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2011年9月26日月曜日

Ricoh GXR Mount A12 ーライカレンズ資産活用プラットフォーム登場ー

 予約入れてたGXRのMマウントアダプターをついにゲット。すなわちリコーGXRでライカMマウントレンズが使える待望の製品だ。APS-Cサイズの1230万画素CMOSセンサーを搭載しており、レンズ焦点距離の1.5倍となる。コンデジクラスのコンパクトなボディーで名レンズを堪能出来る。縦走りフォーカルプレーンシャッターと静音電子シャッターの両方が搭載されており、最速1/8000秒の電子高速シャッターも利用出来る。撮影シチュエーションにより選択出来る事もユニークだ。

 当然,往年のクラシックレンズや、銘玉、クセ玉を装着して楽しむ事も出来る。この時気になる周辺光量不足や歪曲収差を補正する機能もついている。もちろん,クセ玉を補正せずにそのまま使ったり、さらに周辺光量を落として個性的な作画を試みる事も出来る。クラシックレンズが現代のデジタル技術とマッチングして新しい表現方法を手に入れることが出来た訳だ。

 また、ライカM8、9同様、ローパスフィルターがないのでとてもクリアーでキレの良い画像が得られるのがうれしい。手振れ防止は当然ボディー側に。ライカMにはない細かいセッティングも可能だ。なによりライカレンズの像をライブビューで見れる事自体に感動する。液晶モニターの解像度もM8、9のそれよりもはるかに高く、よりクリアーな画像を確認しながら撮影出来る事でワクワク感も高まる。

 ベストマッチングはやはり広角系レンズか。21mmスーパーアンギュロンも後玉の出っ張りにも関わらず装着可能で全ての機能が動作可能。Mボディーでは装着出来ても測光不可だった。特にTri-Elmar-M 16-18-21が出番を得たという感じだ。これでブラパチ試写した銀座の写真。こういうノーファインダーでのキャンデットフォトに最適。軽量で手に収まるサイズで、ライカのような気負いを持たなくても気楽に撮れる。

 マニュアルフォーカスをアシストする機能がついている。拡大表示だけではなく、フォーカス部分をハイライト表示する事によってピントを知らせる。広角系レンズの場合はチョット分かりにくいが,標準、中望遠の場合はピントの合う範囲まで確認出来便利だ。

 レンジファインダーがついていると,逆説的だが、いちいちファインダーを覗かなくては、という強迫観念にとらわれてしまう。かといって、ライカMボディーについている標準のファインダーでは28mmがせいぜい。Tri-Elmar付属のファインダーはまるでカメラの上にもう一つカメラ載っけたみたいな形相となり、およそ軽快なスナップシュータとはほど遠いカメラになってしまう。

 GXRももちろん、オプションのEVFをアクセサリーシューに装着して,ファインダーでの撮影も可能だ。新しい撮影スタイルをとれる事が新鮮だ。例えば、ノーファインダー撮影で、時々液晶ライブビューでフレーミングしながら何枚も取るスタイルが心地よい。

 とうことで遂にライカレンズの出番が多くなったぞ。やっぱりM8、9のオールドスタイルのレンジファインダーボディーにこだわった撮影スタイルもいいが、しょぼい液晶モニター(画素数が粗い、遅い、ライブビューができない)や、トラブルの多いSDカードとのマッチング等等、まだまだ解決すべき課題が多いライカMデジタル。高価なプライスに見合った性能なのか疑問を禁じ得ないが、ライカファンはこんな事くらいで文句は言わないのだろう。しかし,このリコーGXRのようなカメラが出てくると,もう少しなんとか出来るんじゃないの?と言いたくなる。

 ライカはカメラの王様だが、どうしても「あの王様は裸だ!」と思わず叫んでしまった童話の子供の気持ちが分かるように気もする。。ライカよ,謙虚にシロウトの意見に耳を傾けよ。




