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2010年10月30日土曜日

東大寺ワンダーランド あなたの知らない鎮護国家の寺

 台風一過、といえば快晴の秋晴れを想像するが,豈図らんや今日は雨。うっとうしい天気だ。太陽光パネルで一日のエネルギーを充電する人間にとってこれは朝から元気が出ない。
 雨の飛鳥の里を散策するのも良いものだ。が、こんな日は奈良国立博物館の正倉院展を見に行こう、と鶴橋から近鉄奈良線に乗車。いつも鶴橋か上本町へ行ってみて、奈良線に乗るか大阪線に乗るかは実は行き当たりばったりであることが多い。
 奈良線の平城京趾を横切る電車からは、雨にも関わらず傘さした大勢の観光客でだだっ広い広場がいっぱいになってる光景が見える。恐るべし...平城遷都1300年イベント。いやな予感...。

 近鉄奈良駅に近づくと、車内アナウンスで、正倉院展で駅が混むから帰りの切符は行きに買え、とか、正倉院展の前売り切符を駅で売ってるから買え。100円安いぞ、とか、正倉院展へは便利な近鉄電車で、とか正倉院展、正倉院展、と連呼し始めたので、こりゃかなり混むぞ,と不安な気持ちに。とにかく休日は人が押せ押せで混み合う所には行きたくない。まして展覧会でゆっくり見れないんじゃあ何しにいってるのか分からない。東京上野の阿修羅展のようにショーケースに近づくのに1時間半待ち、なんて馬鹿げてる。興福寺へ行けば,フツウに諸仏の間におわします阿修羅像が...

 奈良駅を降りると、駅から博物館まで,ゾロゾロと人波が続く。「雨にも負けず,風にも負けず...」。貸し切りバスも列をなしているではないか。博物館に着くと、テントが出ている。そこに人の列がとぐろを巻いて切符を求めようと並んでいる。さらに館の入口には切符を持った人が外まで並んで中に入らんとしている。中は推して知るべし...

 こりゃあきまへんわ。ここは上海万博か!ぎょうさんの人たち、みな熱心だわ。こげん中には入りきらん。ヤオイカンバイ。

 で、次の選択ルートへ最適ルーチング。人出で賑わう道を外れて大仏殿横から戒壇堂へ退避。人の行かない所を探して時空トリップ。抜群のトラヒックコントロールだ。はやりのコグニティブWi-Fiも顔負け。

 戒壇堂は東大寺に設けられた受戒の場であったところ。唐僧鑑真が聖武天皇はじめ400人に授戒したのち、孝謙天皇の宣旨により造営された戒壇院がその起源。東大寺の他には、筑紫太宰府の観世音寺、下野薬師寺に戒壇院が設けられた。観世音寺の戒壇院の伽藍配置関係やたたずまいが似ているのは偶然ではないだろう。
 戒壇堂は今では四天王像が有名だ。天平時代の作品と言われる。もっとも創建当時の伽藍は過去3度の火災で灰燼に帰し、現在の建物は18世紀江戸時代に再建された。この四天王像も東大寺西門から後に移設されたものだと言う。
 しかしその堂宇はいかにも奈良の寺院らしい風格を備えている。拝観に来ていたご婦人の一人が、連れに「このお寺は何様式言うんや知らんけど、いかにも奈良のお寺やわ。京都のお寺とちゃうわ」と感想を述べる。さすが関西の人はお目が肥えていらっしゃる。太宰府観世音寺の戒壇院もこの東大寺戒壇院と比べると規模は一回り小さいが、その天平の面影を残していて時空を超えた繋がりを感じることが出来る。

 大仏殿の裏は,知る人ぞ知る東大寺のワンダーランドだ。写真家入江泰吉氏も、奈良へ行ったら表ばっかり歩かずに必ず大仏殿の裏へ行くべし。そこには奈良の美が隠れていると言ってた。確かに,時空の旅人のイマジネーションをかき立てる場所は,にぎやかな観光スポットでないほうがいい。もうすぐすると大仏池越えの赤や黄色の紅葉、銀杏が鮮やかに大仏殿を彩る光景を見ることも出来る。知る人ぞ知る絶景スポットもある。

