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2012年5月28日月曜日

Nikon D800E登場! ー'E'は「いいね!」ー

 これはモンスターマシーンだ。36.3メガピクセルという、D3s, D700の約三倍の画素数を誇る高解像度マシーン。しかも、D800Eはローパスフィルター機能を無効化して、より解像度を上げた機種。モアレ、偽色の心配をする向きもあるが、すでにLeica M9やRicoh GXR 12ライカマウントアダプター等,ローパスレス化しているし、ニコンにこのラインアップがあっても何らおかしくない。風景中心に撮っている私には,例えば、樹々の葉の一枚一枚がより精彩に写し取れる、古色蒼然たる古代建築の木の質感がシッカリ切り取れる方が良い。もはや中判カメラの画質の領域に入り込んでしまったような感じさえする。ワクワク。

 普通のD800にすべきか?、それともD800'E'にすべきか? 「That is the question.」と、カメラ雑誌等で論じられているが、問答無用。より高精細に一歩でも近づけようという、たゆまぬ技術の革新と,果てしない欲望を満たす努力に軍配を上げる。妥協する必要は無い。最初から'E'を予約した。もっとも「普通」も'E'も発売当初から、「想定外の」予約殺到で供給不足が続いている。予備バッテリ注文したら,こちらも入荷見通し無し!(コッチはリコール問題で)。じゃあと、立て位置グリップ用のD4と共用のリチウムイオンバッテリーを購入したら、今度はその「フタ」が入荷3ヶ月待ち..... なんじゃそりゃ!しばらくはグリップに単三アルカリ電池入れて予備にせざるを得ない。

 これだけの高解像カメラになると、相棒のレンズを選ぶ必要がある。いわゆるレンズのアラ(欠点)がそのまま写るからだ。ニコンは推奨レンズを16本リストアップしているが、最近の金リング付きのレンズならどれでも良さそうだ。また、風景写真ではレンズに手振れ補正機能があっても、三脚が必須になりそうだ。益々,重装備で散策しなけりゃならなくなる。高精細は辛い。

 しかし、問題は、いずれにせよその画素数の大きさ。今度のニコンの画像エンジンはこんなヘビーなデータでも,さくさくと処理してくれる優れものだが、当然メモリーカードの容量は最低32Gくらい欲しい。コンパクトとSDカードのダブルスロットになっているのは助かる。そして、PCやネット環境にも大きなインパクトを与える。まず、現状のシステム環境、すなわちMac Book AirやiMacの4G程度のメモリーサイズでは処理がかったるくてイライラする。そしてHD、フラッシュストレージの容量がすぐに足りなくなってしまう。今ある外部HDに、1Tbくらいの外付けのHDを追加する必要がある。

 そもそも、MacのPreviewもiPhotoもApetureもD800のRawにまだ対応してくれていない。AdobeのLightroomもまだ未対応だ。ネット上ではPicasaもそもそもRaw未対応、JPEGでもサイズに制限があって、D800のファイルは半分くらいに落とさないと受け付けてくれない。Flickrが最近、大容量ファイルもそのまま受け付けるサービスを始めると発表したが、せっかくD800のような高画素機がリリースされ、アクセス回線も光ファイバーのフレッツ光ネクストになっているのに、ネットの写真サイトも早く大容量化に対応して欲しいものだ。クラウド時代のサーバー容量の問題だろうが。

 少なくともD800のRawに関しては、今のところ付属してくるビューワー、ViewNX2でしか見ることが出来ないのはフラストレーションだ。もっともiPhotoで36.3メガのRaw観るなよ、かも。

 このように高画素モンスターマシーンの登場は画期であるが、システム環境のグレードアップを伴わなければ、その本来のパワーを十二分に発揮出来ない。FaceBookやPinterestにアップするくらいの写真ならコンデジ1200万画素で充分だ。もっともiPhoneやiPadなんぞを「カメラ」と一緒にして欲しくないが... 本来ならA3やA1に引き伸してこそ高画素が生きるのだ。サは然り乍ら、Mac上で観るD800Eで撮ったJPEG画像のキメの細かい画質は異次元の写真に見える。なにかこれまで見えなかったものが見えるようになった、写せなかったものが写せるようになった感じがする。

 これからも、このD800E担いで、ますます「...山河を跋渉して寧所に暇あらず...」になりそうだ。それにシステム環境グレードアップへの設備投資を迫られるのが頭痛の種に...




