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2009年6月30日火曜日

「和辻哲郎」に再会

先週末は東京だった。

久しぶりに自宅の本箱に、和辻哲郎の「風土」「古寺巡礼」「日本古代史」が並んでいるのを発見。確か学生のときに大学生協の書籍部で購入したものだ。実は通読はしたものの、「いつかゆっくり読もう」と、本箱の飾りになっていた。あれから○○年。その時間旅行の間に、福岡、姫路、東京、木更津、ロンドン、ニューヨーク、東京、大阪、と居を移し、空間移動を重ねたが、その度この3冊は私の時空旅行に同行してくれた。読みもしないのに.....

懐かしさもあり、ベッドに寝転んで読み始めたら、時が立つのも忘れて読みふけってしまった。このまま夢の世界にワープし、気づくと2000年前の日本列島に身を置いているとロマンなのだが。

和辻は歴史学者でも地理学者でもない。故に、彼の記述は、実証的でなく事実に反する、とか、彼自身の思い込みによるものだ、とか、はては戦前戦後において、日本人特殊論だとか、天皇制擁護の論陣だ、とか、まあいろいろな批判にさらされている。また彼の没後の歴史研究の深化や、新たな考古学的な発見により、修正されるべき事実はいくつかあろう。しかし深く共感するのは、歴史の大きな流れを見据えるその視点だ。それは論理的な実証科学者としてのそれではないのだろう。人間の内面に存在する普遍的な有様にせまる倫理学者としてのそれなのだろう。

歴史学者が研究する様々な古文書も、考古学者が研究する遺跡や遺物も、ともに人が生み出したものに他ならない。それを後世の研究者が様々な面から様々な視点で解釈する。そしてある歴史的事実を推定、検証してゆく。しかしそれらの背景に存在する人間の心の動きを読み解くことで、個々の「木」から、全体の「森」のありように触れることが出来るのかもしれない。。

私的には、学生時代からのかなり実質的な時間を経て、また世界の様々な風土に触れた後に、目から鱗が落ちるが如き体験が新鮮であった。もっと早い時期にしっかり読んでおくべきであった、という思いと、いやいや、今だからこそ読む価値がある、という思いとが相半ばする。特に「日本古代史」は、歴史学者の直木孝次郎の「「古代の日本」と合わせ読むと面白い。

昨日大阪へ戻った。東京は梅雨の合間の快晴。新幹線で2時間半ほど空間移動した大阪はどしゃ降りの雨。そのギャップに驚きながら、どうせしばらく大和国中、東山中にも、筑紫にも出かけられないのなら、しばし書物による時空旅行を楽しむ事としよう。写真は撮れないので、せいぜい写真機磨きしながら。

2009年6月23日火曜日

こだわり写真機 ー 時空旅行の必須アイテム

カメラ、というより写真機は、私の時空旅行の必須アイテム。
それだけに、写真機にはこだわりがある。

写真機という以上、金属製の筐体でレンズも金属鏡胴。箱の中では精密な歯車とバネと軸が寸分違わぬロジカルでシーケンシャルな動きをする、そのようなメカニカルな精密光学器械の事をさしている。
となると、デジタルでなくて銀塩フィルム。オートフォーカス(AF)やオートエクスポージャー(AE)などの電子的仕掛け、すなわち電池がなくなると動かなくなるようなシロモノはついていない。定期的な整備さえ施してやれば半永久的に機能するモノを写真機と言う。

ところが最近、私のこの信念が危機に直面している。
銀塩金属カメラの理想型はライカM3やニコンFだが、さすがにこの時代にコレクションとしての価値は別として、残念ながら実用的には物足りなくなってしまう。ついに数年前からデジタルカメラを導入。
本当は、私が生業としているIT(最近はICTともいう)業界のバーチャルな世界にやや辟易して、永遠不滅の存在とリアルな手応えに心の安らぎを得る為にクラシックな銀塩金属写真機の世界に足を踏み入れたのだが。

一旦デジタルに切り替えると、たちまち写真機がカメラにかわり、フィルムを捨て、撮影、後処理環境が激変してしまった。恐ろしい魔物の世界に足を踏み入れてしまった。デジタルカメラと私の仕事道具であるパソコンやネット環境とのマッチングがまた絶妙。たちまち、増設ハードディスクや、フォトプリンター、フォトショップ、さらにはフィルム時代の資産をデジタル化する為のスキャナーまで装備するはめになった。そしてさらにネットのクラウドの中に私のフォトライブラリーが.....