 長い土塀と鬱蒼とした木立のおくには正倉院がある。今日は正倉院の外構公開日である。こちらは人もまばら。確かに正倉院御物を見る方が面白いので博物館は混んでいる、校倉造りの蔵何ぞ見ても面白くもないのだろう。訪れた見物人も「教科書で見た通りや」とケータイデジカメでヵシャーンと写真撮って帰っていくだけ。シルクロードの東の終着点、平城京の国際色豊かなお宝が満載の正倉院。その収蔵御物はその交流の歴史の証だ。しかし、黒々とした存在感をあたりに誇るマッシブな木造の蔵。正倉院の校倉造りの建造物自体も歴史の生き証人だ。

 東大寺の大鐘楼にたどり着く頃には雨がかなり降り始めた。この梵鐘も大きくてすごいがそれを支える黒々とした木組みが力強い。また、一本一本の柱を丹念に眺めると時を経た木造建築のたくましさ、命さえ感じる。
 柱の根元に雀が一羽死んでいる。かわいそうに,どうしたのだろう。人知れず腹這いで目を閉じて横たわっている。こんな雨の中、大梵鐘の柱のたもとに...「幸せの王子」の童話のつばめの話を思い出した。この雀は釈迦如来のお使いで大勢の人々に幸せを届け続けて息絶えたのだろうか。あわれ。合掌。

 雨が激しくなって来た。帰ろう。

2010年10月28日木曜日

失われた宝剣 聖武天皇のつるぎ

東大寺大仏殿の大仏の膝元から明治時代に掘り出されていた2振りの剣はその氏素性が不明で、大仏殿を建立する時の一種の鎮壇具と考えられていたが、このたび正倉院の宝物のリストである国家珍宝帳に記されていた聖武天皇の2振りの宝剣、「陽寳劔」「陰寳劔」と判明。X線解析の結果、それぞれの根元に「陽劔」「陰劔」の文字が判読されたことから結論に至った。

 この2振りの剣は「国家珍寳帳」から奈良時代に削除され(削除の付箋が残っている)て以来、長く行方不明とされていたが、今回の調査で,明治期にこの大仏の足下45cmから発見された長さ1m程の鉄製の2剣がそれであることが解明されたという訳だ。

 研究者は、おそらく聖武天皇崩御後に光明皇后が天皇愛用の2剣を、天皇思い入れの大仏の足下に埋納したのであろう、と解釈している。

 東大寺大仏殿は奈良を代表する著名な観光地であるが故に、何度も足を運ぶ機会があり、感動や新たな感慨をやや失っていた感がある。しかし、よく見る大仏の足下からこのような剣が出土していたことも知らねば、それが聖武天皇愛用の宝剣であったことももちろん知らなかった。確かにこの蓮の須弥壇は奈良時代オリジナルであるとは聞いていたが...

 おそらく、研究者の推理の通り、光明皇后が聖武天皇を忍んで死後に大仏の足下に奉納したものだろう。これにはいろいろな意味合いが隠されているのかもしれないが、少なくとも夫の生涯をかけた国家事業への思いを理解し、死後にその思いに応えようと、その志の成果に夫愛用の剣を埋めたという、妻の深い愛情を感じざるを得ない。男はその人生をかけた夢を妻や家族に理解されることが無上の幸せなのだから。



 大仏(毘盧遮那仏)も幾多の戦乱で破壊され変容を受けて現在の姿はオリジナルとはかなり違ってしまったと言われる。もともとは金色に鍍金された光り輝く金色仏であったという。須弥壇の線彫りの仏の像は奈良時代からのオリジナルだと言われており、おそらくはこれが大仏の姿であったのだろう。


