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2013年7月22日月曜日

Leica M(Type240)と復刻Nokton 50m f.1.4 〜夢のセレブコンビ〜

 Leica M type 240を使い始めて4ヶ月。途中、ストラップ用アイレットが組み立て工程における手違いで抜け落ちる可能性あり、としてリコール。3週間ほどドイツの実家に帰っていたが、何事もなかったかのように我が手元に戻ってきた。

 以前、ファーストインプレッションで、やや辛口のコメントを書き連ねたが、だんだん使い込んでいくうちに、手放せない相棒になっていることに気づく。不思議なカメラだ。確かに今風の「日の丸デジタルカメラ」と比較すると、まだまだな側面もあるが、そもそも、ライカはそういう方向を目指していないような気もしてきた。「差別化」といえば「差別化」であるなあ、明らかに...

 一番の「like!」は何と言っても、その画質。そして撮影直後の確認で、それを実感することを可能にさせた大型高精細な液晶モニターがいい。デジタルカメラ化した以上は液晶モニターの精細度は、撮影者の感性を左右する重要なデバイスだ。おまけのような画素の粗い小窓なら、ない方がいい。もちろんライブビューは必須だ。画像処理速度もすこしは速くなった。ソフトのバグはかなり取れたようだ。特にWBオートの改善、SDHCカードとの相性は大きく改善された。新しいCMOSセンサーも悪くない。後の細かい問題点は忘れた!?ていうか、どうでもよくなって来た。

 画質は、やはりレンズのよさに起因するのだろう。最新のSummilux 50mm, 35mmでの撮影が一番相性がいいようだ。絞り開放でのボケ味は何にも変えがたい。ピントの合っているところと、なだらかにボケてゆく背景との落差は、まるで3G画像のような立体感を再現してくれる。この辺が家電メーカ発想のカメラ造りと光学メーカ発想のカメラ造りの違いなのだろう。

 そこに最近、VoigtlaenderのNokton 50mm F.1.5の復刻版レンズがコシナから出てきた。オリジナルのNoktonはフォクトレンダーのレンジファインダーカメラ、プロミネントII用の高速標準レンズ。1951年に発売されたもの。当時もっとも明るいレンズで、その画の美しさは特筆ものであった。ただし、そのカメラボディー自体は凝りに凝ったユニークな設計であった。ライカやカールツアイス等と一線を画す独自技術を開発し,導入した、という歴史的遺産価値を感ずる名器ではあったが、実用的製品としては市場に浸透することなく、早い時期に消えていった。それだけにこの名レンズをLやM型Leicaで使いたいという要望が多く寄せられ、NoktonのLマウントが出された。しかしこれらは数が少なく、高値安定のコレクターズアイテムとして、今でも中古市場に滅多に出て来ない。私はオリジナル(プロミネント仕様)のNoktonを一個持っており、マウントアダプターを介してLマウントライカで使えるようにしている。レンズガラスは宝石のように輝き、金属ローレットの工作精度も美しい、まるで工芸品のようなレンズである。

 今回のコシナ復刻版Noktonは、一枚非球面レンズを入れ、コーティングを最新のものにした、現代風にいわばアップグレード復刻したもの。すごいのは、オリジナルと同じ真鍮にクロームメッキを施した鏡胴を用い、往年の堂々たる風格を取り戻したことだ。これをM240に装着するとずっしりと重い。ストラップはしっかりしたものを選ぶ必要がある。まして、リコールがあったようなアイレットが抜けたりすると、この「お宝コンビ」には破滅的な結果となる。

 しかし、M240にこのNokton 50mmの組み合わせ。何とも豪華なセレブリティーコンビではないか。その装着した姿は本当に美しく、「カメラとは、本来こういうものをいう」と主張してくれていて、うれしくなってしまう。レンズサイズは、Summilux 50mm F.1.4とほぼ同等で、カメラとのバランスも最高だ。開放f値も近いので、撮影結果を見るとどちらがどっちか判別しにくい。ややNoktonの方がボケ方が少なく、開放では周辺光量不足も若干あるので、それとわかる程度。このようにカメラ+レンズも道具としてのこだわりから入ると、作品もそれなりの品格を醸し出してくるから不思議だ。

 ライカは50mm、35mm単焦点レンズとの相性が一番だ。50mm一本だけ着けて撮影して巡ると、意外に、その焦点距離の「制約」にもかかわらず様々な画角を切り取れることに気づく。もちろん体を動かして、寄ったり、引いたりしなくてはいけないが、かつては50mmが「標準レンズ」であったことにはおおいに合理性があることを知る。そして今でも、50mmが「万能レンズ」であることを再認識する。私はどちらかというとズームの便利さに慣らされてしまた嫌いがあり、単焦点レンズでの撮影が苦手になってしまっている。もちろん単焦点レンズのボケを楽しむ心地よさを知っているつもりではあったが、どうしても体を動かさずに、レンズ鏡胴をまわして画角をかえるズボラな撮影スタイルに安住してしまっていた。

