ページビューの合計

2009年11月15日日曜日

ついに卑弥呼の宮殿跡見つかる!?


纒向遺跡
大型居館の遺構が見つかった

現地説明会

JR桜井線巻向駅の真ん前だ




東には三輪山


纒向遺跡の発掘調査で3世紀の大型の居館と見られる建物跡が見つかったことがNHKや新聞報道で流れた。日経新聞も邪馬台国論争を特集するなど、早速,邪馬台国の卑弥呼の宮殿跡ではないか、と多くの考古学ファンが夢を膨らませている。

時空トラベラーも最近はかなり「邪馬台国近畿説」に近づいてきたので、このニュースに「やはり出たか!」と心が騒ぐ。秋も深まったし久しぶりに三輪山、山辺の道に紅葉を求めて散策しようと、週末、紅葉で有名な長岳寺へでかける事にした。そして「ついでに」そのJR桜井線巻向駅近くの発掘現場を訪ねてみようと。

邪馬台国ファンの私が何故「ついで」なのか? 素直に飛んでけば良いものを...  一つには、遺跡といってもどうせ柱が立っていた跡の穴が並んでるだけだろう(それを言っちゃあおしまいだが)。そして、そこへ大勢の人が押すな押すなで殺到する。日本の古代遺跡は草むす無人の野原だったり、石造物が一つポツンと建っていたり、松の木が一本目印然としてたたずんでいて風が吹き渡ってたりするのが想像をかき立てて良いのに... そしてもう一つにはそこが卑弥呼の館だと断定されたら、その時点でロマンは終わり。文献調査や、考古学調査は誰かがやってくれれば良い。その成果の話は聞きたいが、発掘現場を見たからといって素人に何かがわかる訳でもない... 永遠に「幻の邪馬台国」であって欲しい... などといいろいろ言い訳をしながら、人ごみに出て行く事をいとっているのだ。ブームが去って人気がなくなったら行くタイプだ。

いつもの近鉄桜井駅で降りると、ちょうどJR桜井線の奈良行きがうまく接続している。JRの駅はいつもと違い大勢のそれとすぐわかる「考古学ファン」の群れでホームはあふれていた。たいていが中高年のハイキングスタイルの男女(おじさん、おばさん)。関西の中高年は元気やわ、ホンマ。二両編成のワンマン電車は珍しく満員状態。私は柳本で降りるのだが、案の定一つ手前の巻向でほとんどの乗客がドッとが降りた。すごい!いつもは無人駅なのに今日は駅員が5人もいて切符受け取ったり案内したり.....大騒ぎ。

龍王山を背景とした長岳寺の紅葉はきれいだった。こちらも山辺の道ハイカーが集まっていたが、静に深まる秋を楽しみ、写真を心ゆくまで撮ることが出来た。そこから、多くの人は山辺の道を三輪方面か、天理方面に歩いてゆくのだが、へそ曲がりで人と同じ事するのがキライな時空トラベラーは、柳本の町まで戻り、そこから南へ古代官道「上つ道」を下った。後の世になって伊勢街道と呼ばれるこの道は三輪山や二上山を左右に仰ぎながら大和の集落を見て歩くのにちょうど良い。歩くこと約25分、先ほどの巻向駅までたどり着いた。さて、時間は4時半。人は先ほどに比べると少し減ったようだ。ここまで来たらくだんの発掘現場を見てゆくか... 駅の脇の空き地に受付センターなるテント小屋ができていて今回の発掘概容を説明した資料をくれる。なかなか良くできた資料だ。ツアーはもう終わりだ、と言ってたが、発掘担当者がいるので説明を聞けるとの事。


現地は住宅街の中で、巻向駅プラットホームのすぐ目の前の空き地だ。ここに立って辺りを見回すと、東に三輪山を、そして西には雲間からの夕日の光芒に映し出される二上山、金剛山を望むことが出来る。ここが何かしら神聖で特別な場所であることが実感できる。それが魏志倭人伝に言うところの邪馬台国かどうかは別にしても。やはり現地に立ってみることは古代世界を時空トリップする為には大事だ。それだけで来て良かった(あまのじゃくな自分...)。