Dsc_9675 この足下の須弥壇から、聖武天皇の2振りの宝剣が出土した。東大寺を訪れるたびにいつも見ている所だが、その奥にこのような物語が潜んでいるとは...じっくりと時空を超えた世界を心をカラにして見ることが大事だと悟る。
Dsc_9671
 世界最大の木造建造物だとされる現大仏殿も、江戸時代の再建で、オリジナルの2/3の大きさになってしまっている。過去の度々兵火で消失しその度に再建された。有名なのは鎌倉時代の重源による再建。平氏の南都焼き討ちで灰燼に帰した東大寺を再建した。南大門などの金剛力士像のだはこの時代の傑作。

 このように名所に隠された秘話が塗り込められていたことに歴史の奥深さと、人の心の時空を超えた共感を感じざるを得ない。私が死んだら私の愛用の「陽寳機」「陰寳機」、すなわちライカとニコンはロンドンのハイドパーク,ニューヨークのブライアントパーク、グリニッチのビニーパーク、そして福岡の大濠公園に埋めてくれ。誰も気がつかないだろうが...

NHKニュース2010年10月25日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101025/k10014811911000.html

2010年10月17日日曜日

初瀬街道を行く






秋の好天の週末、今出かけるなら奈良平城遷都1300年記念で平城宮跡か、あるいは明日香巡り。NHKも特集を組んで奈良が盛り上がっている。観光客が押し寄せている様子がテレビから流れてくる。しかし、そうなればなるほどへそ曲がりの「時空トラベラー」はそんな所へは絶対出かけない。人でごった返している所へ、なんでわざわざ出かけるんだ。しずかに更けゆく秋をめで、時空を超えた古代世界に一人で浸る。それが好き。で、初瀬街道を歩くことにした。

初瀬街道は泊瀬街道とも呼ばれ、桜井,三輪から長谷寺へ向う参詣道。かつては宇陀を通る伊勢本街道に対して、伊勢へのバイパス街道でもあった。桜井では古代の横大路、難波へ向う竹内街道につながっていた。壬申の乱では大海人皇子が伊勢から大和に攻め上った道でもある。
今回は近鉄大和朝倉駅から長谷駅までの一駅分を歩いた。一駅と言ってもこの辺りの一駅は長い。あちこち寄りながらの道行きだが長谷寺に到着まで約2時間半の行程だ。

両側を山に挟まれた緩やかな上り道で隠口(こもりく)の泊瀬(初瀬)と呼ばれた訳が分かる。左手には三輪山、初瀬山、纒向山と続く山塊が迫り、右手には多武峰、外鎌山、鳥見山を見て歩く谷間の街道。しかし、初瀬川沿いのこの辺りは豊かな田園地帯でもある。いつもは電車から見下ろす谷あいの平和な田園集落。歩いてみると刈取りの始まった田んぼ、柿が色づき始めた軒下。コスモスも満開。穏やかな道すがら、両側の山々を見上げる。今日は近鉄電車が山裾を走っていくのを見上げる。

初瀬古街道は車の通行の多い国道165号に平行したりクロスしたり、縫うように進む。たいていは古くからの集落の中を抜けるのどかな道だ。途中には神社や天皇の宮跡がある。万葉歌碑も多いところだ。白山神社の辺りの台地が雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と言われており、万葉歌碑が建っている。また十二柱神社は武烈天皇の泊瀬列城宮跡と言われている。いずれもそれを特定出来る考古学的な裏付けはないが、日本書紀に記述のある激動期の大王宮が、今はのどかな風景のこの辺りに造営されていたのだろう。すなわち雄略大王とその子清寧大王で河内王権の皇統が途切れ、さらに播磨王権系統の武烈大王は暴虐の大王として日本書紀に描かれ,何らかの皇統の断絶が起こったことを意味すると言われている。そして突如、継体大王が越国から大和に入国してくることになる。

十二柱神社には相撲の始祖ケハヤの石塔がある。この辺りは出雲という集落である。古代出雲国から来た人々が住んだ地域だったと言う。ちょうど十二柱神社秋の大祭の日で。静かな集落に山車が出て太鼓の音がにぎやかになっていた。子供達が山車に乗って太鼓を叩き、後ろからチョコチョコとついて回ったり。若いおかあさんが小さな子の手を引いたり、だっこしたりして山車に続く。微笑ましい光景だ。家々からはお年寄りが山車を見ようと軒先に出て、年一度の小さな祭りを楽しんでいる。それでも静かな集落で,山車が過ぎると再びシーンとした空気に満たされる。

