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2011年2月28日月曜日

ライカの赤いロゴマークは許せるか? ー世の中の大勢に何ら影響のない話ー

 ライカファンの昔からの論争の一つに、アノ、カメラ正面についている赤いライカのロゴマークは好きか?というのがある。このロゴマークをカメラボディーに取り付けるというのは主にM6から採用されたもの。本来ライカのようなスナップショットやキャンデットフォトを得意とするカメラは目立ってはいけない。なのによりによって赤いロゴを正面にくっつけるとは何事...というのが反対派の論拠。一方、ライカというブランドカメラを誇示したい向きには,むしろカッコイイロゴがついた,という事に。

 伝説のライカ使い,アンリ・カルチェ・ブレッソンは、わざわざ、シルバークロームボディーのライカM3に黒のマスキングテープを貼って「決定的瞬間」をとり続けたという。その為、ライツ社も黒い塗装のライカM3を発売したくらいだ。その後、カメラと言えばライカもニコンも黒,というのが定番となる原点となる逸話だ。とにかく目立ってはいけないのだ。

 そもそも保守的なライカファンにとって、M6のように、電池式内蔵露出計のような電子的な装置を組み込んだカメラが許せるか否か,という論争がはじめにあった。当時の批判者の喩えで「弁当に生ものを入れるようなものだ」という批判があった。すなわち、機械式であれば壊れない、あるいは壊れても修理が利くのでほぼ一生使えるのに、電池で動く脆弱な電子デバイスと組み込む事で、壊れるとカメラ自体が使えなくなる、というたとえ。弁当が腐らない日の丸弁当の時代の日本的な喩えである所が楽しいが。
 昨今のライフサイクルの短いデジタルデバイス見てると、「一生もの」の価値の重みを想起させるエピソードでもある。

 ロゴマークの問題は、そうしたM6の「電子化」、「量産化」に伴う道具としての価値(商業的な価値に限らないが)の下落に対する危惧という象徴的な意味もあった。 それが「そもそもあの正面のロゴマークは何だ。目立ち過ぎだろう」という「坊主憎けりゃ...」の類いの批判に繋がったのかもしれない。

 やれやれ、ライカユーザは頑固で古いスタイルに固執する。

 しかしライカ社はそうした論争をしたたかに汲み取り巧妙な市場戦略に出た。その後のライカMシリーズではM7のように赤ロゴにしたり、お得意の限定モデルで黒ロゴにしてそれを売りにしたり、MPのようにロゴを取り除いたり、まあなかなか両方の陣営の心理をくすぐる商売をしている。デジタル化したM8は赤だったが、そのマイナーアップグレード版のM8.2では黒にした。その次のM9は再び赤に... そしてM9チタン限定モデルでは、ご丁寧にアクリル磨き出し、墨入れて作業の凝った赤ロゴマークが堂々と正面中心を飾る。目立つように...

 興味のない人にとってはこれほど世の中の趨勢に何ら影響を持たない論争はないが、マーケティング上は、なかなか面白いケースを提供してくれていると思う。ニッチな市場ではこうした趣味人の論争が真剣に製品ラインアップ形成に影響を与えている。朝令暮改に見える一連のロゴマークの変更だが,そこには明らかな意図が読み取れる。

 ちなみに私は赤ロゴは好きだ。

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(M9デジタルの赤ロゴマークは黒い生地に映えて美しい)

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(M9チタンのアクリル磨き出し、墨入れ手仕事の高級ロゴは実用よりもステータスと目立ちを強調する)

2011年2月25日金曜日

琉球の風 ー成長のポテンシャルはここにありー

















仕事で沖縄へ出張。3年前にシンクタンクの遠隔地医療のプロジェクトで琉球大学を訪問した時以来だ。

大阪伊丹からの便は満席。こんな季節に,何故?と思ったが、沖縄は今が一番過ごしやすい季節なのだ。暑すぎもせず寒くもなく。確かに昨日まで着込んでいたコートは置いて来た。支店での会議も皆ネクタイを外した。さすがにカリユシウエアーにはまだ早いらしいが。今はプロ野球10球団が交互に沖縄キャンプを張る季節。オフシーズンでこの快適な気候、分かる気がする。そしてそれお目当ての観光客やファンも多いと言う。確かに機内には私のように背広にネクタイなんて無粋な格好した乗客はほとんどいない。