 ライカズミクロン35ミリを装着した姿。最もコンパクトで取り回しの良い組み合わせだ。これで約52ミリの標準レンズ画角が得られる。




 トリ・エルマーの16ミリで撮影。24ミリの画角となる。ちなみに、この写真はレンズのディストーションが出てるんではなくて,このビルの在りのままの姿。これくらいの広角になると被写界深度が深く,ノーファインダーでほぼパンフォーカスで撮れる。


2011年9月25日日曜日

友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー

 筑前福岡は、関ヶ原以降に豊前中津から筑前国主として入府した黒田長政が開いた城下町だ。筑前藩52万石という外様の大藩の藩府だ。しかし、発展著しい現代の福岡市を尋ねて、福岡が城下町であったというイメージが希薄なのは何故だろう?黒田官兵衛(如水)の軍師としての活躍や、その忠臣、母里太兵衛がモデルとなっていると言われる「酒は飲め飲め...」の黒田節(黒田武士)を聴いて「ああそうだよね,黒田は福岡だよね」という事になるが... 町を歩いてみると,他の城下町と比べて福岡には城下町の痕跡があまり残っていないような気がする。もちろん舞鶴城は如水(官兵衛),長政父子が築いた名城であるが、平城で熊本城のような壮麗さはない。極めて実用的な合理性重視の縄張りだ。城下町は城の北の博多湾に面した細長い狭い土地に形成されていて、山城中心に城下町が四方八方に広がる他都市とも異なる。。金沢の兼六園や、岡山の後楽園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園,鹿児島の嚴仙園、水戸の偕楽園といった、名園といわれ今日まで残る大名庭園もない。高取焼のような藩用窯はあるが、隣の肥前鍋島藩の藩用窯ほどの規模ではない。金沢の能などの芸能、金箔などの工芸、松江の茶道のような文化の痕跡も薄い。博多織、博多人形はお隣さんの博多のもの。祇園山笠、どんたく、松囃子などのお祭りもお隣さんのもの。

黒田の殿様は歴代どのような殿様だったのか。豊臣秀吉の名軍師黒田官兵衛(如水)、関ヶ原で東軍に勝利をもたらした、その子長政。この藩祖父子の軍師、知将のイメージから、質素堅実を旨とし、あまり文化芸能にうつつ抜かす家系の匂いはしない。しかし、かといってただ無骨なイメージもない。江戸期の長く続いた天下太平の時代には何をしていたんだろう。加賀前田の殿様のように武力に金を使わず文化芸能に金を使い徳川幕府への忠誠心の証にしていた,という風でもない。薩摩島津の殿様のように密かに琉球を通じて海外の文物を取り入れ、国力を蓄えていた様子もない。

隣の博多が商人の街としての長い歴史と文化を継承しているのに比べ、城下町福岡は関ヶ原以降に建設された新興都市で、祭りも芸能も、工芸も食文化も,博多の商人文化に飲み込まれているような気がする。他藩のような壮麗なお城や有名な大名庭園もないので、今となっては城下町としての観光資源にも乏しいということになる。金沢や熊本や松江を見て,そのように感じていた所、福岡市が黒田家ゆかりの友泉亭趾を公園として整備し市民に公開している、という話を聞いた。こりゃ是非行ってみよう,という事で出かけた。

友泉亭。懐かしいその「地名」に、まず反応した。私が小学校5年生から高校3年生まで過ごした福岡市別府。その南、樋井川を隔てた田島に友泉亭という所があった。油山を望み、樋井川に面したのどかな半分住宅地、半分農地といったエリアだった。実は黒田家の別邸があった所であり,その名称「友泉亭」が「地名」として残ってきた事を今頃になって知った。

その友泉亭は黒田家六代藩主継高公が宝暦四年(1754年江戸時代中期)に、この樋井川東岸の田島村にもうけた別邸であった。当時の敷地は現在の友泉亭公園の敷地の約10倍を有する広大なものであったようで、樋井川東岸の別邸に続く道路は、領民の通行が禁止されていたと言う。しかし屋敷は、割に質素で実用的な建物が池畔に並んでいくつか建っていたようで、豪壮な大名御殿を想像するとがっかりするようなものだったらしい。

