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2015年1月7日水曜日

LeicaMレンズの最適プラットフォーム SONY α7II登場! 〜それでもLeica Mで撮る意味とは?〜

 謹賀新年。2015年もまたよろしくお願い申し上げます。


 いきなりカメラ談義で今年のブログスタート。

 SONYは最近素晴らしい製品を次々市場に投入してくる。といっても、トリニトロンやウオークマンじゃない。VAIOでもない。そっちの方は最近からっきしダメだ。どうなっちゃったの?あのSONYは... 私が言ってるのはカメラの話だ。SONYじゃなくて旧ミノルタなのかもしれないが、こっちは凄い!

 Eマウントのフルサイズセンサー、ミラーレスカメラα7シリーズに、ボディー手振れ補正機能のついたIIが出た。α7の新シリーズと言ってもいいほどの大改造だ。グリップ部形状が変わり、大きくて握りやすくなった。シャッターボタンの位置も一眼レフに慣れた人には有難い。レンズマウントはややボディー中央部に移動。このバランスがまた良い。ちりめん状のマットブラック塗装で道具としての風格もグッと増した。ボディーサイズは全体に少し大きくなったが、個人的にはこれまでのSONYの軽小短薄路線は、好きでなかったので、むしろ私好みに近ずいて来てくれた。やっとSONYのカメラに私も関心が向くようになった。カメラはしっかりしたホールディングと安定感が必要なので、それなりの大きさと重量感、剛性感がなくてはダメ。軽小短薄ではダメなのだ。

 しかし、何と言ってもα7はライカMマウントレンズを楽しむためのM代替ボディーとして最適なのだ。α7IIにコシナのクローズフォーカスリング付きVM/Eアダプターを装着。これをベースとしてライカMレンズ群をとっかえひっかえ遊ぶことができる。これまでライカMボディーで撮影の度に溜まっていったフラストレーションが雲散霧消するのが小気味良い。特にレジェンド、名レンズNoctiluxのマザーボディーとしては最高だ。この開放f値1、最短撮影距離1mという扱いにくい老眼レンズも、やっと防湿庫の闇から出して使うことができるようになる!

 ライカMと比較したα7IIのメリットは、

1)先ほどのマウントアダプター併用で、近接撮影ができるようになる。このNoctilux 50mmを近接撮影で使えるだけでもOKだ。とろけるようなアウトフォーカス部分のなんとも言えぬ美しさ。これが本家ライカMボディーの、最短撮影距離1mという老眼レンズと距離計連動光学ファインダーという組み合わせでは味わえないのだからフラストレーションが溜まっていた。。

2)マニュアルフォーカスでも、ピント合わせが容易だ。Noctiluxを開放f値で撮る時、Mの光学レンジファインダーでは、ピントあわせが非常に難しい。被写界深度が極端に浅いレンズなので、ファインダーで見ると合っているが、実際の写真では微妙にピントが来ていない。ライカの外付EVFはイマイチの解像感。しかも拡大表示するとますますピントがギザギザで山がつかめない!その点α7IIの方は、内臓EVFの解像度が凄い。ピント拡大表示も容易でクリアー。フォーカスアシスト機能も非常に明快(ライカMのそれは、いったい何なんだろう?)

3)露出補正ダイアルが、軍艦部に鎮座しているのもいい。すぐにアクセスできるということには妙な安心感がある。ライカMはオート撮影を主体に想定していない。ユーザの要望が多いので「妥協した」のだろう。マニュアル撮影(露出絞りとシャッタースピードを合わせて撮る)での撮影を想定しているので、あくまで露出補正はサブなのだ。私のようにオート+露出補正を多用する場合はα7IIの方が良い。

4)そこに、この度α7IIではボディー内手ぶれ補正機能(5軸手振れ補正、要するにどっち方向に動いても補正します、という優れもの)が加わったのだ。SONY純正Eマウントレンズでなくてもマニュアル設定で手振れ補正できる。特に望遠系レンズを装着するときは絶対有利。4段ほどの効果がある。ライカはMもXもTも、何故手振れ補正を取り入れないのか? スナップ撮影を想定したTなんかでも、これから望遠ズームがラインアップされるというのに。あのヤサ男のような薄っぺらいボディーに太くて重い望遠レンズ装着では、バランスが悪く手持ち撮影は無理だ。