(D700の後継機種,というよりは、全く新しいシリーズといった方が良い。見かけほど重くはないが、良いレンズを装着するとなるとそれなりのパワーリフティング状態に。体力をつけておこう。)

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(ローパス機能無効化の有無の違いは、これではわかりにくいが、よりディテールが再現できるようになった。)


2012年5月27日日曜日

天空の城、但馬竹田城 ー「日本のマチュピチュ」に遂に登ったー







 雲海に浮かぶ竹田城の写真を初めて見た時、衝撃を受けた。日本にもこんな幻想的な風景があるんだと。人は「日本のマチュピチュ」と呼ぶ。確かに... まあ標高2300mのインカ文明の痕跡マチュピチュとは一緒にして良いのやらわからないが、このような「天空の城」が日本に存在している事に感動した。そしていつかは行ってみたいと思うようになった。遂にその時が今日やってきた。

 兵庫県朝来市和田山。ここは但馬国。室町時代の1431年に但馬の守護であった山名持豊(宗全)により築城開始。1443年の完成し大田垣光景を城主とした。別名「虎臥城(とらふすじょう)」と呼ばれる。戦国時代末期には木下藤吉郎の但馬攻め、播磨平定ののち赤松広秀を城主としたが、関ヶ原合戦では広秀は西軍につき、敗戦後、廃城となった。現在は天守や建物はもちろん残っておらず、ただ見事な石垣が山上に連なっている。この石垣は、近江穴太衆が手がけた「穴太積み」である。のちの安土城や姫路城も穴太衆の石積み技法による城だ。

 この竹田城は標高353.7mの山頂に、南北400m、東西100mに及ぶ縄張りを誇る壮大な山城だ。400年経っても石垣はほぼ完全な形で残っており,日本100名城に選定されている。以前登った、大和高取城も山上の城で、こちらは標高583.8mの山頂に周囲3キロ、大天守、小天守合わせて33の櫓が立ち並んでいたという見事な城構えであったが、竹田城は一回り小さいものの城自体の景観が素晴らしい。向かいの立雲峡の展望台からは山上の天守、南千畳の全景が展望出来る。特に、秋の早朝の雲海に浮かぶ城の全景は、まさに「天空の城」そのものだという。今回はそれを写真に収める事は出来なかったが、いつか挑戦したいものだ(掲載した写真は朝来市のHPからの転載である)。

 この日は、まずまずの晴天。大阪から特急「はまかぜ」で姫路、播但線寺前(ここまでは電化されている)経由で和田山まで行き、一駅戻って竹田駅下車。そこからは登山道を900mほど徒歩で行く。距離はたいした事無いが、急峻な階段状の坂道を上るので、息が上がった。しかし、上り切ると登り甲斐のある素晴らしい眺望が迎えてくれる。山上からは但馬、播磨両国、360度を見渡すことが出来る。足下に竹田の城下町が広がる。そして何よりもこのような山上に展開する広大な城跡。天守台を中心に南千畳、北千畳、花御殿という広場が三方に展開する。いずれの地点からも素晴らしい景色が楽しめる。石垣には柵も無く、直下に竹田の町が見える等、足がすくむようだ。高所恐怖症の人にはチョットきわどいか。

 城下の竹田の町並みは美しい黒瓦の連続で均整のとれた景観を形成している。現在の家屋は主に大正時代の建築だそうで、比較的新しいが、落ち着いていて、あまり俗化されていない静かな町だ。バイパスが川の向こうに造られ、町を完全に迂回してくれたのが良かったのだろう。城のある山の麓と竹田駅との狭い道沿いが寺町通り。古くからの寺院が四軒連らなってており、白壁沿いの水路には鯉が泳ぎ、古い石橋が架かる落ち着いた町並みを形成している。

 駅にある観光案内所では、丁寧な案内をしてくれて心地よい。以前は、竹田城と言っても、観光スポットとしてはそれほど知られておらず、人が押し掛ける事は無かったそうだが、最近は一種の「秘境」ブームや、インターネットでの情報流通で、絶景スポットとして人気が出ているようだ。この日も播但線の一両編成のディーゼルカーからは、カメラ担いだ、いかにも中高年男子が約3名、私と同時に下車した。列車到着組は30分ほどゼイゼイいいながら,急峻な坂を上り、山頂の城跡にたどり着く。こりゃウオーキングシューズは必須だ。と、山上の展望所に着くと、ベンチには、5センチのヒール履いた、ヒョウ柄パンツのオネーチャンが座っていて、雄大な景色見ながらケータイでシャベクリまくっているのに遭遇して愕然。なんじゃこりゃ! 車で途中の駐車場まで来れるようだ。そこからは舗装した道をタラタラ5分ほど歩けば山頂に着くのだそうだ。以前、高取城に登った時も同じ「愕然」を味わった事があったっけ。頂上に場違いな背広姿のオッサンの集団がいた事にショックを覚えた記憶がある。

