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2015年10月6日火曜日

Leica M Type240 2年目の使用レポート

 フルサイズCMOSセンサーのLeica M Type 240。2013年の3月の発売から2年半経った。日本製のカメラならとっくにその後継機種が出ているような時間経過だが、そこはライカ。2年なんて商品ライフサイクルは短か過ぎる。銀塩フィルム時代のM6なんぞは1984年から20年以上も続いた。デジタルカメラでも手になじむ道具になってくれるには、それなりの熟成時間が必要な気がしている。しょっちゅう壊れては買い換える家電製品、消費財ではないのだ。

 しかしデジタルカメラの技術進歩は文字通り日進月歩。なので2年もフラッグシップモデルに新製品が出ないと時代遅れになってしまう恐れはないのか? 他社製品との比較優位が失われてしまうのではないか? 最初のデジタルMであるM8は2006年、次のフルサイズCCDセンサー搭載のM9は2009年のリリース。かなりデジタルカメラとしては未完成で、いろんなバグや課題を抱えていたM8,M9でさえ3〜4年製造し続けていた。ライカは買い替えさせるために次々新製品を出したりしないのだ。開発リソースに限りもあるのだろうが、基本的に商品ライフサイクルは長い。もちろん多少のバグ修正やキャッチアップはファームウエアーアップで対応しているし、Mシリーズ以外のノンフラッグシップであるX、Tシリーズや、パナソニックからのOEMのD-LUXなどで、新しいデジカメ製造技術には追いついていますよ、と言われそうだ。今年出したフルサイズセンサー固定レンズのQなど、なかなか機能てんこ盛りで最先端をいっているデジカメだし、そこで培った技術を徐々にフラッグシップ機で生かしていきますから「心配ご無用!」ご期待ください、って。

 しかし、ライカの真髄はそんなところにあるのではない。便利な機能なぞ無くてもお構い無しの基本性能一本槍の製品哲学がライカなのだ。流行や最先端技術を追わない。わざわざ「最先端は必ず古くなる」と開発者がコメントするくらいだ。だから追いかけず、技術的に枯れて成熟してから取り入れる。それは日本人のセンスから見るとかなり危険な道に見えるが、彼らにとってはそれが確実に市場を押さえる方法なのだ。アンフレンドリーなユーザーインターフェース。市場や顧客に媚びないツッケンドンな面構え。不便なカメラなのにビックリするようなプライスタグ。材料や職人の人件費など製造コストが高いのだからしようがないだろう、とコストパフォーマンスなど考えてみたことないと言わんばかりだ。思わず「経済合理性ってどんなんだっけ?」と考えてしまうほど、我が道を行くライカ流。日本のカメラメーカーが追いかけてきたコスト削減競争、合理性や高付加価値とはかなり異なる。確かに価格競争の行き着く先は、製品のコモディティー化と低利益化。皮肉にもものづくりの自滅への道をまっしぐらに進んで行く。モノ造りの成熟度に応じた事業モデルの転換の方向性を示唆しているのかもしれない。

 最近話題になっているドイツ製造業が提唱するIndustries 4.0も、日本人の経済合理性の視点ではなく、ドイツ人的視点からもう一度よくその意味するところを評価してみる必要があるかもしれない。ライカ自体はドイツの製造業の中でもやや特異な存在かもしれないが、一生モノを作り、長く使って貰う過程で、サービスや経験という付加価値を提供し続ける伝統はドイツ独特のものだ。

 私のM Type240、2年半使ってみてこれまで故障無し(M8、M9の時と大違いだ)。デジタルカメラとしての完成度、信頼感は、以前のM8やM9に比べると格段に進歩したが、それでも使い勝手の悪さはやはり。電源入れてからの起動の遅さ、相変わらずプロセッサーの処理速度、バッファーメモリーサイズの限界からか全てにレスポンスが遅い。ライブビューにするとシャッターテンポが格段に悪くなる。しかし、いつのまにかそのライカに飼いならされている自分に気づく。撮影結果が良ければ全てが許されるってことだ。