この友泉亭趾は、その後の歴史の流れの中で様々に変遷し、明治維新後は一時小学校になったり、樋井川村役場になったりしている。その後は荒廃の危機に瀕していたが、筑豊炭坑御三家(貝島、麻生、安川)の一つ貝島炭坑の創業者貝島太助翁の息子健次郎氏が敷地を買い取り,ここに邸宅を建てた。今残っている邸宅と庭園はその貝島邸の遺構をもとに昭和56年に福岡市が公園として再整備したものだ。

敷地には池泉廻遊式庭園が整備されており見事。一見の価値有りだ。四季折々の花や樹木が広い敷地に適度な密度で配されており心地よい。池に面した書院造りの大広間でいただく抹茶は美味しい。東京の黒田家から寄贈され、移設された庭園池畔の根府川石の一枚岩が豪壮だ。室内には筑前福岡出身で、中央政府で活躍した官僚、政治家である、金子堅太郎、広田弘毅が揮毫した「友泉亭」の額も残っている。庭園内には茶室如水庵がしつらえられているが,これは昭和56年公園として開園時に建てられたものだそうだ。由緒を感じる素晴らしい邸宅と庭園である。しかし、此れ等はいずれも貝島家によって整備されたもので、残念ながら黒田家友泉亭を彷彿とさせる遺構らしいものはほとんど見当たらない。

福岡の都市景観の中で、黒田家ゆかりの藩主邸宅や武家屋敷よりも、炭坑王の残した「御殿」の方が有名なのは、明治期以降の福岡という街の成り立ちを示しているような気がして面白い。この友泉亭公園も先述の通り、貝島別邸が原型となっている。かの有名な筑豊の伊藤伝右衛門邸は大名屋敷よりも立派な門構えを持ち、飯塚に現存している。再婚離婚劇で名を馳せた妻、柳原白蓮の為に、福岡天神町に建てた伊藤別邸(通称あかがね御殿)も武家屋敷を圧倒する構えであったそうだ。そういえば、天神町から大名町、赤坂門にかけての旧電車通り沿いに延々と続く築地塀のお屋敷街があったのを記憶している。いまはその気配すら残っていないが。現在も高級住宅街とされる福岡の山の手、薬院、高宮、浄水通辺りのお屋敷街も元の住人はたいがい炭坑主であった。その炭坑も高度成長期に入ると廃れ、石炭御殿も次々取り壊されて消滅... マンション街になってしまった。時の流れを感じずにはいられない。

このように城下町の武家屋敷的景観は炭坑主達によってある時期まで継承され,石炭産業の衰退、炭坑の閉山とともに消滅して行ったと言っても良い。福岡はこうして城下町としての景観や佇まいを失ってきた。黒田家が戦前まで福岡に有していたと言う浜の町別邸も戦災に遭い、福岡城の武具櫓を移設したという豪壮な邸宅とともに様々な家伝来の文物、品々が焼失したそうだが、いくつかは福岡市博物館に収蔵展示されている。しかし福岡という街全体を見渡すと、「城下町」「大名文化」の痕跡はあまり残っていない。敢えて探すと、藩校東学問所「修猷館」が現在も九州を代表する名門県立高校としてその歴史と伝統を継承している事だろうか。

友泉亭公園は、福岡市の城下町としての福岡復活プロジェクト(そのようなものがあるのかどうか知らないが)の一環なのだろう。その試みは舞鶴城内の病院、裁判所、平和台球場の転居移転。城跡公園としての再整備。大濠公園の能楽堂、日本庭園などの建設(これも立派な庭園だが、歴史的な由緒はなく、全く新規に企画設計された現代の庭園だ)と連動するものなのだろう。その努力は多とするが、何とも武家文化、城下町文化の残存率が低過ぎるのがいかんともしがたい。一方で舞鶴城に創建当時あったとされる「幻の天守閣」再建、などという構想もあるそうだが、あまり大きな市民レベルの運動にはなっていないようだ。藩祖黒田孝高(官兵衛/如水)長政父子、その家臣団で勇名を馳せた母里太兵衛、栗山善助、井上九郎右衛門、後藤又兵衛の黒田二十四騎などが、筑前入府時期に名を残した割には、城下町としての福岡のプロファイルはあまり高いものとはいえず、最後は、明治維新に乗り遅れてしまうなど「悲劇の城下町」なのかもしれない。