 「関西歩こう会」ご一行様約200人の中高年の団体さんが、大阪からバスを連ねてやってきた。バスは駅前の駐車場に止めて、先導役の人の旗に導かれて麓からここまで登ってきたそうだ。みんな元気だ。そういえば杖ついたおばあちゃんや、車いすの人まで山上にいて,ビックリしたが、こうして皆がこの素晴らしい景観を楽しめるのはいい事なんだと納得した。自分は汗かいた分だけ感動も人一倍だ,とイイ聞かせつつ。

 帰りは和田山まで出て、特急こうのとりで、福知山線経由で宝塚まで。そこから阪急電車で帰宅。行きも帰りも片道約2時間行程なので日帰りできるのがうれしい。




(兵庫県朝来市のホームページから転載。)



(兵庫県朝来市のホームページから転載。)


播但線竹田駅
背後が竹田城趾




登山道で鹿に遭遇




城址から竹田の町並みを見下ろす


竹田駅からディーゼルが一両、姫路方面へ























































和田山駅の機関庫跡


(撮影機材:NikonD800E, Nikkor AF Zoom 24-120, Nikkor AF Zoom 80-400. Picasa用に画素数を落として掲載)




2012年5月1日火曜日

二上山 ー新緑美しい河内・大和国境の山に登るー

 ゴールデンウィークの初日は,抜けるような快晴の青空。早速予約一番でゲットしたばかりのNikon D800Eを持ち出し、大和と河内の国境にある二上山に向った。新緑輝く美しい二上山と當麻の里。時空トラベラーは、この古代の人々が憧れた西方浄土の世界を、36.3メガピクセル、ローパスレスの超高解像モンスターマシーンで切り取る。残念ながら、Webにアップするには大きく画素数を減じなくてはならないが、それでもこれまでの35mmカメラでは再現出来なかった高精細な写真が撮れる。

二上山は、大阪からは、河内平野の東に連なる山々、生駒、葛城、金剛山の切れ目に、双峰(ツインピークス)の美しい立ち姿で存在感を示している。遠く西宮の我が家の窓からも、大阪のビル街越しに眺めることが出来る。一方、奈良から見ると、大和盆地の西にやはり双峰が望め、夕陽が美しい山容である。どちらから見ても,すぐそれとわかる大和・河内のランドマークだ。

標高517mの雄岳と標高474mの雌岳の二峰が一対となって二上山(にじょうざん。古くはふたかみやま、と呼ばれる)である。有史以前、2000万年前の噴火で出来た火山だが、現在は死火山に分類されている。この辺りは古くはサヌカイトという火山性の堅い石を産出しており、各地の古代遺跡で出土する石器や、高松塚古墳の石材に、ここ二上山で産出されたサヌカイト製が見つかっている。ある意味古代の重要な原材料供給地域であったのであろう。現在でも,この辺りの穴虫には金剛砂という研磨剤を製造する工場がある。

二上山に登るのは二度目である。前回は當麻寺から雄岳・雌岳の馬の背までのコースをとったが、雄岳には登らなかった。今回は近鉄二上神社口駅から、真っ直ぐに歩き、加守神社横から登った。當麻寺からの登山道は短いが急勾配であるが、二上神社口コースはやや長いが道がよく整備されていて登りやすい。登山道の新緑が青空を背景に目に鮮やか。これから登る雄岳の若緑が美しい。山の空気が美味しい。心が洗われる。途中、樹々の間から葛城山がその大きな山塊をあらわにしている。さらに進むと、今度は眼下の早緑の海の中に當麻寺の甍が浮かんでいる。

雄岳山頂近くには大津皇子の墓がある。宮内庁指定陵墓となっているが、「陵」ではなく「墓」と表記されている。小さな円墳だ。なぜこのような山頂に埋葬されたのか。一説にこれは本当の大津皇子の墓ではなく、二上山麓の古墳がそれであるとも言われている。大津皇子は天武天皇の皇子で、謀反の疑いをかけられて果てた悲劇の皇子である。それゆえ二上山は皇子の悲しみが宿る山でもある。姉の皇女が悲しんで歌った歌碑が二上山の麓、當麻寺に近くにある。

