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2014年10月7日火曜日

みまきいりひこいにえのみこと 〜崇神天皇の三輪王朝と邪馬台国〜


  記紀に記述のある歴代天皇のうち、第十代崇神天皇は、初代神武天皇とその後の八代の天皇(在位中の事績が記されていないことから「欠史八代」と呼ばれている)と異なり、初めて登場する実在の天皇(大王)であったと言われている。それは、記紀において初めて在位中の事績が詳しく記述される大王であること、拠点とした三輪地方に、その存在を裏付けるいくつかの考古学的な証拠が見られること、などによる。和風諡号を「みまきいりひこいにえのみこと」という。また「はつくにしらすすめらみこと」という。とくに「はつくにしらす...」は初代天皇という意味で、不思議なことに神武天皇と同じ諡号である。このことからも崇神天皇が神武天皇とともにと特別の存在であることを示している。もっとも何時の時代に実在したのか、編年体で記された記紀の記述からははっきりしないうえ、記述通りだとすれば120歳で崩御したことになっているから正確な在位期間もわかっていない。おそらく3〜4世紀ころではないかといわれる。

 3世紀と言えば魏志倭人伝に記述のある邪馬台国、その女王卑弥呼と、その後継者であるトヨの時代である。以前にも述べたように、記紀の記述と魏志倭人伝の記述には接点が無いので、卑弥呼と崇神天皇との関係も不明だ。8世紀に天武天皇により天皇中心の国家体制に一新し、天皇支配の正当性を内外に示すために編纂された古事記、日本書紀(記紀)と、中国の三国志とでは編纂の時期、目的、意図が異なる事は言うまでもない。8世紀の記紀編纂者はあきらかに魏志の存在を知っていたにもかかわらず(神功皇后の項に注記で「魏志によれば倭国女王が魏に使者を送った」と記す)、邪馬台国や卑弥呼の名は一切言及していない。意図的に無視したのか、皇統との関連性を認めなかったのか、いずれにせよ、両文献の比較研究は思いのほか困難な作業であるようだ。

 みまきいりひこいにえのみこと(崇神天皇)は三輪山の西麓に拠点を置いた三輪王朝の始祖である。いくめいりびこいさちのみこと(垂仁天皇)など、イリの名を持つ大王がでたためイリ王朝とも言われており、これがヤマト王権の始まりではないかと言われている。一方、三輪王朝以前に葛城山麓を発祥の地とする葛城王朝があり、実在が疑わしいとされる欠史八代の天皇は、実はこの葛城王朝の王達であった、とする説もある。

 この三輪王朝も、4世紀後半に入ると河内に起こった応神天皇を始祖とするの河内王朝に取って代わられたのではとされる。仁徳天皇の聖君子伝説や、雄略天皇の武勇伝、古市古墳群や中百舌鳥古墳群に見られるような巨大古墳を残した王朝である。やがてはその王統が武烈天皇で途絶え、5世紀後半には越の国からオヲド王、継体天皇が大和に入り、飛鳥の地に宮都を開き、飛鳥を中心としたヤマト王権の時代が始まる。崇神天皇に始まる三輪王朝を初期ヤマト王権とし、このように王朝交代を経てヤマト王権が確立していったとする考えが定説になりつつある。

 崇神天皇の都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)とされており、山辺の道に沿っている。また、陵墓は、天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。考古学名は柳本行燈山古墳前方後円墳、全長242m)。

 ここ山辺の道のある山麓にはこの他にも景行天皇陵とされる渋谷向谷古墳、西殿塚古墳などの大型前方後円墳が並んでおり、大倭古墳群を形成している。また、卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳もある。古墳時代の幕開けを象徴するエリアだ。実は、渋谷向山古墳(景行天皇陵)は柳本行燈山古墳(崇神天皇陵)よりも大きく、かつ年代測定法によると、より古いという結果がでていることから、渋谷向山古墳が本当の崇神天皇陵ではないかと言われている。