全く我ながら節操のない、自称「写真機家」にあきれている。しかし、いかに節操を失ったとはいえ、カメラに関するこだわりはまだ多少は生きている。そういう意味では、今のデジタルカメラ製品群の中で、実用品としてはなかなか便利であるが、恋するほど魅力的な製品は出会っていない。たいていがプラスチックと電子回路のかたまりと化した家電製品になってしまった。壊れると二度と修理のきかない消耗品だ。、ましていわんやケイタイカメラなんぞカメラの部類に入れたくないくらいだ。かつての銀塩カメラのような成熟した精密光学製品ではないので、実用を超えた趣味の領域に属するようなこだわりを持ったものがまだ出現してない。もう少し時間を要するのだろう。

と思っていたら、最近うれしいニュースが飛び込んできた。オリンパスが7月3日に新しいマイクロフォーサーズフォーマットの新しいデジタルカメラを出す、というのだ。オリンパス・ペンE-P1だ。これはなんとあの一世を風靡したオリンパス・ペンのデジタル版だ。その外観は往年のペンFのイメージを彷彿とさせるもので、外装は上下がアルミダイキャスト、側面がステンレスというかなり金属「度」の高いカメラである。レンズ交換式で、重い一眼レフは苦手。かといって、お手軽コンデジでは満足出来ない、という層にも受けそうである。

オリンパス・ペンは思い出のカメラである。中学生の時、修学旅行用に父が初めて買ってくれたカメラが初代オリンパス・ペン。ハーフサイズなのでフィルムが倍使えるのが当時は感激であった。金属のひんやりした感触とソフトレザーケースの革のにおいが今も記憶の中に生きている。その後、あのユニークなハーフサイズ一眼レフシステムカメラ、オリンパス・ペンFが世に出た。 欲しかったが買えなかった。

たいがい今の団塊世代は、こうした幼少期、青年期のカメラに対する思いが、少し経済的に余裕ができた今、時空を超えて花開き、銀座の中古カメラ屋や松屋の中古カメラ市などのイベントに自らを駆り立てているのだ。当時は話聞くだけの高嶺の花、我がものになるなどとは考えもしなかったライカですらなんとか買える値段になっているのだから。

しかし、時代は明らかにデジタルへ。プロカメラマンは一部のジャンルをのぞいて、報道系を中心にデジタルにシフトしてしまった。ライカのようにレンジファインダー、フィルムカメラにこだわった(というより日本製品においてかれてその領域に生きる選択を取らざるを得なかった)ドイツの老舗ですらデジタルM8を出して、ライカファンのつなぎ止めを図っている。もっとも、このM8だが、日本製のデジタルカメラに対抗出来るスペックに仕上がっているとはとても思えないが。ただ価格だけはライカプライスだ。

デジタルカメラは、そのボディーやレンズなどのいわばハードウエアーだけでその性能が語られる事はない。じつは画像造りに欠かせないカラーマネジメントなどを司る画像エンジン、すなわち、デジカメを機能させるソフトが他社製品との差異化の重要ポイントなのだから。デジカメはコンピュータなのだ。この点がフィルムカメラと最も異なる点だ。当然フィルムカメラ時代には、写真家が期待する画造りの全てをカメラメーカだけでは担えないわけで、その多くをフィルムメーカの技術と経験、感性に依存していた。デジカメメーカ各社は製造初期には、この元々フィルムメーカーが得意とした領域の技術ノウハウをいかに獲得するかが大変な挑戦だったという。カメラメーカーの製造業者にパラダイムシフトが起こったのだ。精密機械と光学技術の専門家集団に依存する事業が、コンピュータ、ソフトウエアーエンジニア集団、さらには色味や画像造りといった感性に依存するノウハウ、ネットの最新技術を駆使する事業へと転換しているのだ。このようなパラダイムシフト、それに伴うビジネスモデルイノベーションを迫られる事態はカメラ業界だけではなく、あらゆる業界に起こっている事ではあるが。