 ライカ+単焦点レンズという組み合わせは、特に時空を旅して歴史の「心象風景」を直感的に切り取るのにいいのかもしれないと感じ始めた。撮影には、あれもこれもと欲張るのではなく、潔さも必要なのだと。何よりもやっぱりNoktonやSummiluxのそのボケ味がなんともクラクラ来る。ボケは撮りたいものを浮き上がらせる効果とその後ろにあるおぼろげな何かを写し取る効果があるのだから、きれいなボケはとても大事だ。最短が70cmよりもっと寄れるとなお良いのに、などどやっぱり欲を出す自分がいるが...

 やはり、ライカは使い込んで慣れていくことが大切だ。そうすればオーナーの思い通りの道具に育ってゆく。写真を撮るとは、どういうことなのかをライカは思いださせてくれた。そしてスマホ、コンデジ時代だからこそ、道具や形から入る写真撮影の快感が希有のものとなる。 すっかりハマっている。

 ちなみに、このLeica M Type240、超人気で、バックオーダーをはかすことができず、納品まで9ヶ月待ち状態だそうだ。今、販売店では予約受付を中止している。そもそも量産型製造工程でないので,マイスター達が手を抜かずシコシコと作っている所が見えるようだ。しかも、ライカ社は日本向け製品をを7月から大幅値上げしている。理由は円高。というが、今までのプライスタグでも日本販売価格は米国販売価格と為替変換すると1ドル125円くらいになっているのに... おまけに、ハンドグリップやRアダプターなどのアクセサリー発売も7月予定が、9月に延期された。日本というカメラ大国、激戦市場でも強気なライカ社のプライシングと市場投入テンポ。こういうブランド価値を最大限生かした成長戦略もあるのだ。



(Leica M Type 240に復刻Nokton 50mm F.1.5で撮影。絞り開放から一段絞って)



(Leica M Type240に復刻Nokton 50mm f.1.5を装着した姿はバランスが取れていて美しい)



(復刻Noktonの金属鏡胴は、真鍮にクロームメッキした本格的なもの。ローレットの刻みも素晴しい出来。絞りリングのクリック感、ピントリングのトルク,ともに文句なし)



(こちらがプロミネントIIについてくるオリジナルのNokton 50mm f.1.5。レンズ側にピントリングが設けられておらず、絞りリングのみ。したがって、ライカに装着するには、ピントリング付きのマウントアダプターを使う)



(フォクトレンダー・プロミネントII。オリジナルのNokton 50mmはもともとこういう風に装着されていた。美しいクロームメッキの金属度120%のボディーに、大きなプリズムガラスブロックを惜しげも無く使った等倍ファインダーが目を引く。ピントは軍艦部左手のノブを回し、ボディー内のカムがレンズシャッターユニット全体を押したり引いたりして合わせる。35mmと70mmの交換レンズもあり、焦点距離によってユニットの繰り出し量を変える、という誰も考えつかないメカを搭載した複雑系ボディーだ)


2013年7月13日土曜日

天子南面す 〜遷都の思想〜

 伊丹から羽田に飛ぶとき、大阪市の上空を過ぎて河内平野、生駒山を越えると、やがて奈良盆地(大和盆地)上空にさしかかる。右方向南には飛鳥、吉野、紀伊山系を望み、右手後方に矢田丘陵。生駒山を、そして右前方に三輪山、龍王山、春日山など大和青垣山系,さらには遠く伊勢路を望む。左手には北摂から京都が見える。いつもここを飛ぶたびに思う事だが、ヤマト王権の変遷はこの範囲内での出来事だったのだと。もちろん、中国、朝鮮半島や、筑紫や出雲という、この世界から見ると遥か遠くの国との交流もあったが、3世紀三輪山の麓に生まれた三輪王朝、5世紀葛城山の西からやって来たといわれる河内王朝はこの大和盆地に京(みやこ)を築き、そして飛鳥古京、藤原京、平城京もこの視界の範囲内だ。

本格的な宮都建設、そして遷都は南の飛鳥古京から始まり、南北軸上を北上し、この視界の左手北にある平安京も、平城京の北、山城国に造営された。この間、天智天皇の大津京、聖武天皇の紫香楽京、桓武天皇の長岡京の例もあるが、大掛かりに造営された京はこの南北軸上に並んでいる。そこにはどのような思想、ロジックが存在していたのだろうか?