5)スイッチオンからの立ち上がりが早く、レスポンスがキビキビ、サクサクしていて気持ちが良い。以前のα7で感じたシャッターのワンテンポディレー感も無くなった。全てにスローでまったりしたライカMの感覚とはかなり違う。

 ほかにも色々優れた機能がてんこ盛りだが(各種フィルター設定や、超解像ズームなど)、それは別にしても、本家よりもライカMレンズの性能を余すところなく味わえる仕様となっているのがなによりも嬉しい。安心感、信頼感があることも心地よい。Noctiluxのような高速レンズこそこのα7IIの標準レンズかもしれない。

 Mほどではないが、道具としての質感も高まった。画質も解像度、歪曲収差、周辺部減光もいいし、ライカMレンズの色味、高解像感をよく再現できるチューニングになっている。安心してMレンズ群を堪能できるようになったと思う。

 さてそうなるとライカMはもういらない?「売っ払おう!」。 いや「待て待て。ライカは売らない。」「何故?」自問自答が始まる。断捨離のできないモノへのコダワリ症の自分だからなのか。「それでもライカMで撮る」ということにはどういう意味があるのだろうと考えてみる。

 ライカMよりはるかに安くて、便利で、しかも高機能なα7IIがあれば、Mはいらない。持ってれば売り払う、というのが合理的考え方だろう。そうする人もいるだろう。しかし、ライカは他のカメラとは異なるカメラなのだ。どこが違う? レンジファインダーカメラは一眼レフカメラと異なり、シャッター押す瞬間まで、フレームの周辺が見える。そこで被写体の動きを予測できる。イマジネーションが沸き立つ。故にライカは作品作りに手放せない道具であると主張する写真家は多い。被写体が人物や、ストリートスナップなどの場合、確かに一眼レフの切り取り画面周辺がブラックアウトしたファインダーよりいいかもしれない。

 だが私にとって、ライカで撮るということには特別の意味があるのだ。確かにレンジファインダーの効用はある表現者にとっては合理的であろう。しかし、厳密のフレーミングが求められる風景写真や動きの激しいスポーツ写真、鉄道写真などには適さないだろう。そういった、技法の合理性や、テクノロジー最適化というロジカルな判断基準では計れない価値があるのだ。ライカは、単なる撮像装置、デジタル写真機ではなく、それを超えた「何か」なのだ。これを「操る」ということが特別な意味を有する「体験」(experience)なのだ。あえて不便さを楽しむ。シンプルだが作りの良い道具を自分流に使いこなす。庭を愛でながら茶室に佇まい、利休好みの黒茶碗で茶を飲む、という体験自体に意味が有るのと同じなのだ。それが「茶道」という「道」であるのと同じく「ライカ道」なのだ。楽しみなのだ。いやアートなのだ。

 ライカユーザの、高い金を払わされてコレか、というちょっとしたガッカリ感から来る負け惜しみじゃないんだ。むしろその不便さを楽しむというのがライカを体験するということなのだ。くどいが、そうなんだ。と、何度も言い聞かせている自分がいる。不思議なカメラだ、ライカってやつは。


 SONYα7IIとNoctilux 50mm f.1の組み合わせ作例をご覧にいれましょうぞ(いずれもJPEG)。

SONYα7II+Noctilux 50mm f.1
クローズドフォーカスリング付きアダプターでなければこれだけ寄れない。
Leica Mボディーでは撮れない画だ。なんと言う皮肉!

SONYα7II+Noctilux 50mm f.1
ライカレンズの見事な立体感が表現できている

SONYα'II+Noctilux 50mm f.1
アウトフォーカスへのなだらかなボケとピント部分のクリアーな写り
SONYα7II+VoigtlaenderVM-E Close Focus Adaptar+Noctilux 50mm f.1
ホールド感、見た目のバランスも良くて最高の組み合わせだ!
これはLeica D-Lux(Type109)で撮影。