那覇空港は他の地方空港に比べるとなかなか立派だ、サンフランシスコやサンノゼの空港の雰囲気を想起させる。そして那覇の街へ出るとそこも大きくて立派な街並が続く。県庁や博物館などの公共の建物が大きくて堂々としている。最近オープンしたというショッピングモールも、都心にフルブロックの敷地を有している。個人の住宅や小規模な建物もみなコンクリート製で頑丈。木造家屋や瓦屋根がなく街全体が白っぽく見えるのはこのせいだ。街路樹はガジュマルなどの亜熱帯植物で、こうした町並みが独特の景観を生み出している。なんだか西海岸的な空気が漂っている。

台風の通過点なので木造家屋では心もとないので頑丈なコンクリート製になっているんだと,支店の方が説明してくれた。確かに、街のビルの谷間に所々残る琉球風の古民家も、瓦を漆喰でしっかり固定し、石を載せたた屋根になっている。そしてシーサーが屋根に載っているのがご愛嬌だ。

基本的に車社会で、公共輸送機関はこれまでバスだけだったが、数年前にようやくモノレールが空港から首里城間で開通した。それでも車社会である事は変わらない。道路も広いが結構渋滞する。アメリカの都市並みだ。

また長い米軍統治下で、那覇の都市計画には建物や街区の設定に米国式が持ち込まれた為かもしれない。印象的なのはそれぞれの家屋の上に銀色のステンレス製のタンクがのっかっている事だ。これはもちろん水不足に対応する為の水槽だが、ニューヨークの街のビルは必ずある木製の水槽を思い起こさせる。多分米軍統治時代の置き土産かもしれない。

意外に起伏の多い市街地と幅広い道。町並みがアメリカナイズされ、さらにはようやく本土復帰後、復興の為の資金投入で造られた街は,立派で,堂々とした大都会を生み出したが,一方で古い古民家がここでも次々と失われて行く。支店の方が「宮古,石垣へ行くと全く違う町並みに出会いますよ」と説明してくれたので少しホッと出来た。

車で少し走るだけで米軍基地が大きなスペースを占めている事がすぐに分かる。那覇の湾岸を占める広大で閑散とした補給基地。宜野湾市の普天間基地、極東最大の嘉手納基地の延々と続くフェンスと土手。東アジアのキーストーン沖縄の実態だ。沖縄の人々の思いとは裏腹に,中国の軍事的膨張、尖閣諸島への領土的野心などの東アジアの緊張の高まりがますますこの沖縄の戦略的な重要性を再認識させる事となるだろう。

車で北へ向う。沖縄自動車道はさすがに駐留軍ナンバーの車が多く走ってる。なかにはなぜか懐かしいコネチカット州のナンバープレートで走ってる車もいる。おいおいここは日本だぞ。浦添市、沖縄市(旧コザ)、宜野湾市、宜野座村。高速道路を一時間程走ると、名護市、宜野座村のIT金融特区に到着。ここに我が社のコールセンタとデータセンタがある。この特区には全国から200社余のIT、金融関連の企業が集まっている。

我が社のデータセンタの入る宜野座ITオペレーションパーク、サーバーファームは、国の補助金で建てた村立の施設だ。外見はシリコンバレーのIT企業本社のような広大な駐車場を有し、立派な建物は美しい珊瑚礁の海(ちゅら海)に面した眺望絶佳の地にある。さすがにまだ沖縄のシリコンバレーと呼べる程の「知」と「資金」の集積度はないが、琉球大学などの研究機関が人材を世界から集められるようになれば大きな相乗効果が得られるかもしれない。

二階の喫茶室のテラスから望む美しい海の彼方には,辺野古地区、米軍基地キャンプシュワブが見える。ここが、普天間基地の移転先候補として話題になっている所である。無責任な国のトップの妄言、迷走に沖縄の人たちが惑わされている問題の現場だ。こんなに静かで美しい平和な海なのに。ちゅら海、米軍基地、補助金による特区、公共工事、政治の迷走,市民の困惑.. 沖縄の激動の歴史と現実がこの静かな風景の中にも凝縮されている。

その昔、琉球王国は大陸や日本やルソンといった東アジア地域のハブという地政学上の位置を占めて、その大国の勢力バランスの均衡の中で平和な経済、文化の交流を行って来た海洋王国であった。人々は芸能や、アートをたしなみ、高い教養と、国際的なセンスを有する平和な人々であった。大きな軍事力に頼らず文化と知性で生きて来た人々であった。しかし江戸期の島津藩による支配、明治期の琉球処分、さらには太平洋戦争での日本での唯一の本土決戦地となり、多くの住民が犠牲になった。戦後の米軍統治。平和な島が過酷な歴史を経験する事となった。