663年の朝鮮半島白村江の戦に敗北した天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京に遷すが、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、再び南の飛鳥に戻す。その後は、中華帝国、唐の律令制や皇帝制に習い、長安の首都計画を参考に、694年に藤原京(持統天皇)、710年に平城京(元明天皇)、784年に長岡京(桓武天皇)、794年に平安京(桓武天皇)がそれぞれ造営されるが、遷都の方位は子午軸上の北方を選び、方位の四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)相応の護る良地へとしている。

これは天皇を北極星にならい、自らの皇位を不動悠久の北辰、天皇大帝の神格と位置づけたものである。そして北位南面こそ皇帝たるもののポジションを示すものである、とした中華帝国の思想をヤマト王権の確立時期に導入したものにちがいない。まさに「天子南面す」である。

607年、聖徳太子が随の皇帝煬帝に使者を送った時に、その上奏文に記されていた「日出ずる国の天子、日没する国の天子に云々」という文言に煬帝が無礼な蛮夷のヤツ,と怒ったとされているが、この「怒り」は巷間伝えられるように「日出ずる国」「日没する国」に向けられたのではなく、「天子」という言葉にあったものである。即ち,この天下、宇宙に、自分以外にもう一人天子が居る,と宣言しているわけだから怒った。中華蛮夷思想の最たるものだが、それを知ってか、知らずしてか「天子」を名乗った倭国人もたいした度胸だ。日本は何時頃から中華帝国への柵封を求める朝貢国家を止めたのか、という疑問も出てくるがそれはまた,別の機会に解き明かしてみたい。

このエピソードが伝えるように、既に7世紀初頭には倭国に中国風の天帝思想、「天子南面す」という考え方が入り込んでいた。さらには中国風の都城造営の設計思想は、大規模な藤原京や平城京を待たずに、飛鳥の宮殿でも取り入れられ,小規模ながら大王(天皇)の執務、政務を執り行う館は南北軸上にあり。南面して玉座に座っていた。

以来、時代を下り明治元年(1868年)、日本の都は、初めて畿内を離れて東国、江戸に遷った。東の京(みやこ)すなわち東京と改称する。もっとも、これは天皇の東国への行幸であって、あくまでも御所は京都だという建前に基づくもの。正式には遷都の詔はないので、遷都ではないのだろうが。いずれにせよ初めて,南北軸を離れ、都が東に遷った。

明治新政府の考え方はもちろん欧米列強に負けない近代国家建設であるが、その基本的な権力基盤は天皇という権威に依存したものである。古代の天皇親政の復活、1867年(慶応3年)の「王政復古」である。11世紀初頭以来の長い長い武家政権の時代を一足飛びにさかのぼり、日本書紀がにわかに国史として表舞台に飛び出し、律令制時代の官制名称が復活し、天皇中心の国家観、皇国史観が復活した。長い間、文化芸能や有職故実をたしなむ京都のお公家さんが、政治の舞台に担ぎ出された訳だ。しかし、古代の遷都のロジック、「北位南面」の思想は引き継がれなかったようだ。新都東京の皇居は武家である徳川家代々の江戸城であり、大極殿も朝集殿も無い。

いまや、東京は1時間ほどで飛んで行ける近さだが、当時の東国は大和からは遥か遠い辺境の地であった。まして、今でも飛行時間13時間を要するアメリカやヨーロッパの国々は、唐天竺よりも遠い地の果て。その存在すら定かに認識し得ない魑魅魍魎の世界であったことだろう。こうして歴史を振り返ると、倭人、のちの日本人はこの狭い大和盆地を抜け出して東遷し、さらに日本列島を抜け出し、広い世界を知り、そこへと歩を進めて来た。しかし,やはりその原点はこの盆地にある。そんな日本人の箱庭的なDNAはなかなか変遷しないのだろう。なにしろ「豊葦原瑞穂の国」「うまし國ぞ秋津島大和の國は」であるのだから。

そんな事を考えているうちに、まもなく羽田に着陸となった。何ともあっけない
現代の旅..





(引用出典=『都城の生態』(岸俊男編「日本の古代」9、中央公論社、1987)
藤原京と平城京は南北の上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本の大道で、難波宮は東西の横大路で結ばれていた。












(奈良盆地の全景。北から南方向を望む。手前に見える長方形の敷地は平城宮跡。遥かに南に大和三山を望む。ここには藤原京が、そのさらに南には飛鳥古京があった。まさに平城宮は北位南面のロケーションだ。)

2013年7月5日金曜日

時空フォトジャーナリズム 〜現代の都会のなかに古代をイメージする〜

写真というものは、基本的には被写体に感動し、惚れなくては写せない。要するに撮りたいと思うものに出会うことが必要だ。とくに歴史写真は、風景やその現場の空気の中に、過去の出来事の痕跡や、人間の情念や、文化の残照を感じ、感動する要素が見つけられなければシャッターを切れない。写真はテーマに沿った被写体を探し出す事に始まる。