ともあれ、時空トラベラーとしては、実用性も大事だが、感性を刺激してくれる道具が欲しい。だんだんデジカメも成熟商品になりつつあるのだろうか、デジタルオリンパス・ペンのようなモノとしてのこだわりを持った製品がドンドン出てくれれば、金属カメラ離れを余儀なくされ、節操を失った事への後悔にさいなまれる「写真機家」の心の不安定さを救ってくれるのではないかと期待している。

(写真はオリンパスペンFと7月3日に発売のデジタル・オリンパスペンE-P1。オリンパスのウエッブサイトからお借りした)Penf_01waWps1024x768

2009年6月22日月曜日

近江八幡 歴史をつなぐ情景

 近江八幡は時空トラベラーにとっては憧れの異空間デスティネーション。

400年の時間と国境を越えた文化と空気が混ざり合い、今なお昇華し続けている街。

豊臣秀吉の甥、秀次により開かれた城下町にして、世界に羽ばたく近江商人の故地。

江戸期には朝鮮通信使が江戸へ向かう途中逗留した街。


時代が下り、明治期には米国から渡来した宣教師ウイリアム・ヴォーリズがその独特の世界を築いた街。

 新町通りの街並みは伝統的建造物保存地区に指定されている、美しい瓦屋根と千本格子の建物に見越しの松を配した見事な家々。八幡山を背景とした街並は古き良き繁栄の時代の景観を今に伝えている。この新町通りはよく整備されていて、観光客にも人気の街であるが、近江八幡は全体として昔の風情を良く残しており、路地に一歩入れば、タイムスリップしたような普段の町屋の生活に出会うことができる。






 八幡掘りは一時期、その役割を終え、哀れにも悪臭を放つドブと化していたそうだが、市民の手で見事に美しい水の流れと水辺の景観を復活させた。今では近江八幡の観光コースの一つになっている。この時期はちょうど菖蒲と紫陽花が両方咲いていて、水辺にその美しさを競っていた。この絶好の被写体を狙った「往年の写真小僧」たちがはしゃいでいる様子がほほえましい。







 瓦ミュージアムでは、我が家の家紋を配した軒瓦の展示を発見。わが一族のルーツは土佐の高知だが、その祖先の故地はここ近江の長浜だと聞いている。山内一豊公の近江長浜から遠州掛川、さらに土佐高知への移封に伴って一族も移動したとか。ありそうな話である。ともあれここ近江の地に我が家の家紋を発見したことで、一族のSAGAもあながち事後に作られた話でもなさそうな気がしてきた。


 近江八幡は美味しいお菓子の町でもある。「たねや」である。このような伝統的な和菓子屋と、「クラブハリエ」という洒落たカフェと両方を展開している。全国展開しているので口にしたことがある方も多いだろう。本家はここ近江八幡だ。



ヴォーリズの話だが、彼の足跡をこの近江八幡にたどると、ここには洋館街ある。彼が設計した洋風住宅街、池田町である。赤レンガの塀と堂々たる洋館がいくつか今も残されているが、どれも個人宅として利用されており、中を拝見することはできない。この地にはこうした洋館を所有できる経済的富裕層が存在していた(いる)証しであろう。しかし、ヴォーリズの営みはそうした富裕層向けのものを作り出すばかりではなく、近江兄弟社を創設し、メンソレータムを輸入、販売し、その利益で学校や、福祉施設などのさまざまな社会事業を展開している。今はやりの社会事業家としての活動が、彼亡き後も脈々と受け継がれている。




 このように彼が後世に残した業績は多彩である。建築物をとっても、日本の各地に彼と彼の設立した一粒社(現在も建築事務所として東京、大阪、福岡に事務所を持って活動している)が残した建築作品の数々が、大体が指定文化財として丁寧に保存、使用されている。その多くは関西学院、神戸女学院、西南学院などのミッション系の学校や教会のそれであるが、個人の住宅や東京の山の上ホテルなどもある。大阪心斎橋の大丸本館の壮麗な建物が彼の作品だと知って驚いた。

 わが父祖の地、近江については、まだまだ勉強不足で、一度訪れたくらいではその風土と歴史と時間の流れを理解することは難しい。しかし、まさに時空を超えた旅の目的地としては、押さえきれない魅力を秘めている気がする。重いカメラをぶら下げて、再訪するときを楽しみに、とりあえず今日は失礼します。

