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2016年5月9日月曜日

結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜(続編)

伊都国平原遺跡
王墓




時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜: 広大な筑紫平野と筑後川、有明海の恵み ここが邪馬台国のホームグラウンド、チクシ倭国連合の中心であった。 プロローグ:  邪馬台国論争、すなわち「邪馬台国はどこにあったのか?」という論争。それは近畿にあったのか、あるいは北部九州にあったのか。他にも様々な場所が候補地...


 前回のブログで、邪馬台国は北部九州にあった。倭国の乱で敗者となり、チクシ連合王国(邪馬台国連合)から離脱した勢力(主に奴国)が東遷し、様々な地域勢力と合従連衡し奈良盆地に打ち立てたのが「ヤマト王権」である、と考察した。したがって北部九州の邪馬台国(卑弥呼・トヨ)と近畿に発生したヤマト王権とは王統・系譜が繋がっていないことになる。そもそも3世紀の日本列島には各地(主として西日本)に出雲や吉備、但馬、越のような地域王権・地域連合があり、チクシ連合(邪馬台国連合)も、ヤマト連合もその一つであった。そのような一種の「群雄割拠状態」から抜け出したヤマト連合が第一ステージの列島規模での「天下統一」を果たした(これが初期ヤマト王権)、と考察した。このように考えると「点と線」がつながる。すなわち中国側の史書に記述された限られた情報、しかもその時々の中華王朝の核心的課題である中原における覇権と政治情勢・地政学的視点。「遠交近攻」という外交戦略にもとずく東夷としての倭国の記述と、日本側の記紀(7世紀後半から8世紀前半に編纂された)の、まさに「大宝維新」の歴史的意義(律令国家整備、天皇制の宣言、公地公民制等、そして「日本」国号宣言)を内外に高らかに指し示す政治的文書としての記述との、齟齬、矛盾、空白を埋めることができる。

しかしこれはまだ仮説に過ぎない。この仮説が証明されるためには、さらに以下のような関連する疑問に答えなければならない。


①「初期ヤマト王権」はどのように畿内に成立したのか?どのように統治の権威・権力を手にし倭国統一(チクシを含む)ができたのか?纒向遺跡は農村集落ではなく「都市」的な性格を持っているという(倭国各地の土器が出土)が、大陸・半島との交流の証拠(親魏倭王印、後漢鏡・魏鏡など)は出てきているか?(3世紀末から「空白の4世紀」の実相)

②そのヤマト王権はなぜ奈良盆地に興ったのか?土着の弥生的なムラ・国の発展型(例えば唐古鍵遺跡?しかし古墳時代には消滅している)なのか?あるいは「無主の地」(あるいはそれに近い)に移り住んだ勢力が「都市」を建設したのか?筑紫、出雲や吉備との関係は?

③後漢の光武帝に金印をもらった「委奴国王」はどこへ行ったのか?(金印を埋めてどこへ行った?なぜ志賀島で見つかったのか)その墓はどこにあるのか?志賀島を本願地とする古代海人族安曇族との関係は?なぜ彼らは全国へ散っていったのか?

④光武帝から50年後に後漢の安帝に遣使した「倭面土国王帥升等」とは誰か?伊都国王?彼はどうなったのか?その墓はどこにあるのか?

⑤「倭国大乱」の原因は?その範囲は?敗者は誰?(奴国、伊都国?)敗者はどうなった?

⑥弥生的な稲作農耕集落(祭祀でまとまる)から戦闘的な武力集団(武力でまとまる)への移行過程の実態は?

⑦卑弥呼の二面性(「祭祀を行う呪術師」という「未開」の側面。「海外情勢に明るく外交手腕に長けた指導者」という「開明的」側面)をどう解釈するか?

⑧倭国における中華帝国への朝貢・冊封体制受容の変遷。ヤマトの外交戦略ともう一つの天帝・日本型華夷思想はどのように始まったのか。

⑨邪馬台国が北部九州にあったとすればその遺構(卑弥呼の居館、墓)はどこにあるのか?筑紫平野にまだ見つかっていない。八女丘陵や女山(ぞやま)山麓の遺構調査、初期古墳の調査はどこまで進んでいるか。

⑩朝鮮半島南部伽耶の鉄資源を巡る倭国内勢力(チクシ、出雲、ヤマトなど)と朝鮮半島内勢力(三国)の攻防、合従連衡の構図と実態は?