居館は当時は二本の川(現在は川は消滅している)に挟まれた微高地に位置しており、東西軸の一直線上にに4棟が配列されている(東に三輪山に、西に金剛山、二上山)。一番大きな建物は南北19.2m、東西12.4m、床面積238.08㎡で、これまでに発掘された3世紀中葉の建物の中では日本最大。高床式の神殿のような建物で、祭祀および権力者の居室をかねていたものらしい。建物の配置などが後の時代の宮殿の原型になるもののようだ。また出雲大社の建築にも通じるものだという。しかし、7世紀以降の大和朝廷の時代に入ってからの宮殿が南北軸上に配されるようになったのは中国の「天子南面す」の考えが入ってきてからのことのようだ。従ってこの東西の居館配置はまだ中国の影響を受ける前のものなのだろうか。

しかしこれが卑弥呼の宮殿だったのか? ここに邪馬台国があったのか? まだ明確な証拠は見つかっていない。当時の邪馬台国が筑紫の奴国や伊都国など30カ国余も支配下に置くの広範な倭国連合王国の盟主であったとしたら(それが経済的、軍事的に倭国を支配したのではなく、ある種の祭祀を司る権威で擁立されたものだとしても)、その女王である卑弥呼の居館としてはこの建物は少し小さいような気がする。この三輪地域の王(豪族)の居館くらいの規模だといってもおかしくない。ただ、この建物の東にさらに大きな建物がある可能性もあると言う。この居館の周辺がどのようになっていたのかが興味深い。今後の発掘に期待したい。

考古学ファン,とりわけ邪馬台国近畿説論者の期待にも関わらず、これが卑弥呼の建物なのかどうかはまだ確定できない。年代法によれば3世紀中頃のものだというが、これに異を唱える学者もいる。いずれにせよ、九州の吉野ケ里遺跡のような農耕と生活のための集落とは異なり、生活臭がなく、ある意図を持って人為的に建設された「都市」が纒向遺跡の特色だと言われてきたが、中心となるような宮殿、神殿にあたる建物が見つかっていなかったことが難点であった。そこでこのような政治や祭祀の場として建設されたであろう建物群が見つかった事は意義深い。ヤマト王権のルーツ、日本の古代史の未知の部分を解き明かす手がかりの一つになることは間違いないだろう。




以下に、秋の長岳寺散策の写真を掲載する:























































2009年11月12日木曜日

新・大大阪の夢 (御堂筋編)


大阪市立愛珠幼稚園

日本生命本社

大阪ガス
通称ガスビル

大丸心斎橋店


先週末は土曜日には、奈良西ノ京の唐招提寺へ平成の修理完成落慶法要が済んだ金堂を見に、また東塔の解体修理が始まる薬師寺へ行った。
この写真は別途掲載するつもりだが、秋の観光シーズンたけなわであることも相まって、大勢の人出で、こころしずかに金堂の修復を愛で、諸仏に手を合わせる雰囲気ではなかった。

唐招提寺は入山に大勢の人の列。皆さんよく知ってるんだなあ。しかも寺院、仏像ブームもあって若い女性「仏女」が目立つ。特に薬師寺は東塔の解体修理への寄進イベントなのか、大勢の善男善女が東塔の公開に長蛇の列をなし、写経納経の受付でテントが並び、坊さんはハンドマイク片手に走り回わり、ライブイベント開催で金堂と講堂の間は立ち入り禁止。

ちょっと来る時期を間違えたなあ。

で、次の日には、がらりと趣向を換えて大阪の近代建築遺産を求めて,「新.大大阪の夢」シリーズの第3弾として御堂筋をライカM9片手に徘徊する。

だんだん「ブラタモリ」風になってきたなあ.....

今回は淀屋橋を起点に南へ歩く。日曜日とあってオフィス街のこのあたりは人気が少なく,ゆっくりとブラパチ散策を楽しむことが出来た。

ビルの前で立ち止まって一生懸命カメラで下から上を仰ぎ見ていると、通りがかりの人が「なに撮ってんやろ?」と一緒になってビルを見上げるのが楽しい。つい,「このビルは素敵ですねえ」、「フーン、昔から建っとるけどな...」などと自転車に乗ったオッチャンと,ほとんど意味のない会話が成立するのが良い。大阪人は東京人のように周りに無関心(あるいは無関心を装っている)でないのがよい。気取りがなくて「好っきゃで」大阪!