2009年6月17日水曜日

大阪 上町台地

今日は梅雨の合間の晴天となったがとっても暑い。窓から見える難波宮跡では点々と緑の中に並ぶ礎石の上で日光浴(?)している人が..... フライパンの上のソーセージ状態だ。


この宮殿は大化の改新の後、都が明日香の地を離れて生駒、金剛、葛城山系の西、すなわち海に近い難波へと遷都されるのにともなって造営された。このころの大阪は、今と違ってこの難波宮が位置する上町台地がまるで海に突き出た半島のように南北に連なっていて、その西側、すなわち今、大阪の中心街となっている地域は、直接瀬戸内海に面した難波の津、その東側、すなわち今の東大阪のあたりは、太古の海が入江となった河内湾の痕跡、河内湖とその周辺の湿地帯であった。


この上町台地上には、南の端に聖徳太子建立になる四天王寺が、さらに時を下ると、北の高台、難波宮跡地付近に大坂石山本願寺が一大勢力を誇り、やがてそれを織田信長が攻め滅ぼすと、その跡に豊臣秀吉が築いた大坂城がそびえていた。特にこの太閤さんはこの大坂を天下一の町に作り上げたことはいまさら言うまでもない。上町台地上の大坂城と南の四天王寺との間に大きな道を作り、平野郷から住民を移住させて平野町を設けた。また多くの寺をこの地域に集めて寺社町を作り上げる。今も四天王寺夕陽丘から谷町筋、松屋町筋にかけては多くの寺院が軒を連ねている。さらに太閤さんは大坂城を中心に、城のすぐ西に武家の町、上町を、東横堀を開削してその西に商業地船場を。その南には長堀、道頓堀を設けて島之内を。城の北には大川を隔てて天満。さらに船場の西を新たに開発して西横堀開削、西船場を。こうして今の大阪の地割の基礎がこのころ築かれた。


話はそれるが、この太閤割りは、九州博多にも残っている。九州平定を終えた秀吉は、戦乱で焦土と化した商業都市、国際貿易都市博多を自ら視察し、縄張りを指揮して再建している。博多の太閤割りだ。これが今の福岡市博多区の街区の基礎となっている。すなわち東の石堂川、西の那珂川に挟まれた地域に、東西南北の「流れ」、「通り」による区割りを設けた。博多の豪商、神屋宗湛、島井宗室等が居ればこその再建ではあるが、大阪と基本的な都市設計思想を共有している。


大坂城はその後、既知の通り、大阪冬の陣、夏の陣で落城し、豊臣氏が滅亡するわけであるが、この大坂城と大坂の町は、その豊臣を葬った徳川によって再建され、皮肉にも城はより壮大なものになり、町はその後に天下の台所と呼ばれるような大都市になる。ちなみに今の大阪城公園として保存されている大阪城は豊臣時代の城ではなく、それをを完膚なきまでに破却し、その跡にそれを覆い隠すかのごとくに再建されたいわば徳川大坂城の遺構でる。


この上町台地に程近い天王寺区北山町は父が生まれ育った町だ。父は大阪赤十字病院で生まれたが、その病院は今も近鉄上本町駅の東の線路沿いに存在している。天王寺第六尋常小学校(今は天王寺図書館と幼稚園になっている)、旧制高津中学(今の府立高津高等学校)時代までの幼少期、青春期をここで過ごしていて、織田作之助(高津中学卒)や司馬遼太郎(上の宮中学卒)もこの地で父と同時代の時空を共有している。ちなみに時代は下るが、我らの時代のヒーロー小田実は旧制天王寺中学から、戦後の学制改革で北山町にある府立夕陽ケ丘高校へ転籍して、戦後の焼け野原となった大阪の町をここ上町台地から展望している。

子供のころには父から北山町の話をあまり聞いたことはなかったが、祖母からは良く聞かされた。もちろん私は大阪の町に住んだことはなかったので、懐かしさなどは感じなかったし、それがここ北山町での話だった事も、当時は認識していなかった。しかし、奇しくも今、初めての大阪に赴任し、単身赴任生活をこの北山町の近くの烏ヶ辻で過ごしている。大正から昭和初期の地図を天王寺図書館で見せてもらって確認したところ、北山町は、戦後整備された東西の高規格道路(現在の長堀通り)で分断され、父が生まれ育った家の番地は、いまは石が辻町に編入されている。しかし確かにその路地が確現存している。

