盆地の有様は、なんと大和盆地に似ている事に驚く。盆地の北に広がる10数キロに及ぶ八女丘陵には石人山古墳や岩戸山古墳に代表される古墳群が東西に150-300存在していると考えられている。 筑紫の国造磐井の墓とされている岩戸山古墳から展望する八女盆地は南に脈々たる山々をひかえ、まさに大和盆地が三輪山を始め東山中の山々を背景にまほろばを形作っているのと非常に似ている。驚いてしまった。
ちなみに邪馬台国九州説論者の邪馬台国比定地の一つがここ八女だ。

 町に戻ろう。町家の建物は最初は草葺き屋根だったが、江戸時代後期からはその経済力を背景に妻入りの「居蔵造り」の町家が増えてゆく。防火上の理由から瓦屋根、土蔵造りを進めたもので、他の町にも見られる建物「進化」プロセスがここでも見られる。

 また明治以降、昭和初期に至ると、道路拡幅に伴い、軒切りが行われ建物正面一階の意匠が大きく変わる。また、洋風建物が出現し始め、木造の「和風」洋風建築は今となっては町の景観の多様性とその長い歴史を知らせるランドマークになっている。しかし、当時は大きく町の景観を損ねた事だろう。「景観」という概念があったかどうかは知らないが。

 今の八女福島は、観光客の訪れもなく、町は静かに日常の生活を営む人々の姿に満ちていた。仏壇製造、提灯屋さん、清酒蔵元の堂々たる建物。小さな商店。八百屋さんも立派な古い建物で商売している。

 あまり極端な建物の改築がない事がこの町が昔の景観のままに保たれている理由の一つだろう。その一方、荒れるに任せた居蔵造りの建物や、シャッターおろしたままの町家が哀れを誘う。いずれ保存修復されるのだろうか。いずれにせよ、皮肉にも近代化やバブルの波に取り残されたればこそ生き残った景観なのだ。これからこの町の生きる道がこうした景観修復と保存活用のなかに見いだされるかもしれない。ただテーマパークのようなスケルトンタウンにならず、また、観光目的で改造される町家風飲食店やおみやげ屋にも変質せず、地元の人々の生活とともに保存される為にはどうしたら良いのだろう。

(写真はゲットしたばかりのオリンパス・ペンE-P1での撮影)


2009年7月26日日曜日

オリンパス・ペン E-P1がやってきた!

珍しくデジカメで予約までして購入したカメラは、このオリンパス・ペンE-P1が初めて。
たいていは画像エンジンの初期ロットのバグが取れて、価格もこなれて、初物食いの人たちの意見を良く聞いて(ネットで見て)からで十分なのだが、オリンパス・ペンへの思い入れが激しい分だけ、発売前に飛びついてしまった。
予定通り発売日の7月3日には配送されてきた。
ワクワクしながらの使用感を一言でいうと、期待通りの道具に仕上がっている。しかし、その期待感は決してニコンやキャノンの中級以上のデジ一に対するそれではない。往年の、ニコンFシリーズとは異なるペンFシリーズに対する期待感と同じものである事を断っておくが。

1)思ったより、小型。しかし重量感がある。これは外装の金属度が影響しているのだろう。もともと軽量なカメラはなにか品格に欠ける気がして、その偏見をこのペンは見事に打ち砕いてくれている。ホールドもよい。
2)ファインダーがない点。ちょっと違和感を感じた。ライブビューだけというのは、何かコンデジ的で.....17mmレンズ用のビューファインダーが予約購入客にはオマケでついてきた。こちらはプラスチック製でなんか軽い。近々リコーGX200のような電子ビューファインダーが用意される予定もないようだ。ホットシューにもそれらしい接点は用意されていない。しかし、これはこれで新しい撮影スタイルでいくしかないだろう。
3)幸い手ぶれ補正はオリンパス独自にボディー内センサー振動式で、有効に働いている。
4)レンズは標準ズームと、17mmパンケーキの2種類が合わせて出されたが、描写は秀逸。非球面レンズ使用でその割には価格もこなれていて好ましい。個人的にはプラスチック鏡胴が気に入らないが。
5)マイクロフォーサーズの良いところは、ボディーフランジバックが小さい事。よってマウントアダプターで様々なレンズが使用出来る。純正でオリンパスOMシリーズレンズ用とフォーサーズレンズ用が用意されているが、その他にもパナソニックからはライカMレンズ用も用意されている。
早速ライカM50mmズミクロンをパナソニックアダプターで装着してみた。ボディーとのバランスもよい。レンジファインダーM8と異なり、ライブビューでズミクロンの画が見える事には正直感動!手ぶれ補正も焦点距離設定する事で機能するのはうれしい。オリンパスOMアダプターもゲット。

早速持ち出して、九州出張の週末に福岡県八女福島の伝統的建造物保存地区と岩戸山古墳の撮影に出かけた。Rawでもさくさくと軽やかに撮れる。コンデジ感覚で撮れるが、シャッター音が心地よい。画を切り取る、という感覚だ。
しかし、初物には注意が必要である事をすぐ知る事となった。
帰ってから、撮影結果をMacに落とし込んで眺めて愕然!快晴の岩戸山古墳の写真が、なぜかISO感度1600で撮れている。全てがザラザラのノイズ。せっかくの紺青の空と古墳の鮮やかな緑が台無しだ。
これは撮影中にボディー背面のISO感度設定ボタンに知らないうちに指があたり、オートがずれて1600に設定されてしまったためだ。ガックリ。こんなにコンパクトにしたらやはり操作系には注意しないと、こんなことが起こってしまう。
Raw撮影すると付属のソフトでしか現像出来ない。MacのApertureやiPhotoはまだサポートしていないようだ。ファイルが読み出せない。
先ほどの失敗やそれやで八女福島/岩戸山古墳旅行レポートがまだアップ出来ていない。
まだまだこれからだが、ファーストインプレッションは最高だ。久しぶりに興奮する写真機に出会えた。
OLYMPUS PEN E-P1 活用ガイド (マイコミムック) (MYCOMムック)OLYMPUS PEN E-P1 活用ガイド (マイコミムック) (MYCOMムック)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2009-07-24
OLYMPUS PEN マイクロ一眼 E-P1 ツインレンズキット シルバー E-P1 TKIT-SLVOLYMPUS PEN マイクロ一眼 E-P1 ツインレンズキット シルバー E-P1 TKIT-SLV
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発売日:2009-07-03