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2014年8月27日水曜日

ライカというアンビバレンス 〜 Leica as an ambivalent gadget 〜

 新Leica M-Pが9月に発売になる。Leica M(Type240)のマイナーチェンジ版だ。正面の赤いロゴマーク(かなり目立つ!)とMの文字を取り除き、軍艦部に流麗な筆記体でLeicaおよび「Leica Camera Wetzlar Germany」の彫り込みを入れた。この刻印には、ライカ社の創業100周年、Solmsから創業の地Wetzlarに本社と工場を移した喜びが表れている。他には液晶カバーガラスをサファイアガラスに強化した。

 この外見をシンプルにした製品を、ライカ社は「P」すなわちプロフェッショナル向け、として通常のMよりもプレミアプライスで売り出す。まあいつものライカ商法だ。ちなみにTypeコードは通常のMと同様、Type240である。

 中味は全く通常のMと変わらないのに外見だけ変えて、「高付加価値商品」(価格がプレミア!)とするいつもの手法に、若干の引け目を感じたのか、今回はバッファーメモリーを2Gに増設して、連写機能を改善した。そして、M3の時代からあったフレームセレクターレバーを復活させた。「どうだ!プロフェッショナルだろう」。もっとも連写などライカMに期待していないアマチュアの私にとってはあまり引かれない改善だが。

 ネット上で今回の「新製品」の評判を見ると、「ライカM-Pには、顧客の意見を丁寧に聞き、その結果がうまくフィードバックされている。」(どの部分を言ってるのか分からないが)と、高く評価しているものもあるが、いまさら特にコメントすることはない、と言わんばかりに、公表されたスペックだけを記述して、製品発表を淡々と紹介しているものが多い。いつものことだから特段の驚きもないということか。

 尊敬、憧れ、期待、優越感、驚き、楽しみ、魅力、満足、失望、軽蔑、嫌悪、嫉み、いらだち、落胆、敵意、怒り... 人間の感情には肯定的な感情と、それと対をなす否定的な感情があるが、時として正反対の感情が一つの対象に向けられる事がある。ライカ(とくにそのデジタルカメラ)というカメラには、いつも高評価と、その反面の低評価の両方が寄せられる。実にアンビバレントなカメラだ。高級ブランドカメラというイメージが定着していて、価格が「庶民の懐具合などどこ吹く風」なので、憧れから来る高評価がある一方、低評価には嫉妬の感情も紛れ込んでいる。それにしては現代的な量産機の方がコストパフォーマンス、性能面で勝っているのでは?という、「それを言っちゃあおしまいよ」な「裸の王様」的懐疑心も。

 私もこうしたアンビバレントな感情に苛まれている一人である。フロイトが言うように、憧れと尊敬の感情の下に抑圧されているいらだちと失望の感情。これが葛藤に結びつきその結果、神経症になる。たかがカメラのことで神経症なんて、全く馬鹿げている。「されどライカ」なのだから始末に悪い。これはただの工業製品ではなく、人の心に分け入るジークフリートの魔剣「バルムンク」なのだ。

 そうして、とうとう永遠のアンビバレンスに身を委ね、物欲煩悩と遊ぶライカ病患者になっている自分を発見することになる。もう軍資金はとっくに尽きているので、注入する薬も無く、完治はもとより期待できないので、こうした駄文を書き連ね、症状の緩和を図りながら、この不治の病と闘い続けている。


中身はLeica M(Type240)な新Leica M-P。
正面の大きなマイナスネジ頭はプロフェッショナルなのだろうか?



しかしこの写りはやはり魔性のものだ...