 経年劣化を感じるのは、付属していたバッテリーが寿命なのか?このごろ「Check battery age」のメッセージが出るようになったくらい。少々のことでは傷も付かない堅牢なプラックペイント塗装も、最近は角が擦れて中の真鍮色が見え始めるようになった。昔、ライカコレクターの間で、質の悪い黒塗装が剥がれてボロボロになったM2やM3,M4のブラックボディーを愛で、高い中古価格で取引する「黒皮病患者」同盟などという自虐的遊びが流行っていたことがあった。最近でも、わざわざ新品のブラックM-Pと黒鏡胴Summilux 50mmの角をこすって真鍮地を出して「使い込み感」を出し、「なんたらバージョン」と称して通常の倍以上の「限定」価格で売り出したり、ライカ一流の「高付加価値プレミアム戦略」は健在だ。ライカ病患者の心理をついたお得意のライカ商法だ。そんな金かけなくてもしっかり使い込めば剥げてくるんだけどね、普通のライカで。まあ、こんなことで遊ぶのがライカマニアだが、一方でそんな皮相な熱狂ぶりとは別に、その奥には一生もののモノ作りの深い世界があることに気づき始めた気もする。



Leica M Type240 + Summilux 50mm f.1.4 ASPH.
お約束の定番セット。




堅牢でずっしりした質感。軍艦部や底板は真鍮製。
2年半の使用でブラックペイントが少しずつ剥がれて中から真鍮色が覗くようになった。
基本性能がしっかりしていて、余分なギミックは苦手のようだ。

 ライカMの撮影機材としてのプレミア感は基本的には、破綻のないMレンズの性格、性能にディペンドしている。最新のMレンズなぞ、多少個性が無くなったとも言われるが、その高性能で堅牢な作りはプライスタグ相応の価値を感じる。隅々までしっかりと結像し、美しいボケとピントの対比(木村伊兵衛のいう「デッコマ、ヒッコマ」)。高い解像度。それでいてカリカリではない独特の階調の豊かさ。黒いシャドウ部分でも潰れていない画像情報量の多さ。よく補正された収差(ボディー内でプログラム補正するのではなく光学的に)。また長年作り続けられてきたオールドレンズ群は、いまでも色あせることなく現役で使える。また古いレンズの収差やフレアーやコントラストの弱さが、個性的で独特の表現手段になるなど、こうしたレンズ資産がまさにライカエコシステムのクラウンジュエルなのだ。ボディーはフィルムカメラであれデジタルカメラであれ、そうしたレンズ性能と個性を十分に引き出すことだけに集中する設計となっている。余分なことをしないことが高付加価値になっている。

 したがって、RAW/DNGで撮って、イメージ通りにLightroomで仕上げるという作業を経て、さらにプリント作業で完成させる。そのような撮影の後工程のワークフローによる作品作りを可能ならしめるカメラだ。あるいはそうした表現者の心にあるイメージを自分自身で引き出すことを可能ならしめることを旨とする。その際、基本となる撮影画像自体が、そうした後工程の作業に耐えうる品質でなければならない。最高の素材を叩き出すこと。そしてカメラが余計なことをしないこと。それがライカの基本であるようだ。押せば誰でもキレイに撮れる、を求めるなら他へ行くべきだろう。

 最近、写真撮りに行く時は、気がつくといつもライカを持ち出している。ニコンなら一台でズームレンズ付けてなんでもキレイに撮れるのに。その便利さとニコンならではの信頼感はなにものにも代えがたいが、なぜ厄介なライカを持ち出すようになったのだろう。以下にM Type240を入手した時のブログを掲載した。あの時の私と、そんなことに気づき始めた今とでは、ライカと共に生きるということの意味が大きく変わりつつあることを読み取っていただけるだろう。残念ながら腕はあまり上がっていないが... ライカ使いになるためにはそれなりの時間が必要だ。日暮れて道遠し...

2013年3月に発売となった時に書いたブログ。 



作例:

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH.
Summilux 50mm f.1.4 ASPH.

Summilux 50mm f.1.4 ASPH