そういえばニューヨークで建築写真撮ってたときも同じ経験をした。たいがいは「Oh, Nikon. Good Camera, isn't it?」と声をかけられる。建物ではなくカメラの方に関心が。ホームレスのおじさん(オニイさん?)がブツブツとカメラのうんちくを語り、最後に,要はナイコンが最高だ,と言って去っていったこともあった。通りがかりのおばさんが建築評論家よろしく,延々と建物の故事来歴を聞かせてくれたこともあった。大阪はニューヨークだ。人がオープンでよそよそしくない。

まずは、堂々とした白い石の塊、日本生命本館。そこから東に折れて緒方洪庵の適塾跡とその隣の大阪市立愛珠幼稚園、八木通商本社ビル、再び御堂筋に戻り大阪ガスビル、又一ビル、そして心斎橋大丸本館と写真を撮り回った。どれも大大阪を代表する近代建築であるが、その有様がそれぞれで楽しい。大阪は面白い!

なかでも一番感動したのは、日本で一番古いと言われる愛珠幼稚園だ。堂々たる近代建築群とは異なり、堂々たる日本建築。明治34年竣工。これが幼稚園か。しかもまだ現役の...  大大阪の中心地にこんな広大な敷地を有する幼稚園。船場の旦さん、ゴリョんさんの底力を見せつけられる。

もう一つは大阪ガスビル。昭和モダニズム建築の粋と言っていいだろう。1933年竣工で、ちょうど御堂筋拡張工事が本町通りまで進んだ時期だ。ここではガスを使った近代的な家庭生活をショールームとして紹介していたようだ。今でも最上階のレストランは大阪モダンの象徴である。大阪ってすごい町だったんだ。御堂筋のランドマークだ。

もちろん大丸心斎橋店ビルはウイリアム・ヴォリス設計の大阪を代表するアールヌーボー建築。御影石とスクラッチタイル、テラコッタの3段重ね。すごい装飾に覆われている。最近はデパートが景気悪くって、つぎつぎ店を畳んでる。大丸の隣のそごうも近代建築の代表的な建物であったが、取り壊されて新生そごうの本店として高層ビルに建て直された。それもつかの間、結局そごうは心斎橋から撤退を決めて、隣のライバル店、大丸へ売却。大丸北館として11月14日に再オープンする。大丸さんがんばってくれよな。一生懸命買い物するよってな、この建物の為にも。それだけの価値のある建物だよ。

最近の経済情勢を見るにつけ、「昔はよかったなあ」などと,年寄り臭い感慨に浸るのは嫌だけど、御堂筋沿いの古き良き時代の大大阪の建築遺産を見せつけられると、つい過去を振り返りたくなってしまう。

日本もヨーロッパの古い町のように時間の経過とともに熟成した町が増えると良いのだが。残念ながら日本は近代資本主義の時代に入ってわずか100年余。蓄積された近代建築の町並みが充分に景観として形成され熟成する時間を経ていないのと、その間に戦争や地震で失われてしまったのと、高度経済成長の時代に惜しげもなく取り壊してしまったのとで、ヨーロッパの都会ほどに厚みのある景観が残されていないのが残念だ。大阪の町に残された、数少なくなりつつある栄光の時代の遺産をこれからも大事に残してゆく努力が必要だろう。

むしろ,繁栄を享受した大都市よりも経済発展に取り残された地域、であるが故に戦争で空襲も受けず、地上げにも遭わずに残った地方の田舎の方に日本らしい町並みが残っているのは皮肉だ。こうした景観の集積は貴重で、これが普通の町の普通の景観になって欲しい。これからはこれらを大事に文化遺産として、今度こそ破壊せずに後世に残していかねばならないと思う。




適塾跡にある緒方洪庵像








































心斎橋
ここは駐輪場ではありません。