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2010年10月28日木曜日

失われた宝剣 聖武天皇のつるぎ

東大寺大仏殿の大仏の膝元から明治時代に掘り出されていた2振りの剣はその氏素性が不明で、大仏殿を建立する時の一種の鎮壇具と考えられていたが、このたび正倉院の宝物のリストである国家珍宝帳に記されていた聖武天皇の2振りの宝剣、「陽寳劔」「陰寳劔」と判明。X線解析の結果、それぞれの根元に「陽劔」「陰劔」の文字が判読されたことから結論に至った。

 この2振りの剣は「国家珍寳帳」から奈良時代に削除され(削除の付箋が残っている)て以来、長く行方不明とされていたが、今回の調査で,明治期にこの大仏の足下45cmから発見された長さ1m程の鉄製の2剣がそれであることが解明されたという訳だ。

 研究者は、おそらく聖武天皇崩御後に光明皇后が天皇愛用の2剣を、天皇思い入れの大仏の足下に埋納したのであろう、と解釈している。

 東大寺大仏殿は奈良を代表する著名な観光地であるが故に、何度も足を運ぶ機会があり、感動や新たな感慨をやや失っていた感がある。しかし、よく見る大仏の足下からこのような剣が出土していたことも知らねば、それが聖武天皇愛用の宝剣であったことももちろん知らなかった。確かにこの蓮の須弥壇は奈良時代オリジナルであるとは聞いていたが...

 おそらく、研究者の推理の通り、光明皇后が聖武天皇を忍んで死後に大仏の足下に奉納したものだろう。これにはいろいろな意味合いが隠されているのかもしれないが、少なくとも夫の生涯をかけた国家事業への思いを理解し、死後にその思いに応えようと、その志の成果に夫愛用の剣を埋めたという、妻の深い愛情を感じざるを得ない。男はその人生をかけた夢を妻や家族に理解されることが無上の幸せなのだから。



 大仏(毘盧遮那仏)も幾多の戦乱で破壊され変容を受けて現在の姿はオリジナルとはかなり違ってしまったと言われる。もともとは金色に鍍金された光り輝く金色仏であったという。須弥壇の線彫りの仏の像は奈良時代からのオリジナルだと言われており、おそらくはこれが大仏の姿であったのだろう。


Dsc_9675 この足下の須弥壇から、聖武天皇の2振りの宝剣が出土した。東大寺を訪れるたびにいつも見ている所だが、その奥にこのような物語が潜んでいるとは...じっくりと時空を超えた世界を心をカラにして見ることが大事だと悟る。
Dsc_9671
 世界最大の木造建造物だとされる現大仏殿も、江戸時代の再建で、オリジナルの2/3の大きさになってしまっている。過去の度々兵火で消失しその度に再建された。有名なのは鎌倉時代の重源による再建。平氏の南都焼き討ちで灰燼に帰した東大寺を再建した。南大門などの金剛力士像のだはこの時代の傑作。

 このように名所に隠された秘話が塗り込められていたことに歴史の奥深さと、人の心の時空を超えた共感を感じざるを得ない。私が死んだら私の愛用の「陽寳機」「陰寳機」、すなわちライカとニコンはロンドンのハイドパーク,ニューヨークのブライアントパーク、グリニッチのビニーパーク、そして福岡の大濠公園に埋めてくれ。誰も気がつかないだろうが...

NHKニュース2010年10月25日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101025/k10014811911000.html