会社へは毎朝、古代の朱雀大路跡に比定され整備されている、難波宮・大阪城までの南北約5キロの「歴史の道」を歩いて通っている。その途中には赤十字病院も高津高校もある。旧大軌百貨店も今は近鉄百貨店上本町店となり、デパ地下はわたしの日常の食料調達場である。近鉄上本町駅は、私の「ヤマト時空旅行」の出発駅だ。壮大な歴史の流れのなかで時は移ろい変わっても、同じ上町台地という空間を共有し生活する人々が連綿といる。歴史をいろどった人々がここを歩いた。そして父がここを歩いた。私もまた同じ道を歩く。戦争で焼け残った北山町の佇まいに父の面影を追い、四天王寺さん、生国魂さん、高津宮、上六の町を生活の場としている自分の不思議と因縁を肌で感じている。父は4年前に私のアメリカ赴任中になくなったが、もし生きていたら、たくさんこの上町台地を語り合えただろうに。聞きたい事もいっぱいあるんだけど.....

四天王寺


大阪城


難波宮跡


(上町台地には歴史を動かした証が,今に受け継がれている。難波津と河内潟の間に突き出した半島であった時代から



2009年6月14日日曜日

紫陽花を巡る 矢田寺









例年より2週間ほど遅く梅雨入り宣言が。と思う間もなくその2日後には早くも梅雨の中休み。
その「中休み」の合間に矢田寺の紫陽花を見に行った。

この矢田寺は、斑鳩の里の西に横たわる矢田丘陵の中程に位置する。創建は古く千三百年前に、大海人皇子が戦勝を祈念して矢田山に登られ、天武天皇即位後に七堂伽藍四十八坊を創建されたのが起源だとか。
紫陽花寺として有名になったのはいつの頃かはよくわからないが、結構な人出で驚いた。大和には花の寺が多いが、紫陽花がこれほど人を集める力を持ってるとは。

もっとも花だけを求めて人々が集まってくる訳ではない。ここ矢田寺も多くの参詣者は地蔵信仰、霊場めぐりの善男善女で、貸し切りバスやマイカーで続々と集まってくる。大和郡山駅から日頃は一日に5ー6本しかないバスが、紫陽花シーズンには大増発されて一時間に3本も出る。私はそれに乗って向かったが、こちらはあまり混んでいない。ゆっくりした路線バスの旅、だ。観光で遠くから来る人たちはそれほど多くない。

関西の寺院はよそ者には観光の対象であるが、地元の人々にとっては大事な日常の信仰と地域活動の場である。
特に地蔵信仰は日常生活に根付いていて、大阪や京都や奈良の街角には必ずと言ってよいほどお地蔵様が祀られた小さなお堂があるのに気づくだろう。これだけでも大阪は東京とは異なった異空間だ。

さて、紫陽花だが、これほどい多様な花色と形状があるとは驚きだ。もともと日本オリジナルで、母種は額紫陽花のようだ。シーボルトが長崎に滞在していたときに興味を持ち、ヨーロッパへ持ち帰っている。基本的には日本から中国を経由してヨーロッパに渡り、改良種が逆輸入されたりして西洋紫陽花と呼ばれている。矢田寺の裏山(地蔵山)はまだ満開には至らないが全山が紫陽花と言っても過言ではなく、深山幽谷に青や薄紫、白やピンクの紫陽花が咲き誇り、日々色を変える様はお地蔵様の化身のようだ。






































2009年6月11日木曜日

ブログ始めました

これまでの私の会社人生、東京を中心にロンドンやニューヨークなど海外を転勤して回りました。それぞれ複数回の赴任がありましたので、三都物語が書けそうですが、それはまた別途。
今回はなんと、大阪!しかも単身赴任!
初めての地方勤務です。
近畿。それは私にとってめくるめく異空間。ワンダーランド。
大阪を起点に飛鳥、奈良、京都、近江、伊勢など、日本のルーツの地へ便利な鉄道網を使えば1時間ほどで行ける。
歴史と旅と鉄道とカメラが大好きな私にとって禁断の園へ放り込まれたようなもの。
これから、時空を超えて旅に出ます。ワクワクする気持ちを抑えながら。
どうやら今度は四都物語が書けそう。


四天王寺