2011年9月19日月曜日

Ginza. Center of Universe

 バブル崩壊、GDP世界3位に後退、右肩下がり、震災、放射能汚染、電力不足、企業の海外脱出、政治の漂流、就職難民、草食系男子... 元気のないニッポン。もう日本は終わりか?

 そんなときは銀座に行こう! ここは世界の中心、宇宙の中心。世界中探しても、いや宇宙中探しても,こんなにキラビやかで、クリーンで、時代の最先端を行く街はない。東洋の伝統と西洋のモダニズムと日本独特の美学とが共存する街。夜と昼とで違う顔...

 ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、みんな素敵な街だ。上海、香港、シンガポール、中華文化圏も負けてない。しかし、この東京の広大な都市域と人口集中度合いと、その割にクリーンな街、効率的な交通システムによるスムースな移動。多少ごちゃごちゃしてるが近代的な町並み、カオスが進化してカオスを脱している。まさに奇跡だ。銀座はそのシンボル。

 そう,リフレームしてみよう。少し視点とアングルを変えて見てごらんなさい。新しい未来の姿が見えてくるぞ、日本と日本人の...



2011年9月15日木曜日

芦屋 旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館) ーフランク・ロイド・ライトの贈り物ー




阪神間は関西の住宅地として昔から人気があるエリアである。特に西宮7園(甲陽園、苦楽園、甲風園、甲東園、昭和園、香櫨園、甲子園)と呼ばれる地域や、六麓荘、奥池に代表される芦屋は昔から関西の高級住宅地として名高い。いや日本を代表するセレブなエリアと言ってよいだろう。こうしたエリアは大きな経済力を持った大都市があって初めて成立する。ロスアンゼルス郊外のビバリーヒルズ、ニューヨーク郊外のグリニッチなどがその例だ。戦前、大大阪と呼ばれ、金融、製造業、商業等、日本の経済の中心であった時代の繁栄ぶりを彷彿とさせる邸宅街がいまでもこの辺りに広がっているわけで、当時の大阪、神戸がいかに大きな財力を持っていたか,改めて実感する。。

芦屋、西宮は六甲山の東に位置し、北に甲山(西宮7園の「甲」の字は甲山から来ている)、南には瀬戸内海を控える、なだらかな傾斜地である。その間を武庫川、夙川、芦屋川などの短い河川が山から海へと急流となってそそいでいる。全くリゾート地の条件を満たした地勢だ。しかも大阪/神戸の間を、東海道線はじめ、阪急、阪神が30分程で結んでおり、交通至便。大阪や神戸の富豪、素封家がリゾートとして開発して住み始める理由は説明しなくても分かる気がする。

その芦屋には(それゆえ)、明治,大正,昭和初期に建てられた素封家の邸宅が今でもいくつか残っており、芦屋川のほとりの高台に自然と調和して佇む旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)はその代表と言ってもよい歴史的な建築物だ。かのフランク・ロイド.ライトが設計している。芦屋川を挟んで反対側には旧三和銀行の前身である山口銀行の創業者山口家の邸宅も残っており、現在は山口文化会館、滴翠美術館として公開されている。

残念ながら、芦屋、西宮の邸宅街でも、時代の変遷とともにこうした広大な敷地を有する邸宅は減少を続けている。こうしたお屋敷は、一億総中流、富豪のいなくなった時代では、個人で所有、相続するには手に余るものとなり、企業に売却されたり、やがてはバブル崩壊とともにその企業も遊休資産売却で、バランスシートを軽くしたり、経費の穴埋めをしたりの必要上、不動産ディベロッパーに売却、そう、「マンション建設」の格好の敷地となる。こうして古い文化的な価値がありそうな邸宅も、短期的な経済的価値を生み出すであろうマンションへと建て替えられて行った。こうして、この辺りの景観も大きく変貌しつつある。もっとも芦屋は景観保護に力を入れている自治体ではあるが。