 また、纒向遺跡では水路跡や都市跡ではないかと思われる区画が広範に見つかっている。さらにJR巻向駅近くで卑弥呼の宮殿(神殿)ではないかと言われる神殿跡が見つかり、いよいよ邪馬台国近畿説論者を勢いつかせたことも記憶に新しい。また、卑弥呼が魏王から貰ったと記述のある三角縁神獣鏡が大量に副葬されていた黒塚古墳も柳本にある。もっとも、ほとんどが国内で造られた榜製鏡であることが、後の調査で分かった。

 ところで、魏志倭人伝によると、倭国は2〜3世紀、鬼道を用いる女王卑弥呼が支配する邪馬台国を盟主とする30カ国ほどの連合国家(クニのあつまり)であった。呪術により女王(巫女)が天の意志を伝え、男王がそれに基づいて政治を執り行う、という祭政一致の政治体制(ヒメ・ヒコ制)をとっていた。それが、記紀によると、崇神天皇の時代には、男王が、四道将軍の伝承のように武力を持って倭国全土の統一を図ったように記述されている。その勢力範囲は、せまい大和盆地内だけでなく、全国に拡大するようになる。さらに景行天皇の時代には、その皇子である日本武尊が、東征、征西、熊襲征伐を行い、武力で全国を平定したという英雄伝が語られている。

 そういう点では、崇神天皇の時代は、祭政一致、ヒメ・ヒコ体制、すなわち祭祀による統合の時代から、武力による統一に向けて大きく一歩を踏み出した画期の時代であったと考えられる。河内王朝の時代になると、さらに三韓征伐や熊襲征伐を断行したと言われる神功皇后や、雄略天皇のような武勇を誇る大王達が名を連ねる。5世紀の中国の史書である宋書に於いても「倭の五王」による倭国統一、朝鮮半島支配権を中国皇帝に認めさせようという記述が見られ、「そでい甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」となる。ここでも中国の史書と記紀との間で年代の相対比較が困難であるが、倭国は、呪術的権威による祭政一致支配体制の国から、武力を持った男の大王による権力基盤の国という変化が前面に現れるようになる。

 このように見ると、邪馬台国は果たして崇神天皇「みまきいりひこいにえのみこと」が築いた三輪王朝(初期ヤマト王権)との繋がりはあるのだろうか?邪馬台国はどこにあったか、という位置論争がハイライトを浴びているが、北部九州ににあったにせよ、近畿にあったにせよ、そもそも後のヤマト王権に繋がりのある国だったのか疑問がわいてくる。

 前述のように、記紀が意図的に邪馬台国にも卑弥呼にも言及していないということは、邪馬台国が、崇神大王に始まる倭国ヤマト王権、その後8世紀に始まる天皇制日本とは繋がらない国、王権であったことを示唆しているのかもしれない。あるいは意図的に中華世界で朝貢・冊封体制に取り込まれていた邪馬台国の系譜を避けたのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても中国の三国志(魏志)にその名を記され、世界に認知されていた倭国、邪馬台国、その王たる卑弥呼やトヨが、後のヤマト王権とは異なる系譜の王権であったとしても、さらには何らかの形で邪馬台国からヤマト王権への王権交代、王権簒奪があったとしても、そのプロセス、歴史を記述しなかったのはなぜなのだろう。なにか「不都合な真実」が隠されているのだろうか?依然として疑問が残る。