2014年8月15日金曜日

2014年終戦の日 新益京(藤原京)の時空旅 〜讃良大王(ささらのおおきみ)(持統天皇)の維新大業の足跡をたどる〜

 終戦の日、澤田瞳子「日輪の賦」読了。同氏の作品「泣くな道真」に次ぐ2冊目だ。読み応えのある分厚い書き下ろし歴史小説だが一気に読み終えた。2冊ともタイムスリップ感が味わえるワクワクするような作品だ。

 物語は、7世紀の倭国。讃良大王(ささらのおおきみ)すなわち持統天皇の、いわば「日本建国」という時代を背景に、建設途上の新益京において律令編纂事業を行う撰令所、法令殿を舞台とし、それに関わる(推進勢力・抵抗勢力)諸々の階層の人々の姿を生々しく描いている。古代史的興味から読み始めたが,最後はサスペンスとしての興奮と、時代を超えて愛すべき人々の姿に涙した。

 女帝である讃良大王(持統天皇)の建国事業の歴史は、父である葛城王・中大兄皇子(天智天皇)、夫である大海人皇子(天武天皇)の遺志を継ぐもので、天皇中心の中央集権国家建設、大国にふさわしい律令国家の創設、という三代に渡る闘争の歴史である。

 この時代、すなわち7世紀半ばは、古来から倭国(弥生稲作農耕から発生した「ムラ」「クニ」の連合体たる「倭」)の成り立ちの基礎となって来た氏族/豪族制、私地私民制から、天皇制、公地公民制へ、という政治改革、社会改革、経済改革が進められた時代である。さらには私地私民制の根幹にある倭国古来の「八百万の神々」から、「天照大神」を皇祖神とする「神々の体系化」を行い、一方で外来の思想である「仏教」を、国を治める統合の思想「鎮護国家の思想」と位置づける「思想・文化革命」も行っていった。その重要な果実の一つである「大宝律令」は701年、持統天皇の孫、かるの皇子(文武天皇)の時代にようやく発布される。そうして、国号を自ら名乗ったわけでもない「倭」から日の出国「日本」と変えた。これは単に国号変更にとどまらない。「明治維新」の原型たる、いわば「大宝維新」が成し遂げられた瞬間である。まさに「日本建国」と言ってよい。

 もちろん、そのプロセスが平坦なものではあり得なかった事は容易に想像出来る。旧来からの氏族・豪族という私地私民制に依拠した既得権益層からの猛烈な抵抗のなかでの「維新」である。さらにそこへ、同盟国百済の滅亡、唐による倭国本土侵攻の危機という倭国を取り巻く国際情勢の緊迫である。大きな出来事だけでも次の事件がある。

1)まずは、645年の宮廷クーデターである「乙巳の変」(「大化の改新」と称せられたが、後述のように、この事変をもって改新が完了した訳ではないことから最近ではこのように呼ばれる)である。大王家と姻戚関係を持ち、政権中枢で権勢を振るっていた蘇我一族を滅ぼして「改新の詔」を出す。しかし、これは「維新」の始まりにすぎなかった。

2)次は、663年の集団的自衛権行使「白村江の戦い」である。同盟国百済救済のために朝鮮半島に出兵。唐・新羅連合軍との戦争に大敗を期し、倭国の半島に置ける権益を喪失する。やがて迫りくるであろう唐・新羅の倭国侵攻に備え、太宰府・水城建設、防人の徴用、西国の防衛力強化、首都の飛鳥から近江移転まで果たす。いわば外圧に対抗する軍事力強化策が国策となった。。

3)そして、674年の古代史最大の内乱である「壬申の乱」である。いわば軍事中心の近江朝政権から内政中心の飛鳥朝政権へと政権交代を果たしてゆく。百姓(民)、豪族は対外戦争と遷都事業に駆り出され疲弊していた。ここから「日本建国」事業が始まる。

 こう見るとまさに激動の7世紀である。日本建国の世紀である。明治維新の原型、「大宝維新」である。

 倭国内における氏族/豪族の争いという「内憂」と、朝鮮半島における権益の喪失、唐・新羅による、倭国侵攻への恐怖という「外患」が、大王の権力集中、国家体制の強化の試みの大きなモチベーションになったのは不思議ではない。やがて大陸の大国に負けない中央集権的国内統治体制の確立、そのための抵抗勢力封殺が、中期的な国家の安全保障目標となった。やがて国号を「日本」と改め、律令制を敷き、天皇制を確立し、天皇即位ごとの元号を定める。 いわば国家の「近代化」に一気に突き進んだ。