ここ出雲集落はまた出雲人形で有名。かつては長谷寺詣でや十二柱神社参拝の土産として盛んにつくられた素朴な土人形だ。しかし、いまや窯元は水野家一軒になったしまったという。窯元を訪ねようと探したが分からなかった。ちょうど家の前で祭りの神輿が過ぎるのを見ていたかわいくて上品なおばあちゃんに訪ねたら,とても丁寧に行き方を教えてくれた。ただ、もう跡を継いだ人も病気で今はやってないと聞いた,と教えてくれた。

国道沿いの出雲バス停の近くに水野家は見つかったが、やはり誰もいない。「大和いづも人形」の看板だけがひっそりと掛かっていた。残念。京都の伏見人形もとうとう丹嘉一軒になってしまった。

さらに国道沿いを歩くと長谷寺の参詣道との分岐点に至る。車が瀑走する国道を歩くのは少しも楽しくない。参詣道に折れてホッとする。今日は與喜天満神社の大祭の宵宮。家々には提灯や幔幕が出されていて祭りの気分でワクワクさせる。長谷寺はこの季節はボタンも紅葉も桜もなくて少し寂しいが、その分参詣者も少なくゆったりと散策出来る。

與喜天満神社の長い階段を昇ると夜の灯明の準備が進められていている。頂上の神殿にたどりつくと、立派な御神輿が拝殿前に鎮座ましましている。拝殿では地元の長老や祭りの役員さんたちがにぎやかに談笑して、祭礼の始まるまでの時間を楽しんでいる。ここからは今歩いて来た初瀬街道を西の方向に見おろすことが出来る。「こもりくの初瀬」とはよく言ったものだ。絶景だ。

参詣道の途中で初瀬街道筋のジオラマを出している古民家があった。中から若者が出て来て,この民家を開放しているので見ていって下さい、と。早稲田の学生がNPO法人と古民家保存の活動中なのだそうだ。若い建築学生達が長谷の町並みと古民家を壊さないように、と熱心に語ってくれた。築150年のこの古民家はついこの間まで持ち主が住んでいたが、引っ越ししたので取り壊して駐車場にする予定だとか。なるほど駐車場...か。手っ取り早く金になり、そして永遠に150年の建築は葬り去られる。かといって所有者を非難も出来ない。私が学生生活を送ったイギリスのケントやサセックスの古民家(こちらは築200年から300年も珍しくない)の長寿、現役ぶりと、つい比較してしまう。何が違うんだろう... 確かにイギリスは古くてイワクツキの幽霊が住んでる古民家などプレミアプライスで市場に出るお国柄だ。

参道の「いつかし」という茶店で出雲人形を売っている。店の女将に聞くと、「いつかし」とは古い姓で「厳樫」と書くのそうだ。その名を歌った万葉歌碑まで店の前に建っている。ここの江戸時代の家屋を建て直した時に,庭から出雲人形の型がたくさん出てきたそうだ。それでこの型を使ってこのオカアさんが自ら人形の復活を果たした。「出雲の水野さんの所はもうやってない」と厳樫さんも言っていた。やはりそうなんだ。ともあれこの「厳樫出雲人形」は表情は実に素朴だ。相撲と太鼓持ちを買い求めた。「庭から出たお宝だ。いつまでも造り続けて下さいよ」と言うと、「土産は今は人形よりも草団子ばっかりになってしもうた」と嘆いていた。

今来た初瀬街道を西に向って帰る。はや山々の間に夕陽が真っ赤に空を染めて沈まんとしている。秋の夕暮れはつるべ落とし。国道を横切ってだらだらと坂を昇り近鉄長谷寺駅にたどり着く。しばし西の三輪山と鳥見山の間に沈みゆく夕陽にみとれる。

駅のホームには誰もいない。駅が赤く染まっている。特急,急行通過待ち2回の後にようやく大阪難波行きの準急が来た。6両編成の電車にはほとんど誰も乗ってなかった。