私は、日本という国の発祥の時期である、弥生後期から飛鳥、奈良時代の歴史的な出来事や当時の人々の心象風景を写真に切り取り、時空を超えてその時代を表現しようとしている訳であるが、しかし、これは容易なことではない。第一、過去の出来事は既にその場に形を持って存在しないから、報道写真のように「決定的瞬間」を撮影するわけにはいかない。今、可視化されるのは、名所旧跡を示す石柱や、現存する歴史的な建造物、古墳や廃墟、仏像や美術品、出土した土器や金属器のような考古学的な遺物だけだ。ないしは歴史学者垂涎の古文書のたぐいだ。後世の人が著した歴史書もそうだ。

こうした、いわば部材だけを取り上げて、ただ撮り続けると、それはなにか記録資料的な写真、ないしは観光ガイド的な写真になってしまう。見栄えの良い写真や、説明的な写真は世の中にあふれているから、今更自分がそこへ行って撮らなくてもよいだろう。せいぜい「私もそこへ行ってきました」的な証拠写真となるのが関の山だ。しかし、現地へ赴き、その「場」の風景に身をおくと見えてくるものがある。想像をたくましくして、現場に立つと、その辺りの空気や、たたずまいのなかに古代人の息吹や心の動き、文化の残照が漂っている。いやそれを感じることができることがある。やはり「そこ」に身をおいてこそ感じ取ることができるものだ。

これを「時空フォトジャーナリズム」と(勝手に)呼ぼう。ただ、それを写真というビジュアルなメディアに切り取ろうという訳だからやっかいだ。一見きわめて写実的表現のようであるが、実は観念的表現である。客観的な史実に基づく現況証拠写真であるよりは、想像をたくましゅうするためのイメージを求めた情況写真であったりする。すなわち、歴史の具体的表現ではなく、抽象的表現である。

まして古代人がご神託を得たという神や、スピリチュアルな経験や、非業の死を遂げた人物の祟りや怨霊など、その具体的な姿を写真にしようもない。おそらくは天変地異などの自然現象や、山や河などの地形、一木一草、水、気、空などに神や霊魂や祟りを感じたのであろうから、そうした光景を用いて表現するしかない。大和盆地は天気の変化が激しい土地柄だ。ある意味その変化が美しい。二上山の雲間から降り注ぐ夕陽の光芒、といったシチュエーションが典型的な表現だろう。それでも画にする事はかなり難しい。

さいわい大和盆地には記紀伝承地や万葉集に歌われた美しい山河や田園、自然景観がまだ残されているので、現代の風景からかつてのヤマトの景観を想像するのは比較的容易である。だから大和が好きなのであるが。こうした時空を超えた、連続的な風景の共有が可能であることは、今となっては得難いことである。尊敬する入江泰吉先生の写真には,そうした時を超えた光景が写し出されている。そこに古代の飛鳥や奈良の姿が写っている。

しかし、こうして今、現代の東京へ帰ってきて、雑踏の中を歩いてみると、この町はあまりにも変貌しすぎてしまっている。河口に広がる寒村だった江戸は、400年前の徳川家康の江戸開府以来、営々と築き上げられ、当時としてはロンドンやパリを超える巨大な都市に成長した。幕末の動乱期の戊辰戦争による焼き払いは避けられたものの、東京と名を変えて以降、関東大震災、東京大空襲、そして戦後の高度経済成長期の地上げで、街の様相は一変する。今でも人口の一極集中で、中空に、地下に、海上に、留まる事無く都市改造が進む東京。

東京では、古代の人々との時空を超えた風景の共有、心象対話はもはや不可能である。不変の景色の代表である富士山でさえも、東京から見えるポイントは限られてしまっている。わずかに富士見坂などの地名に痕跡を残すのみだ。古代までさかのぼらなくても、たった150年前の幕末から明治期に、御雇外国人ベアトが愛宕山から撮影した江戸市街地の風景(写真参照)も、今はまるで全く別の都市か、と思われるほどの姿に変貌してしまっている。まして万葉集に歌われた武蔵国の草深き野山を駆け巡るあずまびとの姿を空想することは難しい。

さて困った。写真で表現する古代の心象風景。ここ東京ではあきらめねばならないのか?東京に古代史の痕跡を見つけるコトは出来るのか? 記紀や万葉集の世界を垣間みる事は出来るのか? 力強い古代人の美の残照を見極めることは出来るのか? かなりハードルが高そうだ。空想力、写真表現力の限界を感じてしまう。




(ベアトが愛宕山から撮影した江戸の町の景観。大名屋敷の甍の連なりが美しい町だったのだ,江戸は...)



(現代の新橋駅烏森口周辺。旧新橋停車場は、駅の向う側、汐留シオサイトのある辺りにあった。どう見てもこの町から古代の武蔵の国を想像するのは難しい。)