 そのモデルは唐の統治機構、なかんずく律令体制である。「日輪の賦」で描かれているように、唐から帰った留学生、学者や外交官が律令編纂に従事した。また百済からの亡命渡来人が大勢いたので、彼らの知識や技能が役立った。単に唐の律令をコピペするのではなく、倭国の実情にあった形に咀嚼し、策定する作業は、681年の天武天皇の詔から20年を要した。そして、その律令制定により既得権益が失われてゆく抵抗勢力の妨害も凄まじかった。その様子が生々しく描かれている。

 一方で、新しい国家「日本」の正史である日本書紀も、「天皇」の記である古事記もみなこの時に編纂された。天照大神を皇祖神とし、天孫降臨族の正当な子孫としての「万世一系の天皇」という思想はこの時出来た。豪族/氏族に共立されていた大王(おおきみ)が、彼等の上に立つ天皇(すめらみこと)として国家を統治する正統性、権威を歴史的に証明(?)してみせたのがこれらの歴史書である。明治維新後の皇国史観はこのときに編纂された記紀がその根拠であり、天孫降臨神話も神武天皇東征も神功皇后三韓征伐もこの時代が生みだしたストーリーであることを知っておく必要があろう。

 一方,これは、中華帝国、その皇帝(天帝)の他に,もう一人天帝が東アジアに出現したという事を宣言したものでもある。すなわちこれまでの中華帝国への柵封朝貢国家「倭」から,独立した国家「日本」を樹立した事を宣言したものだ。白村江の敗戦と唐の倭国侵攻の危機を乗り切った後に,急ぎ国力を充実させ,国家体制を整備して「大宝維新」を成就させた。

 歴史は繰り返す。日本という国の歴史的な転換、パラダイムシフトには必ず、海外からの脅威が背景にある。やがては脅威であったその外国に学び、国の「近代化」を果たすことによって生き延びてゆく、これが日本という国の「歴史観」であろう。7世紀の「大宝維新」は19世紀の「明治維新」のモデルとなった。武家政権・幕藩体制から天皇への大政奉還は、すなわち「王政復古」なのである。明治新政府の太政官・神祇官などという官制は、なんとこの大宝律令時代のそれの復活なのだ。

 19世紀に、西欧列強の脅威に対抗して国家の近代化を指向するなかで、1200年も前の日本の古代の統治制度を復活させるという歴史的皮肉に、永年続いた武家政権、封建制度からの脱却の困難さを思うばかりである。倒幕の理念としての尊王攘夷だけではなく、強力な中央集権国家のモデルイメージとして大宝律令時代の天皇制、皇国史観を引っ張りだしてきたところが日本という国の歴史の妙であろう。一つの権力を倒し、新たな権力を打ち立てるには、古からの「権威」regitimacyが必要であった。まさに「王政復古」Meiji Restorationなのである。

 ここで、「激動の7世紀」、「激動の19世紀」の共通点をいくつか拾ってみよう。

1)国号変更:
倭から日本(ひのもと)へ ⇒ 日本から大日本帝国へ

2)中央集権:
氏族・豪族体制から天皇中心の中央集権体制へ ⇒ 幕藩体制から天皇中心の中央集権体制へ

3)外圧:
唐の侵攻の脅威 ⇒ 欧米列強の植民地化の脅威

4)内戦:
対外戦争から国内体制の安定化優先への政権交代(壬申の乱) ⇒ 倒幕内戦(戊辰戦争)から不平士族反乱鎮圧(西南戦争等)まで

5)統治機構:
私地私民制から公地公民制、氏族・豪族の臣民化、官僚化 ⇒ 藩籍奉還、秩禄処分(武士階級の廃絶)、華族令(藩主の皇室藩屏化)、官僚制整備(帝国大学による官僚育成)

6)法治国家:
大宝律令発布(人治国家から法治国家へ) ⇒ 大日本帝国憲法発布(西欧流立憲君主制)