後漢書東夷伝・魏志倭人伝における倭に関する記事を時系列で振り返ってみよう:

57年:委奴国王の後漢(光武帝23〜57年)への遣使・朝貢・冊封(「漢委奴国王」の金印授受。のちにその金印が志賀島で発掘され史実であることを証明)

107年:倭面土国王 帥升等の後漢への遣使(安帝106年〜125年。面土国とは?伊都国?冊封されたか不明)

146〜189年?:倭国大乱:戦乱・王不在が7〜80年続いたとされる(後漢の混乱期、桓帝・霊帝のころ。委奴国王の遣使から100年余り、倭面土国王の遣使から40年余り後)。王の不在は110年ころからか。107年の倭面土国王の後漢への遣使直後からと考えられる(倭面土国王はどうなった)。

190年?:邪馬台国女王卑弥呼共立・大乱の収束。

238年:卑弥呼の魏への遣使(帯方郡を通じて。「親魏倭王」)

247年:狗奴国との戦争、魏の張政派遣、げき文で告諭。

249年:狗奴国との戦争中に卑弥呼死去。再び戦乱に。宗女壹輿が女王に。戦乱収まる

266年?:壹與が魏・晋へ遣使:

この後150年にわたって中国の史書に倭国に記述がなくなる。413年の晋書の「倭の五王」の記述まで。


中国漢王朝の興亡を振り返ってみよう:

前漢:紀元前206〜紀元8年

王莽の新:15年間

後漢(光武帝による再興):23年〜220年
しかし、光武帝没後は国情安定せず。
安帝(106〜125年)

黄巾の乱:184年

その後、魏・呉・蜀の三国時代へ(後漢は名目上は220年まで続く)

魏から晋へ。


当時の東アジア情勢の変化、すなわち中華秩序と倭国の変遷:

光武帝の時代はこぞって周辺国が後漢に朝貢(匈奴、大月氏国、高句麗、倭国など)、しかし、光武帝が没すると冊封体制に組み込まれていた高句麗は離反。漢の半島植民地、帯方郡、楽浪郡も公孫氏一族の支配に。北方の匈奴や西域の大月氏国などの離反。その時倭国は?光武帝に冊封された奴国王はどうなった?倭面土国王帥升等は後漢の安帝に冊封されたのか?倭国内で統治権威を維持できたのか?おそらく混乱が起きたのだろう。

史書によると、倭国における指導権は、委奴国王→倭面土国王帥升等→倭国大乱・王無し→卑弥呼へと移っていったことになる。これは後漢王朝の衰亡の動きに連動している。

強大な漢帝国の滅亡、混乱により、華夷思想に基ずく朝貢・冊封体制が不安定になった可能性がある。それが周辺国や倭国の統治権威、秩序に大きな影響を与えただろう。その後の倭国の権力闘争、支配構造に大きな変化を与えた。

特に朝貢・冊封により倭国の支配権威を担保してきたチクシ倭国連合(初期の奴国王、中期の倭面土国王、後期の卑弥呼・邪馬台国連合)には大きなインパクト(倭国統治の権威喪失)。

「空白の4世紀」には、チクシ倭国からヤマト倭国への勢力バランスの転換が起こった時期であろう。中華王朝への朝貢・冊封による統治権威、「祭祀」「呪術」でまとまっていた弥生農耕集落的、邪馬台国的秩序が影を潜め、倭国の武断的性格が表れはじめている。4世紀後期には朝鮮三国の騒乱に伴い百済に要請されて朝鮮への出兵まで行った(好太王碑文)。前回も述べたように、当時の列島は地域王権や地域国連合があちこちに存在していて、一種の「群雄割拠」状態にあっただろう。邪馬台国連合(チクシ倭国)もヤマト連合もそれらの地域王権の一つだった。それが中国王朝(朝貢冊封体制)の不安定化、朝鮮半島情勢緊張による軍事進出、倭国内の経済力の分散化(地域王権の伸張)などにより、列島の中心が徐々に北部九州から近畿奈良盆地へと移っていったのであろう。

チクシ倭国とヤマト連倭国には次のような性格の変移が見られる。

邪馬台国連合(チクシ倭国連合):
弥生的な農耕村落(高地性集落・環濠集落)を中心とした国。祭祀を執り行う巫女(呪術師)が首長たちに共立され統治権威。統治は男王が行うとい媛彦制・祭政二元政治。政治的には中華王朝への朝貢/冊封体制に入ることで統治権威の源泉とする。大陸に近い地理的優位性を持った地域。

初期ヤマト王権(ヤマト倭国連合):
農耕集落(環濠集落)から離れた人工的な「王都」を有する国。武力を保有する男王が統治権威であり統治権力も保有。首長(王)のなかから王のなかの王、すなわち大王(おおきみ)が生まれていった。中華王朝への朝貢/冊封体制が徐々に崩壊。倭国内の地域王権のなかで優越的地位を確立していった?列島内の経済・流通の拠点たる地理的優勢を持った地域。農耕だけではなく武力としての鉄製武器の重要性が増し、鉄資源の確保が喫緊の課題に。

ほぼ国内をまとめた(?)初期ヤマト王権は(おそらく鉄資源を有する伽耶地域の支配を巡って)朝鮮半島への進出を始め(高句麗の好太王碑文391年以降のストーリーを記す)、5世紀初頭413年になって中華皇帝への遣使を再開した(倭国内の統治の権威を保証してもらうというよりは、朝鮮半島における支配権・権益を認めさせるために)(倭の五王の朝貢:晋書/宋書)。列島内の統一(まだ完成はしてなかったにしろ)とは別に、朝鮮半島における権益(特に鉄資源)確保が倭国の「核心的利益」になっていたようだ。例えば高句麗王よりも高い軍号・爵号を求めた(「安東将軍」ではなく「安東将軍」)。しかし、要求が十分に認められなかったことから、再び遣使を止める。

