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2015年11月5日木曜日

新益京(あらましのみやこ)はコスモス真っ盛り


北に耳成山を背景とした新益京の藤原宮大極殿跡
今は見渡す限りのコスモス畑に


 藤原京という名は正式の名称ではない。日本書紀には新益京(あらましのみやこ)と記述されている。同じく日本書紀にその宮殿を藤原宮と記していることから、後世、藤原京と呼びならわされるようになったという。

 690年持統天皇の詔により造営が始まり694年、飛鳥浄御原宮から遷都。我が国最初の条坊制を伴う唐風都城である。平城京や平安京と異なり、宮殿が都城の中心に位置する。また中国のそれと異なり、都城の周りには堀や城壁のような都市防護施設はなく、中心を走る朱雀大路も狭かったと言われる。当初は大和三山の内側にまとまった都城であると考えられていたが、後世の発掘調査で、この三山を都城の中に包摂する広大なもので、のちの造営された平城京や平安京よりも広かったことがわかっている。すなわち古代最大の京であった。

 一説に、我が国初の条坊制を伴う都城建設は太宰府が最初であるとする見解がある。663年の白村江の戦いに敗れた天智天皇が博多湾岸にあった屯倉(粕屋の屯倉)を現在の太宰府の位置に遷し、唐・新羅連合軍の倭国侵攻を想定して強固な防御都市(北に大野城、南に基肄城、博多湾側には水城を築き、その間に官衙を中心に都城)を設けた。しかし、条坊制が取り入れられた時期がいつなのかは明確になっていない。太宰府の起源についてはまだ解明されていない点が多く、太宰府が最初の条坊制都城であるという説は現在では異説となっている(九州王朝の存在の根拠にする説もある)。

 この時代は天武・持統天皇の律令国家体制の整備、天皇中心の中央集権的支配体制の確立を目指し、倭国から日本へ転換時期で、対外的にも倭国が(日本が)東アジアの大国であることを誇示しようとした時期。そのためには大王が即位するたびに飛鳥で転々と宮殿移すのではなく、唐風の壮大な都城を築く必要があった。いわば新生日本国のシンボル的首都建設事業であった。またいわゆる白鳳文化が花開いたのもこの京でのこと。薬師寺や大官大寺の諸仏がその代表である。

 藤原京は持統・文武・元明三代の京であった。しかし元明天皇は藤原京からの遷都の詔を発し、710年に平城京への遷都が実行された。たった16年で廃都となった都城というわけだ。なぜ?大極殿の火災や大官大寺の消失があったとも言われているが、大極殿の方は発掘の結果火災の痕跡は見つかっていない。一説に水利問題があったとか。特に下水処理問題。南の庶民の住居地区から、北の官衙、貴族の住居地区へと下水が流れる地形であった。このため汚物が宮殿地域に流れ込んでいたという。飛鳥川の下流に宮殿と官衙が設けられたという構造的問題だ。今風に考えるとなんともずさんな都市計画であるということになるが、当時は「国家の威厳」を対外的に知らせることの方が喫緊の課題であったのだろう。「国家の威信」とつくと、いつの時代においても何か大事なことが看過されて、のちに壮大な無駄使いのシンボルになる、というのは洋の東西、古今を問わず起こりうる理なのだろうか。

 おかげさまで、今は広大な史跡に、春は菜の花、夏は睡蓮、ホテイアオイ、キバナコスモス、秋はコスモスが美しく咲き誇る非日常な別世界が現出している。当時まさかそんな美しい史跡公園になることを見越した新都造営計画であったわけではあるまいが...

計画はこのようなものであったろう。
しかしたった16年で廃都となった。
人々が定住する間も無く放棄されてしまったわけだ。
藤原宮朱雀門跡


東には香具山


西には畝傍山


非日常的な景観が広がる


現在も発掘作業が続く
(大極殿跡)
(大極殿跡の基壇に立つ石碑)