7)遷都:
新益京遷都(近代的国家に相応しい首都建設) ⇒ 東京奠都(近代国家にふさわしい首都建設)

8)政治思想と統治理念:
記紀編纂。皇祖神天照大御神創出による天皇支配の正当性 ⇒ 皇国史観による政治、社会,教育。廃仏毀釈(後に文化財保護視点から廃止)

 しかし、天智天皇、天武天皇、持統天皇による天皇中心の中央集権国家体制、律令体制も、奈良時代末期から平安時代には、ほころび始め、天皇家と姻戚関係を持つ藤原一族の支配(摂関政治)へと移り、律令制も何時しか崩壊してゆく。さらに平安末期の武家の棟梁平清盛に始まる武士階級が政権をになうようになり、途中,幾度か天皇親政を試みる動きはあったものの、将軍(天皇が与えた官位である征夷大将軍)が国を統治する時代が、江戸末期まで700年も続くことになる(権威は天皇,権力は将軍という二元支配体制)。

 明治維新の国家統治理念は、基本的には上記のように大宝律令時代の統治理念を復活させようという「王政復古」であり、再び天皇中心の中央主権国家が生まれたわけであるが、そのわずか77年後の1945年の大日本帝国の敗戦により、天皇が主権者という統治構造は崩壊する。かわって、国民(律令時代風に言えば「百姓(ひゃくせい)」)を主権者とする、すなわち民主主義という新しい国家統治理念がもたらされる。明治の王政復古で主権者の地位に返り咲いた天皇が、外国に国土を占領され、独立主権を奪われるという形で主権者の座を降りるという(戦後は象徴天皇制として残ったが)、日本開闢以来未曾有の出来事であった。そして、この戦争は近隣諸国に甚大なる被害を与えただけでなく、320万人もの国民同胞(百姓)が犠牲になった戦いであった。白村江の戦いの比では無い。かつて唐の侵攻を防ぎ、元の来寇を博多で食い止め、南蛮人の野望から鎖国で国を守り、西欧列強の植民地化にも対抗して独立と国土の安全を守ってきたこの国は、なんと外国に占領され、6年間独立を失った。20世紀になって歴史に大きな汚点を残した。ついに民を、国土を守れなかった。この歴史の重みを知るべきだろう。このことを忘れてはいけない。

 新益京について以前書いたブログ:新益京(あらましのみやこ)


大和三山を包摂する新益京

新益京藤原宮大極殿跡。背後には耳成山

大極殿の基壇跡

夏の睡蓮
夏は睡蓮畑になる藤原宮跡
背後には畝傍山

藤原宮跡から見る香具山

大極殿跡から真南、朱雀大路の先に夏雲が

元薬師寺。夏はホテイアオイ畑になる



元薬師寺金堂基壇跡

幻冬社



























2014年8月6日水曜日

太宰府 〜遠の朝廷(とおのみかど)にはチャンスがいっぱい!〜

 普段あまり小説を読まないが、最近面白い小説に出会った。澤田瞳子氏の「泣くな道真」ー大宰府の詩ーだ。日経新聞の書評欄に紹介されていたのが眼に留まった。この新進気鋭の歴史小説家の描く、菅原道真と彼を取り巻く太宰府や博多の人々、1100年ほど昔の太宰府と博多という町の有様が新鮮だ。逆説的だが、フィクションという形で描かれてはいるからこその、歴史書や考古学からは見えてこない当時の生々しい光景が目の前に広がる。まさにひとときの「時空旅」を楽しませてもらった。史料・文献を読み込んだ実証的な歴史研究の成果に基づいて書かれた歴史小説であるが、どこかサラリーマン小説的でもある。面白い。

 みやこで右大臣にまで上り詰めた菅原道真が、左大臣藤原時平の讒訴により,筑紫大宰府に左遷されて落魄の時を過ごすが、そこで、内裏しか知らず、位人臣を極めていた時には知る術もなかった、地方の民の暮らしぶりやその苦悩を知り、かたや博多津という国際貿易都市に入ってくる異国の文物の豊かさに驚き、そのなかで唐物書画骨董の真贋目利きに頭角を現し(さすが当代きっての文章博士だ)、再び生き生きと自分の立ち位置を見つけて行くというストーリーだ。