このころ朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が中華王朝の混乱、隋の統一、唐の成立などの情勢変化により相互に合従連衡の駆け引きを繰り返していた。鉄産地である伽耶・任那をめぐる攻防。新羅による伽耶・任那併合。高句麗の新羅圧迫。一方、朝鮮半島三国はそれぞれに倭国との連携を模索。新羅と対立していた百済は倭国との同盟関係を。新羅も高句麗との争いが始まると倭国との連携を模索。

5世紀の倭国は獲加多支鹵大王(雄略大王・倭王武)の地方支配を示す考古学的資料が発見された、埼玉稲荷山古墳出土の金石文鉄剣。熊本江田船山古墳出土の鉄剣金石文などの記述から、ヤマト王権の地方支配を示す(地域の王がヤマト王権よりいわば冊封され(?)官位を受ける)。倭の五王(武)に関する記述(ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず)の裏付け。倭国内におけるヤマト王権の支配的優位性、地域王権、地域首長との日本型「冊封体制」の始まり?「治天下大王」という言葉を使い始めた。すなわち「天下統一」を果たした大王(おおきみ)であり、「天下」すなわち宇宙に、中国皇帝の他にもう一人の天帝が存在していることを主張し始める。やがてヤマト型の前方後円墳の全国への広がりが、ヤマト王権の全国支配をシンボライズする。

このように華夷思想、朝貢・冊封体制により成り立っていた東アジア的世界秩序に対し、ヤマト王権の倭国支配体制の進展に伴い、中華王朝、朝鮮半島諸国との関係は倭国独自のものに変化して行くことになる。すなわち、中華帝国への朝貢冊封体制とういう世界秩序が重視される時代にあって(地理的にも)優位に立っていた北部九州のチクシ倭国から、倭国列島内の地理的中心としての位置を占めるヤマト倭国が(中華王朝の権威から距離を置いた)「天下統一」の主導勢力となっていった。そうした政治的権威権力の源泉としての経済下部構造は、列島における稲作生産手段の専有(土地、人民、鉄資源。やがては公地公民制へ)と生産力の増大、それによる生産物の流通の支配であった。特に生産力増強に必要な鉄資源(これはのちに武力の資源としても重要に)の確保に当たってもなんらかの形でチクシを凌駕することになった



ところで話題を中国との交流の話にシフトしてみよう。

600年遣隋使派遣。しかし国家体制も整備できていない蛮夷の輩「倭」とみなされ失敗。「八くさの姓」や「十七条憲法」などの官僚制、法治国家体制整備を行い(聖徳太子によってなされたと日本書紀では記述)、再度遣隋使小野妹子派遣。「日の出ずる国の天子...」という国書。煬帝は「無礼」と怒るが隋の使者裴世清が倭国に。以降、隋滅亡(619年?)後、遣唐使へ(倭国側では朝貢使節というよりは留学生や学問僧等による文化使節と考えた。唐側では朝貢使として遇したが、管爵は授けなかった?)。

700年頃には天武・持統帝による「大宝維新」。ついに天皇制宣言(中華皇帝に対抗するもう一人の天帝を宣言)。律令国家体制整備、皇祖神を頂点とする(各地豪族の)神々の体系化、公地公民制による豪族支配基盤の破壊、朝廷官僚化へ(明治維新時の版籍奉還、大名の華族化はこのコピー)。日本建国宣言(再び遣唐使中止)。その記録としての日本書紀、古事記編纂。
奈良時代8世紀に遣唐使再開も、平安時代9世紀には唐の衰亡を見て、菅原道真の建議により遣唐使廃止。

倭国、日本の外交は、統治権威の担保(文化的、技術的、戦力的優位性の担保)を目的とした中国皇帝への朝貢。冊封を巡って揺れ動いた歴史。また鉄資源の確保のために常に朝鮮半島における支配権・権益を巡り朝鮮三国との争い・同盟。その上位者である中国王朝へのアプローチ。そして徐々にその中国皇帝への朝貢・冊封体制から離脱していった歴史。そして「治天下大王」「天皇」というもう一つの中華世界を打ち出す。先端文化や最新の技術・知見の吸収には努めたが、統治権威の承認は求めなくなっていった。







別掲:

明治維新(王政復古)と辛亥革命(共和制移行。清朝の最期):
日本は明治維新で、欧米流の近代化の一方、「王政復古」(restoration)すなわち古代の天皇中心の国家体制(国体)を復活させた。
一方で、華夷思想による朝貢・冊封体制を3000年にわたって維持してきた中国は、辛亥革命により「天帝による支配」が終わりを告げ共和制に移行した。清朝愛新覚羅溥儀が最後の皇帝(The Last Empelor)となった。

皮肉にも明治期に小宇宙大日本帝國「天皇制復活」vs.大宇宙中華帝國「皇帝制廃止(共和制移行)」、という形で逆転することとなる