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2012年8月20日月曜日

卑弥呼出現以前の漢委奴國王  ー弥生の大国奴国の大王はどこへ行ったのか?ー

 古代史の定番歴史書、3世紀の三国志の魏志倭人伝に出てくる奴国。現在の福岡平野にあった戸数2万余戸を数え、7万戸の邪馬台国を除くと倭国中最大の国である。現在でも「那の津」、「那珂川」等の地名にその名の痕跡を残す奴国である。しかし、倭人伝の記述によると、この当時、奴国には邪馬台国の女王,卑弥呼の代官である、兜馬こ(角篇に瓜)(ジマコ)、副官の卑奴母離(ヒナモリ)が配置されていたが、王の存在が記述されていない。隣の伊都国(福岡糸島半島あたり)は戸数1万余戸ほどだが、卑弥呼の時代になっても代々王がいて、一大率という強大な権限を与えられた卑弥呼の代官が駐在していたと言う。倭国大乱の後、倭国のクニグニは邪馬台国の女王卑弥呼を共立して、ようやく、いわば「連合王国倭」(The United Kingdom of Wa)の成立で戦乱が収まる。卑弥呼は西暦238年には魏に使者を送り「親魏倭王」に任じられている。だが、その「連合王国」を形成する国々のなかの最大の国である奴国の王はどこへ行ってしまったのだろう。

 卑弥呼の魏の柵封、「親魏倭王」の受任をさかのぼる180年ほど前の、西暦57年には、奴国王は後漢の光武帝に使者を送って,漢の柵封を受け、金印をもらっている。これは5世紀に編纂された歴史書,後漢書東夷伝に記されており、その記述を証明する現物の金印が博多湾に浮かぶ志賀島で発掘されている。おそらくこの時代には、奴国は後漢と交流する事の出来る力を持ち、後漢から倭国全体を統治する事を認められた、いわば倭の盟主のような存在であったのであろう。その権威を後漢の光武帝から認めてもらったのが、あの「漢委奴国王」の金印である。

 そのような権勢を誇った奴国王は、180年ほどの間に史料から消滅してしまった。どのような運命を辿ったというのだろう。奴国王が光武帝から金印を受けた丁度50年後には、倭面土国王帥升等がやはり後漢に使節を送っている。この「倭面土国王帥升等」がどこの王なのか、一人の王なのかは不明だが,おそらくはチクシの王(伊都国?奴国?)であったのだろう。しかし、400年続いた漢帝国が滅亡すると,東アジア秩序に大きな政治混乱が起こった。後漢の柵封体制に入っていた倭国の王達は権威を失い混乱した事であろう。「倭国大乱」は、こうした時勢を受けて起こった可能性がある。後漢のあとの三国分裂の時代、陳寿が記述した三国志魏志倭人伝には,先述のように奴国王は出て来ない。あの金印はその後行方をくらまし,時代を下ること1700年後の江戸時代、1784年に黒田家治世の筑前福岡藩、志賀島の石の下から、地元の百姓によって偶然にも発見される事になる。

 ところで,奴国とはどのような国(クニ)であったのか? 記録に現れる奴国は1世紀から3世紀半ばに存在していたと見られるが、弥生中期から徐々にクニを形成して行ったのではないだろうか。春日市北部の弥生時代中期の遺跡,須玖岡本遺跡は弥生の大国、奴国の王都跡ではないかと言われている。紀元前一世紀頃の遺跡だとされている。明治32年、家屋の建築工事中に奴国王墓が発見された。大きな石蓋の下に甕棺を納めたた墳丘墓であった。中からは前漢鏡3枚や青銅器、ガラス璧等の多くの副葬品が出土していること、周辺には墓が無く単独の墳丘墓である事等から、被葬者は奴国王であろうとされている。あの後漢から金印を受けた奴国王の数代前の王であるといわれている。さらに、ここから3キロほど北へ行った比恵遺跡、那珂遺跡からも大規模な集落跡が見つかっており,ここが王都であったと言う説も唱えられている

 奴国は,現在の福岡市西部の西新遺跡あたりまで広がっていたと見られ、いくつかの衛星集落を包含する大きなクニであったようだ。特に須玖/岡本遺跡では、青銅器やガラス器の工房が集中して発掘されている。弥生の農耕遺跡だけではなく、こうした大規模な先進生産遺跡が集積されている状態は全国でも抜きん出ている。特に須玖遺跡からはこれらの鋳型の出土数が突出しており、さらに須玖坂本地区からは3000㎡にも及ぶ青銅器工房群が見つかっており、奴国の王都はいわば当時のハイテク産業の一大コンビナートの様相を呈していた。