 道真公の大宰府左遷という誰でも知っているストーリーを、当時の大宰府/博多津という都市の性格をうまく舞台化して、新たな自分に目覚める一人の男の物語りとして描いた歴史小説だ。みやこ/朝廷というある種狭い世界で政治権力闘争に明け暮れている連中には見えない世界があるんだという。みやこでの権力闘争の敗者が、ここ大宰府という別の世界の勝者になるという。歴史小説であるが、現代の世相と重ねあわせた批判精神が愉快だ。痛快サラリーマン小説みたいなストーリ展開で一気に読み終えてしまった。サラリーマンの我が身としては身につまされる部分が多いだけに(笑)

 太宰府といえば,このように菅原道真が都から左遷されて来た鄙の地、というイメージが強い。しかし、大宰府は西海道(九州)九カ国三島を統治する,強大な権限を有した役所である。大宝律令下では最大の地方国衙であり、その街は「遠の朝廷(とおのみかど)」と称される殷賑極める大都会であった。さらに、大陸に近く、我が国弥生文化発祥の地であり,ヤマト王権の拡大に応じて外交窓口、辺境防備の役割を担う拠点となった。したがって、大宰府がとりわけ重要であったのは外交、国際貿易を取り仕切る役所であったという点だ。大宰府の外港である、那の津/博多津には筑紫鴻臚館が設けられ、そこで外交使節の接遇、饗応を行い、大陸との交易の先取り特権有した。これは独占貿易からの巨万の富という経済利権を有する地方国衙である事を意味する。特に平安時代に入り、遣唐使が廃止されると(この進言をしたのは菅原道真)、日本は一種の鎖国となり、博多津が唯一海外に開かれた港となる。江戸時代の鎖国体制の長崎と同様だ。その博多津を大宰府が一手に掌握していた。いや博多津は大宰府の一部であって、切っても切れない関係であった。

 その大宰府の最高位である長官は、大宰帥(だざいのそち)である。平安時代になるとその地位には代々親王がついた。筑紫大宰府に赴任しない「遥任」官として都に居たまま高給と貿易利権を手に入れる事の出来る美味しいポストであった。実際には、臣下である大宰権帥(だざいごんのそち)や、大弐(だざいだいに)がみやこから筑紫に赴任して地方長官,外交長官として、地元採用の官人を統率して権限をふるった。いわば中央官庁採用と地方採用のような構造だ。彼らも在任中(通常5年だったようだ)大きな経済利得を享受した。

 901年、菅原道真は右大臣から太宰権帥に左遷され、はるばる筑紫大宰府に流された。権帥(ごんのそち)とは、「権」(仮の)「帥」、すなわち、大宰帥の次官あるいは長官代理のようなポジションである。道真公のように従二位という身分の高い官人が赴任する時には、大弐ではなく権帥となった。権帥は必ずしも左遷ポストというわけではなく、実際に筑紫に赴任して活躍した大江匡房のような権帥もいた。彼は在任中せっせと蓄財をして都に帰っている。しかし道真公の場合は権帥といっても「大宰員外帥」で、実際には何の権限も与えられず、部下も身の回りの世話をする従者もなく、報酬も与えられないポジションであった。このような「哀れ道真公左遷」の話が後世あまりにも有名になり、太宰府は左遷の地、権帥は左遷ポストというイメージが定着してしまうが、実は先述のように、大宰府の高官という地位は美味しいポジションだったのだ。左遷されてきた人もいたが、願って赴任してきた人もいる、という状況だった。

 もっとも、みやこで位人臣を極めた道真公にとってはそんな現世利益みたいな話しはどうでも良いことだったろう。ただただ帝への忠誠と自らの名誉を重んじた。自身は一度も府庁に出仕しなかった。「不出門」の漢詩のように、府庁から朱雀大路を下った府の南館(といっても当時はほとんど廃屋状態だったと言われる)で「配所の月」を眺め、「観世音寺の鐘の音」を聴きながら謹慎していたから、実際に権限をふるう事も蓄財する事もなかった。