雄岳山頂にたどり着くと、そこには葛木坐二上神社が鎮座まします。ピンク色の八重桜が咲き誇る山頂は、チョットした広場になっているが、ここからは残念ながらあまり展望は利かない。この山頂では神社が入山料を取っていると聞いたが、この時は誰もいなくて,取られなかった。この二上山自体が二上神社のご神域だそうで、それで「環境整備費」などの名目でお金を集めていたようだ。しかし結構登山客からは評判の悪い入山料であったので、止めたのかもしれない。

今回の二上山登山の目的は,いつも大阪のオフィスから眺めるこの二上山から、反対に河内、難波津すなわち大阪がどのように見えるか確かめること。そして、同様にヤマト王権、倭国の人々が憧れた二上山から、大和国中を展望することである。早速,両国が展望出来る地点へ移動を開始。雌岳へ下る途中の道から少し入ったところに小さな展望台がある。ここから河内平野南部から大阪湾が一望に見渡せる。さらに、雌岳頂上へ向う途中の休憩地点からも河内平野北部,さらには難波、すなわち大阪市街が一望出来る。昼を過ぎる頃から少々ガスってきたが、大阪市内のビル群がうっすらと見えた。もっとクリアーだと大阪湾,六甲山まで見える事だろう。私が毎日通っている難波宮近くのビルもあのビル群の一つだ。「今日はコッチから見てるぞ!」と叫びたくなる。

雌岳山頂は日時計のある広場になっていて、ピクニックの家族連れや元気なオバちゃんハイカーで賑わっている。関西の中高年はみんな元気だ。こんな山にヒョイヒョイ登ってくる。犬を連れて登ってくるオッチャンもいる。ここは日常生活の中の山なのだ。公園の築山みたいなもんだろう、地元の人にとっては。

この展望台からは大和盆地が樹々の間から望める。耳成山、畝傍山、香具山の大和三山、さらには遠く東山中の山並が、また三輪山もうっすらと見える。聖なる三輪山、山辺の道から見る二上山は、三輪山と卑弥呼の宮殿跡ではないかと騒がれた纏向遺跡を直線を伸ばした先にあり、三輪山から太陽が昇り、二上山に陽が沈む、という日本古来の自然崇拝、太陽信仰の重要な山である。ちなみに纏向の神殿/宮殿遺跡は,後世の平城京や平安京の宮殿のような南北軸ではなく、東西軸の宮殿であった。すなわち、三輪山を背に、二上山を前にした造りであった。

仏教伝来以降の飛鳥古京(遠つ飛鳥)から観ても、二上山は陽の沈む西方浄土を表す神聖な山であった。敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、聖徳太子が二上山のむこう(西)の日が落ちるところ、磯長谷、近つ飛鳥を安息の地に定めたのも、こうした西方浄土の考えがあったとも言われている。二上山はヤマト世界にとっては三輪山と並ぶ神聖な山であった。

一方、河内、難波から眺める二上山は、難波の津に到着した大陸からの使者や渡来人にとっては、長い長い旅路の果て、これから向う倭国の王都、飛鳥古京。さらには国名改め日本の都、藤原京、平城京へと通じる道の途中にそそり立つ神秘の山であった事だろう。また、都を後にして筑紫太宰府へ赴任する官人、遣隋使や遣唐使として波頭を越えて彼の地へ向う人々にとっては,振り返って都に別れを惜しむ山であった。その心のうちは複雑であった事だろう。様々な想いが心をよぎった事だろう。その思いを胸に涙で眺めた二上山であったのかもしれない。二上山麓の両側を通る竹内街道,穴虫越は都から難波を通じて西国,果ては大陸へと繋がる「文明の回廊」であった。世界史的視点から見ると「シルクロードの東の果て」だった。

こうした古代の人々の思いを空想しながら二上山を下り、當麻山口神社の傘堂を経て、當麻の里へたどり着いた。當麻寺では牡丹が咲き誇り、中将姫の穏やかな祈りの姿があり、野原にはレンゲが咲き,鯉のぼりが青空を泳ぐ。そこには穏やかな春の里の風景があった。ふと振り返ると,今下って来た二上山の向こうには、既に陽が傾き始め、そろそろ夕刻の景色へと変わろうとしている。影が長く伸びた當麻寺の双塔、二上山双峰のシルエット。やはりここは時空を超えた極楽浄土の世界である。

























































(撮影機材:Nikon D800E, Nikkor AF Zoom 28-300mm. 撮影画素数は36.3メガピクセルだが、Picasaにアップするために実際の画素数を圧縮している)