日本にライトが残した数少ない建築文化遺産であるこの邸宅も、こうした再開発という名の破壊の危機に直面した。一度は「マンション用地」として売却が決まりかけていたそうだ。山邑家が手放してから、いくつかの人手を転々として、終戦直後は占領軍の倶楽部として使用されたり、ヨドコウが買い取ってからは、社長公邸、社員寮などに使われていたそうである。 しかし、厳しい経済情勢のなか、ついにはヨドコウが売却を決意して、建物は取り壊される事が決まっていたようだ。それを当時こうした建築文化遺産を守ろうと言う機運が高まる中、市民の活動、県や市の支援もあり、ヨドコウの社長の決断で保存が決まったそうだ。ここでも市民の地道な運動とともに、企業の社会貢献活動に対する意識の高まりが、「保存」「市民への公開」という成果として結実している。なかなか経営環境が厳しい中での決断だったのであろう。敬意を表したい。

この邸宅の創建当時の山邑家は、櫻正宗のブランドで知られる灘五郷の酒造会社で、帝国ホテルの設計の為に来日中のアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに自邸の設計を依頼した。建物は大谷石で飾られているが、躯体はRCコンクリート造り。戦前としては珍しい造りだと言う。山肌に沿うように建物が一階から四階まで配置され、エクステリアもインテリアもライトらしい装飾に満ち満ちている。テラスからの展望は素晴らしく、芦屋川に沿った芦屋の街が一望に見渡る。北は遠く大阪まで展望出来る。南は六甲山系の緑が眼に鮮やかで海と山に囲まれた別荘地の佇まいだ。内部には和室が3室有り、ライトもこの日本的な建築エレメントに触発されたようだ。

この建物の特に際立っている点は、自然との調和に配意されていることだろう。芦屋川から見上げても,小高い山の緑の中に埋もれていて、辺りを睥睨するような威圧感はない。また、室内からも、ライトらしい装飾に縁取られた窓に,まるで絵画がはめ込まれているような緑溢れる風景が。玄関も、車寄せはあるがドアは小振りで、訪問者をアットホームな気分にさせてくれる。玄関脇の大谷石で造られた大きなプランターは四季の花で埋め尽くされている。

今やライトの建築は日本には現存するものでは3件しか残っていない。このヨドコウ迎賓館と自由学園明日館、旧林愛作邸(現電通八星苑)のみだ。旧帝国ホテル本館は愛知県犬山市の明治村に正面玄関のみが再建「展示」されている。明治以降日本にやってきた外国人(特にジョサイア・コンドル、ウイリアム・ヴォーリスなど)が設計した近代建築はその多くが破壊の危機に直面していた。しかし最近ようやく,狂気のようなバブル経済、エコノミックアニマルのメンタリティーを卒業したのか、文化の分かる大人の日本人になりつつあるのか、近代建築遺産を有形文化財として保存される事が多くなってきた事は歓迎すべきだ。それでもまだ,人知れず消えて行く建築文化遺産は数知れないだろう。

景気が良くて、金が回ってるときの方が、こうした文化財の保存にも金が回ってきそうに思うが、実はより金を生む資産に化けさせようと再投資する、すなわち古い文化遺産を破壊する方に働いてきた。人間の経済的欲望には際限がない。むしろ金金と言わなくなってようやく、自分たちが今までないがしろにしてきた別の「価値」を取り戻そうとする動きがむくむくとわき起こってきているような気がする。こうした「文化的」なものに価値がある事に気づき始めたのだ。むしろこうした「文化的価値」がこれからの経済的な価値を生む源泉にすらなって行くのだろう。ヨーロッパの国々を見ててそう思う。日本も向う気ばっかり強い若造から、少しは落ち着いた違いの分かる大人の国になってきたか。イギリスの域にはまだまだ達していないがね。