 903年、道真公が大宰府で亡くなって37年後の天慶年(940年)、伊予の中級官僚である藤原純友が瀬戸内海日振島で反乱を起こした。彼は都を襲わず、大宰府を襲う。このとき蔵司にあった財宝が奪われ,官衙はことごとく焼き払われてしまう。大宰府が西海道の租税徴収権限を有し、税の集積地であった他、博多津の筑紫鴻臚館での大きな貿易先取り特権による富の蓄積があったからこそ、襲撃のターゲットになった訳である。こうして大宰府官衙は壊滅するが、最近の都府楼跡の発掘調査で、すぐにこれまでにも増して壮大な政庁が再建された事実が判明している。現在、都府楼跡に並んでいる,壮麗な礎石群は、この第三期(一期は飛鳥時代後期の掘建て柱建築。二期は大宝律令下の奈良時代の礎石柱・瓦屋根の朝堂院形式建築)の再建政庁正殿の礎石であった。この時期は律令体制が崩壊しつつある時期で、中央の再建支援が期待出来ない状況であった。しかし、都の支援を仰がなくても、このような再建を可能ならしめる財力が、地元、博多や大宰府に備わっていた。

 人間の物欲煩悩とどまるところを知らず。大宰府が牛耳っていた富を巡る争いは,この後も続いて行くことになる。

 律令制の実質的な崩壊過程で、役所としての大宰府はその機能を低下させていったが、大陸の唐の滅亡、五代六国の王朝交代の混乱が収まり、東アジアに再びグローバリゼーションの波が押し寄せる情勢を見て、いち早く大宰府の戦略的役割を再評価したのが平安末期の平清盛である。彼は大宰府における宋との交易利権を独占すべく、自ら大宰大弐のポジションを朝廷に要求した。以降、平家一門は有力な子弟を大宰大弐として実際に赴任させている。平家一門の繁栄、みやこにおける権勢を支える経済的源泉が、この大宰府/博多津である事を認識していた。やがて清盛は活動の拠点を太宰府ではなく博多津に移し、袖の湊を建設することでますます宋との交易に傾注してゆく。さらには瀬戸内海に大型の宋船が通行できる航路を開削し、直接都に近い大和田の泊で交易独占しようとしたが、この国家的プロジェクトは実現を見ぬまま清盛は没し、やがて平家一門は壇ノ浦に沈んで行った。鎌倉時代以降は、源氏・北条氏など東国武士団はグローバリゼーションへの認識が薄く、平氏の勢力圏であった西国統治にも苦慮していた。海外との交易も大宰府による官製貿易から、徐々に博多在住の華僑(博多鋼首)や日本人商人の私貿易が中心となってゆき、のちの博多豪商達の黄金の日々に繋がってゆく。

 歴史に「もし」はない、とよく言われるが、この小説のなかの、もう一人の自分に開眼した菅原道真公が、いま少し太宰府で生きながらえていたらどうなっていただろう。後日譚を想像してみるのも面白い。

 すなわち、毛並みの良い学者一族の出という血筋、稀代の文章博士という知性、宇多天皇、醍醐天皇寵愛の右大臣、というみやこでの栄光の過去をすっぱりと忘れて、ひょっとすると唐物の目利き能力、漢籍の素養を生かしたコミュニケーション能力を遺憾なく発揮して、博多津の豪商、菅三道(かんさんどう)になっていたかもしれない。左遷されてもひたすら謹慎し、天拝山に登ってみやこの方角を遥拝する勤王の心篤き忠臣として彼の地で没するのではなく、己の才能が別のパラダイムに生きる事に気づき、博多津から海を渡り、世界に飛び出す冒険的商人に変身するのだ。かつて遣唐大使に任命されながら、唐の衰亡を見て遣唐使廃止を進言した道真。今度こそ渡海を果たす時がやって来た。和魂漢才の冒険的商人は無敵であっただろう。みごとな人生パラダイムシフトではないか!「もし」そうなっていたら、都で祟りをなすと恐れられる雷神にはなっていなかっただろう。もちろん太宰府天満宮も北野天満宮も創建されてなかっただろう。天神様として崇められたり、学問の神様にはなってなかっただろう。そのかわり後世に博多と福州・杭州の双方に子孫、人脈を残して、東アジアにネットワークを張る倭僑コミュニティーの始祖になっていたかもしれない。中高年の期待の星として歴史に名を残していたかもしれない。