こうした歴史の積み重ねが那覇の街にも北部の宜野座村にも幾重にも折り重なって風景の中に閉じ込められている。

ところで沖縄は全国一の長寿県。しかも出生率上昇中。県の人口増加中。地方がドンドン人口減少や少子高齢化が加速して元気がない中、日本全体が縮小する中,これはすごい。県民所得や事業所数は全国的比較では低位に位置づけられているが,そのような統計上の数値に表れない魅力と成長のポテンシャルを秘めているようだ。ひょっとすると日本全体の再生、復活のシナリオを描くヒントが沖縄に隠れているのかもしれない。



(宜野座ITオペレーションパーク、サーバーファーム一号館。一階にデータセンタ、二階にコールセンタ、二号館はオフィス棟)



(ビル二階のテラスからは渦中の辺野古地区、米軍キャンプシュワブが望める。この珊瑚礁のリーフに守られたちゅら海が静かで平和な風景を生み出しているのが皮肉だ)




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2011年2月14日月曜日

京都 時空の迷宮に遊ぶ ー晴明神社、冷泉家、相国寺、伏見稲荷ー



京都は時空を超えた1000年の都。様々に異なる時代を写し出すアイコンがそこここに潜んでいる。我々が知らない街角にも、有名な観光スポットであっても,その一角に知られざる逸話と歴史が潜んでいる所がある。まさに時空の迷宮だ。その迷宮に足を踏み入れると出れなくなりそうだ。

その一:晴明神社あたり

安倍晴明は平安時代の陰陽師。出自は奈良桜井の安倍文殊院のある里であるとしたり、大阪阿倍野の辺りであるとしたり、様々である。彼の神秘性にふさわしく、母は霊力を持ったシロギツネであった,とも言われている。ここ堀川一条戻橋の晴明神社は安倍晴明の居宅趾。彼の死後、一条天皇からその霊を鎮め、遺徳をしのぶ為に、と社を建てる事が許された。今やパワースポットブームの中心的存在で、多くの歴女、女子会ご一行様が押し掛ける。

陰陽師とは,中国から伝わった自然哲学、天文学をベースとした陰陽五行説に基づき,時、方位や占いや祈祷を司る役人である。その学問体系を陰陽寮とし、いはば当時の最先端科学と技術を操る「技術官僚」であり,同時に呪術を操る集団でもある。奈良時代から正式な官僚職位として位置づけられる由緒正しき職能集団である。

中でも安倍晴明は、最近では小説や映画化されて有名になった伝説の陰陽師、天文博士。古代の書物でも,彼が起こした奇跡が逸話として多く語り継がれている。シンボルは桔梗紋、五芒星とも言われる木、水、火、金、土の陰陽五行を示す星。晴明神社のいたるところにこの五芒星が掲げられている。なかでも鳥居の正面にかける扁額には普通は社号を記すのだが、ここではただ五芒星が掲げられている。

ユダヤのダビデの星は正三角形を上下に重ねた六芒星で日本では籠目紋と呼ばれている。六芒星は大宇宙を、五芒星は小宇宙を表すとされている。ちなみに修猷館の六光星徽章は、この六芒星の線を除いたもの。また五芒星はシュメール文化起源であると言われている。星形の持つ意味合いについては時空を超えた共通性がある,と説明する研究者もある。

境内には桃の置き物がある。これを触ると穢れが落ちるという事で多くの参詣人がなでるので、金色に輝いている。古代中国より桃は不老不死の果物、霊力を持った果物とされ、神仙思想の中でも愛でられて来た。

そういえば、最近の発掘で脚光を浴びた奈良の纏向遺跡の神殿と目される建物跡から,大量の桃の種が出土している。これが魏志倭人伝が描く3世紀の倭国の姿のなかで、卑弥呼の「鬼道」と関係があるのでは,と説明する学者も多い。この「鬼道」じたい、魏の陳寿は蛮夷の怪しい霊力として表現しているが、古代中国から伝わった神仙思想、さらには道教の影響を受けて、倭国風に変容したシャーマニズムなのかもしれない。

それにしても桃が纏向遺跡から見つかった事が、後の陰陽道とのつながりを示すものだとすると、3世紀のプレ統一王朝時代と平城京,平安京と続く天皇中心の統一王朝との間に一本の道筋が見えてくるようでもある。祭政二元論が古代統治の基本概念だった。