 弥生前期(最近では縄文後期ではないかといわれている)の福岡平野には、日本でも最初期の水田稲作農耕跡である板付遺跡を始めとして、比恵遺跡、那珂遺跡などの環濠を巡らした集落や、磨製石剣、石鏃を副葬した墳墓が広範囲に見られる。おそらく、この時代はまだ各集落間の格差はそれほど大きくなくて、川の流域の低湿地に水田を創り、丘陵地や微高地に集落を形成していた。そのうち,30ほどのムラが出来、中期頃にはムラの間に格差が出始め、中期後半には須玖/岡本遺跡から王墓が出現する。このようにこれらのムラが一人の権力者(首長)のもとに集合しクニを形成し、やがては国(王)となる。それが奴国であろう。このころの国(クニ)の大きさは、後律令時代の「県」(アガタ)とほぼ同じだと言われている。律令時代の県(アガタ)はそのまま現在に至るまで郡(コウリ→グン)に引き継がれているから、当時の国を実感するには現在の郡の範囲を知れば良いことになる。すなわち、奴国は筑紫郡(那珂郡,蓆田郡が統合して出来た)の範囲ということになる。伊都国は糸島郡、早良国は早良郡というように。


奴国の権力機構は、農業生産の管理、収穫物の集積保管、流通を司り、農耕に必要な土地の開拓と水の管理、微高地を削っての定住地の造成、さらには農機具や祭祀に必要な器具,すなわち石器や青銅器さらには鉄器の生産を行う力を持っていた。農耕生産開始初期には伊都国の今山の玄武岩鉱脈が石器の一大生産地として存在し、広く九州から中国地方に至る遺跡から今山産石器が出土している。しかし、さらに生産性を向上させる新技術,すなわち金属農具が導入される。こうした器具の製造技術は人とともに朝鮮半島からやって来たのだろう。特に銅やすず、鉄の原材料を安定的に供給を受けるには朝鮮半島や中国大陸の資源が必要であったのだろう。奴国王が強大な権力を持っていたのも,こうした技術や資源を後漢帝国に保証されていたためではないか。

 しかし、奴国王が金印を授かって180年ほどの間に、倭国に大乱があり、奴国王は邪馬台国や近隣国に覇権を奪われ、殺されたのか,逃走したのか。ともかく新生連合王国倭の世界から奴国王は姿をくらましてしまう。前述のように奴国は邪馬台国卑弥呼の代官が治めるようになった。奴国王の権威の象徴たる金印は、おそらく、王が逃亡途中に志賀島の石の下に隠し、来るべき再起の時に備えたのかもしれない。そしてやがては、弥生のハイテク産業コンビナートとしての機能も停止して行く。

 時代は弥生時代から、3世紀の古墳時代へと移り、倭国の中心も北部九州から近畿地方へと移って行った。卑弥呼の邪馬台国が近畿地方にあったとすると、この百数十年の間に倭国の中心がいかにして「チクシ」から「ヤマト」に移って行ったのか、その変遷の過程はいまだに古代日本史の謎であるが、王墓の形態変遷を見ると考古学的には明らかに、北部九州と近畿では形態が異なったように思える。先程述べたように、奴国王の墓は、古墳ではなく甕棺墓であった。方形の墳丘の中心に甕棺に入れて埋葬し、その上に上石を置く形だ。甕棺墓は土壙墓、木棺墓とともに北部九州には広く発掘されている。吉野ケ里遺跡からも多くの甕棺墓が見つかっている。

 一方、奈良盆地や河内平野に展開する王墓は3世紀半の築造と言われる箸墓古墳を始めとして、以降、大型化する前方後円墳が特色である。いわゆる古墳時代の幕開けである。九州に見られる古墳は、多分に大陸の影響を受けているものの、明らかに九州がヤマト王権の権威に従い始めて以降のものである。

 こうして時空を追って行くと、「倭国大乱」、奴国の消滅は、倭国の中心が北部九州から近畿へ変遷して行く(チクシ時代からヤマト時代へ移り行く)過程に何か大きなヒントを残しているのかもしれない。ちなみに同時代の出雲の遺跡からは戦乱によると思われる傷ついた人骨が大量に発掘されているのに、ここ奴国の遺跡からは、いまのところそのような血なまぐさい痕跡は多くは確認されていない。倭国大乱のなかでの奴国滅亡、というシナリオにもまだ謎が残る。歴史の空白のなかに奴国王は姿をくらませてしまったようだ。「漢委奴国王」の金印を残したまま...





(甕棺を中央に埋葬し上石でフタをした奴国王の墳丘墓の構造。明治34年に家屋の建設中に偶然に見つかった。)















(奴国の丘歴史資料館における奴国王埋葬状況の展示。前漢鏡等の副葬品も展示されている。)



(発見された上石は奴国の丘歴史資料館の庭に保存展示されている。このエリアには甕棺や住居跡の発掘状況が保存展示されている。)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)