 道真は膝を打って叫んだ。「おお、それは痛快じゃわい!」



うんちくコラム:

 「だざいふ」は「太宰府」なのか「大宰府」なのか?「福岡」と「博多」の違いに続くウンチク話第二弾。一言で言うと、大宝律令で定められた官位、地方行政官庁の名称としては「大宰」「大宰府」が使われていたようだ。後に地域の名称として「太宰府」を使うようになる。しかし、正確に使い分けられていた訳でもなく、古くから混用されていた。ちなみに天満宮は「太宰府天満宮」、現在の自治体としての市も「太宰府市」である。

 大宰府は「おほ みこともち の つかさ」と読み、「大宰(おほ みこともち)」は官位名称。その役所が「府(つかさ)」である。大宝律令以前は筑紫大宰だけでなく、吉備などの地方の長官を大宰と称していたようだが、やがて筑紫大宰府の長官だけを大宰と称するようになる。

 大宰府がいつ頃設置されたのかについては論争がある。7世紀の後半、白村江の戦い以降、現在の博多湾岸にあった那の津宮家を内陸に移したのが太宰府の始まりという説が有力だ。しかし、日本書紀には601年の推古大王時代に「筑紫大宰」の記述があり、大陸との窓口の役割を果たす官家があったようだから、さらに歴史はさかのぼるのだろう。

 逆に、何時無くなったのか? 平安末期の11世紀には地方行政組織としての大宰府は消滅してしまったようだ。律令制がその実態を失っていった時期である。したがっておよそ400年ほど存続していたのだろう。しかし律令官制としての大宰府は無くなっても、筑紫、博多の重要性は変わらず、鎌倉北条氏の時代にも、大宰府の地に鎮西総督府が置かれている(その場所は特定できていないが、政庁跡の東、現在の五条付近ではないかと言われている。発掘調査が進められている。)し、元寇のときも蒙古/高麗軍は、筑紫大宰府を目指して博多湾に上陸してきたと言われている。さらに官位としての大宰帥、権帥、大弐、少弐は府庁が無くなっても継続する。もとはみやこの皇族や貴族の官位であったが、先述のように、平清盛など、武士の台頭に応じて、有力武士団が、筑紫における外国交易による経済利権と九州統治の権威を得るためにこうした官位を欲しがるようになる。例えば、鎌倉から移って来た,いわゆる西遷御家人である武藤氏は、後に、その官位である大宰少弐の名を取り、少弐氏と改称する。また周防の大内氏は博多における権益拡大と九州支配を目指し、朝廷から大宰大弐の官位を受けている。

  こうして、大宰府の権威はいつまでも亡霊のごとく権力者につきまとった。なんと、最後の大宰帥は1849年に補任され明治2年1869年に任を辞した有栖川宮熾仁親王である。


大宰府政庁跡。平城京大極殿に匹敵する正殿ほか、壮麗な朝堂院形式の府庁が建っていた。
背後は大野城。有事の際は大宰府全体が籠城できた。
大宰府政庁正殿跡の礎石。第三期のものである事が分かっている。

太宰府天満宮と飛び梅
「東風吹かば思い起せよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
筑紫鴻臚館発掘現場
旧平和台球場の地下に遺構が発見された。
九州帝国大学医学部の中山平次郎教授の功績をたたえる

左(北)の山は大野城、その麓に太宰府政庁跡や観世音寺が並ぶ。
右(南)の市街地のなかの小さな緑が菅原道真公の配所の館跡


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