その二:冷泉家邸宅あたり

京都御所の北の今出川通り沿いは、今は東西に長く同志社大学のキャンパスとなっているが、その一角に、同志社の洋館とは全く異なる風情の入母屋破風の邸宅がひっそりと佇んでいる。これぞ藤原氏の血統を今に継ぐ元公家の冷泉家の邸宅である。京都御所(今の御所は1855年江戸時代末期の安政2年に建設されたもの。平安京の大内裏があったのは今の千本丸太町辺りだが,火災などで転々として現在の場所に移転した)周辺には公家屋敷きが建ち並んでいたが、明治維新後の天皇の東京行幸に伴い、多くの公家や宮廷に使える人々が東京へ下向するとともに寂れて行った。その趾が京都御苑になったわけだ。しかし、たまたま今出川通りの北にあった冷泉家だけは元の場所から移らず、現在まで公家屋敷として存続している。今や、同志社大学のキャンパス内に居候した形になってしまっている。元はと言えば同志社が後から来た訳だけど。

しかし,東京へ移した数多くの文物が関東大震災や東京大空襲により失われたのに対し、京都に残った冷泉家文庫からは貴重な古文書が大量に見つかり話題になっている。有職故実や和歌、様々な行事などが記された多くの文書が1000年の時を超えて保存されている。建物そのものも伝統的な公家邸でいまや元の住所に現存する唯一の邸宅となっている。もちろん冷泉家の子孫の方々が今も住んでおられるそうだ。

その三:相国寺あたり

冷泉邸から今出川通りを少し東に向うと、やはり同志社キャンパスの合間に北へ向う一本の道がある。その行き詰まりに臨済宗相国寺派の総本山相国寺がある。京都御所の真北に位置し、京都五山の2番目に位する大寺である。室町幕府三代将軍足利義満により創建され、開山は夢窓疎石。雪舟もここで修行している。

しかし、あまり観光客には人気がない。往時の面影は薄れたとはいえ広大な境内には堂々たる伽藍が甍を連ねているが、そこを通るのは地元の住人か同志社の学生。実は観光客に大人気の金閣寺と銀閣寺はこの相国寺の外山塔頭(境内の外に建てられた子院)である。こんな所にこんな大寺がひっそりと佇んでいるのも京都ならではだ。いまやキリスト教者新島襄創設の同志社大学に取り囲まれた学内の仏教寺院という佇まいだが,その静謐さは格別だ。

その四:伏見稲荷あたり

街中を離れ、京阪電車で南へ下ると,酒蔵が連なる伏見だ。幕府軍が敗走した鳥羽伏見の戦いが行われた所でもある。尊皇の志士が襲われた寺田屋事件のあった所もここ伏見。大阪へ向う大動脈、淀川の一番目の宿場街で数多くの船宿があった所でもあった。

ここのパワースポットは伏見稲荷。言わずと知れた全国稲荷社の総本宮。商売繁盛、五穀豊穣、交通安全の神様。おキツネ様が神社を守っている。「稲を荷なう」という意味で稲荷だそうで、口に稲束をくわえているおキツネ様がいる。ここの圧巻はご神体の稲荷山をぐるりと回る参道に延々と連なる赤い鳥居の列、いやトンネルだ。千本鳥居と呼ばれているが実際には1万基程あると言われている。全て信者の寄進に寄るもので、鳥居の大きさと建てる位置毎に値段表が掲示されている所が現世利益の神様らしい。なにしろタリフが表示されているから安心商売だ。

ここを初めて訪れる人々は、この赤い鳥居の連なる光景に感動し、不思議なパワースポットに来たという興奮を覚える。しかし、そのトンネルをくぐって歩を進めて行くにつれ、だんだん「まだあるの?」「何処まで続くんだ?」「もう帰ろうか」で、飽き始める。何しろ1万基の鳥居が山に沿って延々10キロ程続くのだから。

古来、秦氏由来の社で元々は和銅年間(708〜715年)に稲荷山に神を祭った山岳信仰が起源のようだから、赤い社殿にお参りして,あとは裏山の鳥居を見ればそれで良い,と思ってる人にとっては、結構ハードルの高い鳥居トンネルだ。。

この他に伏見で有名なものとして、伏見人形がある。日本の土人形の原型とも言える人形で、有名な長崎の古賀人形、佐土原人形、大和桜井の出雲人形などは、そのルーツはここ伏見だという。伏見稲荷の参道のお土産屋でも手に入るが、ちょっと足を伸ばすと、伏見人形の元祖老舗「丹嘉」がある。建物自体が保存したくなるような商家であるが、ここも人形造りを承継する人材が途絶えているとのことだ。いずれ骨董でしか手に入らなくなってしまうのだろう。

まだまだ,歩ききれない京都という時空のラビリンス,キリがないので今日はこの辺で...