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2011年6月3日金曜日

大阪城京橋口 〜つわものどもの夢のあと〜

 大阪城公園の東北にそびえ立つOBP (Osaka Business Park)のビル群、大阪の新しいビジネス拠点として住友、パナソニックなどの地元企業が中心となって再開発した新都心は、かつては幾多の戦いの場であった。

 大和川,寝屋川、猫間川などの合流する中洲地帯であったこの一帯は、弁天島とよばれ、古くは石山本願寺攻略戦や大坂の陣の古戦場であった。淀どのの遺体を埋葬した祠があるとされている。江戸期には大坂城代の京橋屋敷がおかれ、さらに時代が下り、明治維新後は,ここには大阪造兵工廠が設けらる。1945年8月15日のアメリカ軍の猛爆撃で壊滅するまで東洋一の兵器工場として有名であった。

 私が子供の頃(小学校低学年ころ)、祖父母のうちに遊びにくるときは、大阪駅から鶴橋まで環状線で移動し、そこから近鉄で奈良のあやめ池まで行くのだが、京橋駅周辺、森ノ宮駅周辺には広大な工場の残骸が広がっていたのを記憶している。戦後の再開発はなかなか進まなかったようで、終戦から15年経った1960年時点でも、大阪の街の中に広大な廃墟が横たわっているような状況だった。

 戦前の大阪は日本一の商業都市であり大大阪の繁栄を享受していたが、同時に「東洋のマンチェスター」と称せられる程の工業都市でもあった。街中にも様々な工場があって、当時の絵はがきや名所地図を見ると煙突マークがいたるところに見受けられる。江戸時代にさかのぼると住友家の銅の製錬所が島之内にあったくらいだ。

 そして、この大阪造兵工廠がその最たるものであった。しかし、考えてみると当時は大阪の街のど真ん中にこのような巨大な兵器工場が存在していたなど驚きだ。大阪城そのものがもともと要塞として構築されたことは知っているが、明治以降は城内に大阪鎮台、のちに帝国陸軍第四師団司令部が設けられ(今でも中世欧州の城風の建物が残っている)、その周辺にこのような砲兵工廠や化学工廠、被服工廠などの軍関係の工場が取り巻き、まるで軍事要塞の様相を呈していた。大阪は軍都でもあったのだ。

 ようやくこのような廃墟が整理され再開発が進んだのは1970年代に入ってからのこと。現在は高層のオフィスビルの他、いずみホール、ホテルオークラ、大阪城ホールが建ち並び、公園も整備されて市民の憩いの場にもなっている。環状線にも「大阪城公園」駅が新設された。森ノ宮駅にはJRの電車区が設けられている。

 ちなみに大坂城京橋口には太閤秀吉の時代には、壮麗な漆塗り屋根付きの京橋御門が架けられていたらしい。これは、当時太閤秀吉が大坂城の北東、すなわち京への玄関口に、天皇の行幸を迎える為の橋を架けさせたものだという。そのような壮麗な橋は現存していないが、確かにこの辺りは大川、淀川の通じて京への玄関口であった。

 さらに幕末の時代、戊辰戦争に敗北した幕府軍の総帥徳川慶喜が密かに大坂城を脱出したのもこの京橋門だと言われている。大川に出て八軒家浜から船にのり江戸へ逃げ帰った。

 このように多くの戦にまつわる土地だが、いま、OBPの高層ビルの最上階から展望すると、大阪の街は美しい。深い緑に包まれた大阪城を眼下に見て、大川にかけられた天満橋、天神橋、難波橋を望むことができる。大阪が「水の都」と称せられる訳がよくわかる。特に夜景が美しく、天神橋のライトアップされた二重橋はまるでパリのシテ島に架かる橋のようだし、洲の先端から30分ごとに吹き出す噴水すら見える。西側には堂島、中之島辺りのオフィス街の夜景が広がっている。かつての様な大大阪の繁栄は無くなってしまったが、平和で近代的な街に生まれ変わった。




(新緑美しい大阪城公園。その南側から天守閣とOBP(Osaka Business Park)を望む)




(OBPツインタワービルの最上階から大阪城公園を見下ろすことが出来る。京橋門が見える)




(夕闇迫る大阪城天守閣。城の南側にはNTT西日本本社やNHK大阪放送局、大阪歴史博物館が見える。さらに向うに通天閣がライトアップされているのが見える)



(西に眼を転ずると堂島、中之島辺りの大阪のビジネスの中心街を見渡すことが出来る。平和で美しい都会の夜景だ)




(こうして見るとこの辺りが、かつてはいくつもの川に囲まれた水運の重要拠点であったことがわかる)






(水の都大阪。ライトアップされた天満橋、天神橋が美しい。特に天神橋と中洲の光景はパリのシテ島の風景を彷彿とさせる)