 そう考えてゆくと、そもそも邪馬台国はこの大和盆地の三輪にあったのか?卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳も、纒向遺跡で見つかった大型の神殿跡も、邪馬台国近畿説側から観た物証解釈で、邪馬台国や卑弥呼に特定できる証拠はどこにも見つかっていない(魏王からもらった「親魏倭王」の印か、封泥が出れば決定的だが)。むしろ崇神天皇「みまきいりひこ」の三輪王朝の遺構であってもおかしくないのではないか。纒向現地を巡ってみると、ここはやはり初期ヤマト王権発祥の地(すなわち三輪王朝の地)で、水稲農耕弥生文化の習俗を色濃く残していたであろう邪馬台国の匂いがしない気がする。やはり邪馬台国はこの三輪山麓や纒向ではなく、北部九州筑紫にあったのではないかと考え始める。卑弥呼やトヨの死後の倭国混乱のなかで、邪馬台国と倭国連合が崩壊し、その一部が筑紫から瀬戸内海を東に移動し、近畿大和に定住し武力を持って王朝を開いたのではないか。そのとき大和盆地や河内平野(潟)には先住民がいた。「にぎはやひ」を祖先とする物部氏系の先住部族だ(彼らもまた筑紫から東遷したとの伝承を有している)。それと戦い,融和して開いた王朝、それが三輪王朝ではないのか。(神武東征伝説のもとになる出来ごと)。

 天武天皇の時代、8世紀の律令制、天皇制、「倭」から「日本」への国号変更、公地公民制などの改革が次々と行われた時代、天皇支配の正当性、神代の昔から続く万世一系の天皇系譜の書である記紀、また中華帝国に対抗する新生「日本」の正史「日本書紀」にとって、魏志に記述された邪馬台国や卑弥呼は、あまり触れたくないものであったのだろう。まして、華夷思想に基づく蔑称である、倭や邪馬台国、卑弥呼の名を嫌い、を王統譜に入れなかったのかもしれない。また、記紀編纂事業が取り組まれた7世紀後半から8世紀当時、2〜3世紀の邪馬台国/倭国に関する本邦側の文字にされた記録も無く、口頭伝承された記憶があったとしてもかなり薄らいでいたのかもしれない。稗田阿礼も太安万侶も舎人親王も邪馬台国の伝承を受け継いでいなかったのかもしれない。したがって邪馬台国から初期ヤマト王権への移行のプロセスに関する記憶も無くなっていたのかもしれない。

 このように、卑弥呼の邪馬台国と、みまきいりひこの初期ヤマト王権との連続性はあったのか。王権としての断絶、フェーズ転換があったのか。いろいろ推測は出来ても、確固たる証拠は無く、まさに歴史のミッシングリンクである。ただ記紀編纂の時代背景から推測するに、邪馬台国や卑弥呼などの時代の「倭国」は、新生「日本」にとっては、あまり仔細に触れたくない時代の歴史だったのではないか。太古からの歴史をずっと見つめてきた三輪山は荘厳な佇まいで黙して語らず。人の手で創出された巨大な古墳群が山辺の道に威容を誇るが、陵墓の発掘調査はおろか立ち入りすら認められず、被葬者の声を聞く術もない。




崇神天皇の磯城瑞垣宮跡と伝承される金谷の志貴御県坐神社

三輪山をご神体とする三輪神社拝殿

三輪神社から大和三山、二上山が見渡せる

葛城山遠望

古代の官道と言われる山辺の道

檜原神社の真西には二上山が

三輪山

箸墓古墳

渋谷向山古墳(景行天皇陵)

行灯山古墳(崇神天皇陵)

山辺の道の背後にそびえる龍王山から見下ろす主な古墳


箸墓古墳

景行天皇陵。
その左手上部に纒向遺跡(神殿跡)発掘現場が見える

崇神天皇陵

黒塚古墳
大量の三角縁神獣鏡が出土した



参考までに、以前のブログを下記に掲載。
「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 纒向遺跡と箸墓古墳 古代ヤマトを歩く: 最近、あらためていろいろ古代史に関する本を読みあさっていると、主に考古学分野での研究成果の蓄積により、永年の「邪馬台国位置論争」にも一定の答えが見えてきたような気がする。 もちろん位置を特定する決定的な証拠(例えば当時の地図、親魏倭王の金印、卑弥呼を特定出来る遺物など)が出てこな...