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2016年9月19日月曜日

京都東山の小路を徘徊す 〜1000年の都はおもしろい〜

石塀小路

 京都の街には小路や路地がたくさんある。だから京都の街は面白い。京都の街歩きは楽しい。大きな通りを外れて迷い込んで見る。そこは現在を生きる生活の道。そこはいにしえのみやこへの入口。そしてそこは異界への入り口。その先に何があるのかワクワク、ドキドキしながら迷い込んで見る。


三条通北裏白川筋東入堀池町

並河靖之七宝記念館と小川邸
二人の巨匠の相見えるところ
お地蔵様と明治牛乳とポスト

京都名物「逆さ箒」
瓢亭
無鄰菴板塀
焼杉板塀
蹴上浄水
いにしえへの時空トンネル
南禅寺山門
悟り世界と煩悩世界の結界
南禅寺の空
白川筋
白川
まるで異界に通じる...
知恩院山門
白川筋を抜けると壮大な伽藍が
いもぼう平野屋
ねねのみち
高台寺通り
ライカショップ京都
祇園花見小路
京町屋の二階はライカショップギャラリー
お茶屋「松八重」
祇園花見小路
菊梅
祇園花見小路
一力
祇園花見小路
祇園白川
祇園新橋
御池の空
矢田地蔵尊
寺町通
新京極
ここにも地蔵堂が
新京極通
すき焼きキムラ
柳小路
先斗町
鴨川河畔の夕涼み
四条大橋
そしてまた先斗町

 撮影機材:Leica SL + Vario-Elmarit-SL 24-90 ASPH Lightroomで現像。


2016年9月11日日曜日

本薬師寺のホテイアオイ 〜藤原京の夢の跡〜



 今年の夏も暑い!そして今年も本薬師寺跡にホテイアオイがいっぱい咲いた!

 本薬師寺跡のある橿原市城殿町は、かつての藤原京(新益京:あらましのみやこ)の西、西二坊大路、西三坊大路と七条大路、八条大路に囲まれた一角である。藤原京は690年に持統天皇により造営が開始され、694年に飛鳥浄御原宮から遷都。わが国初の唐風の条坊制を備えた都城であった。しかしわずか16年でさらに平城京へ遷都された。薬師寺は680年、天武天皇が皇后である讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺院。金堂、講堂、を回廊で結び東西二塔を配した壮麗な伽藍がここには建ち並んでいた。その薬師寺は平城遷都に伴い現在の奈良市西の京町へ移転した。ただ藤原京の薬師寺はその後も平安時代中期、10世紀頃まで現在地に存続し本薬師寺と称されたが、やがて廃寺となった。

 ちなみに、平城京の薬師寺(現存する)は藤原京の薬師寺の大部分を移築したものなのか新造されたものなのかが、長年論争になっていたが、最近の研究では、移築ではなく新たに造営したものと考えられている。こうして本薬師寺は旧都の地に残ったのだが、今では木立に囲まれた土壇に金堂の礎石や東西二塔の心礎を残し、往時の面影をかすかに留めるのみとなった。しかし最近は遺構周辺の休耕地にホテイアオイやコスモス、ハスを植え、夏の間はホテイアオイの名所となっている。地元の小学校の生徒が毎年植えて手入れしているという。ホテイアオイはそもそも外来種で在来種を駆逐する生命力を持っているので(Blue Devilと呼ばれている)、国によっては持ち込みが規制されているそうだが、ここでは他の生態系に影響を与えないように管理され、このような壮大な景観を作り出している。

 倭国から日本へ移り変わる激動の時代。壮大な首都建設計画も廃都という皮肉な結末を迎えた。そういう滅びの歴史を背負い、古色漂う古代寺院の跡と、一面の外来種のホテイアオイの青という組みわせは一見似つかわしくないようにも思えるが、今では盛夏の青空と涼やかなホテイアオイの群生は、飛鳥の夏を代表する景観として定着している。

 「夏草やツワモノどもが夢の跡」じゃなくて「青花やツワモノどもが夢の跡」だ。


東塔跡

正面は金堂跡
左の土塁は西塔跡

金堂跡から東塔跡を望む

左が金堂跡
右は東塔跡

金堂跡
東からの景観

西に畝傍山を望む
すぐ近くまで住宅開発が迫る

元薬師寺の伽藍配置
(橿原市HPより)




2016年9月10日土曜日

飛鳥稲淵は豊穣の時を迎えた 〜棚田散策〜

稲淵の棚田風景
飛鳥から吉野へ向ける道すがら

 石舞台古墳のあるあたりは嶋庄と呼ばれ、蘇我氏の奥津城であった地域。蘇我氏は嶋の大臣(しまのおおおみ)と呼ばれていた。そもそも飛鳥は蘇我氏が勢力を有する地域。その地が舞台であった飛鳥時代は蘇我氏の時代だったとも言える。初期ヤマト王権が3世紀中盤以降奈良盆地に起こったのだが、その場所は盆地の東、三輪山山麓(ヤマト:山の麓)であった。居館跡や運河などの跡が見つかった巻纒遺跡や、最古の前方後円墳である箸墓をはじめとする大型前方後円墳文化を作った「三輪王朝」はここからスタートした。

 6世紀にはヤマトの大王の宮都は三輪山麓を離れ、盆地の南の飛鳥の地を転々とすることになる。飛鳥の地は奈良盆地の中では大和川から難波、瀬戸内海、筑紫を通じて大陸とつながる地の利を有する土地であった。もともとは東漢氏などの渡来人一族が住んでいたところであったが、蘇我氏はこの飛鳥の地を重視し、渡来系一族との交流を通じて外来文化、ことに仏教を積極的に取り入れた。他の有力氏族、大伴氏や物部氏を凌駕して大王家の外戚となり政権運営に影響力を有することとなる。今日、明日香村は稲穂がたわわに実りまさに豊穣の時を迎えている。嶋庄、祝戸からさらに吉野に通じる峠に向かって進むあたりが稲淵。ここは棚田が有名だ。もう一つは、石舞台から多武峰に向かう冬野川沿いの登り坂あたりにも棚田が広がっている。まさに「豊葦原瑞穂の国」の姿を彷彿とさせる景観だ。

 しかし、いつの頃から飛鳥にこのような棚田の風景が形成されたのだろう。こうした景観はおそらく弥生の姿ではなかっただろう。初期ヤマト王権も後の飛鳥王朝も稲作農耕に経済基盤を置く王権であった。しかし3世紀以前の北部九州のチクシ王権と異なり、弥生的な農村集落たる環濠集落や高地性集落を政治拠点とする王権ではなかった。耕作地/農村集落と王都(宮)は截然と分かれていた。奈良盆地における初期の環濠集落である唐古鍵遺跡も「王都」としての性格はなく純然たる農耕集落(ムラ)であった。初期ヤマト王権の「王都」たる纒向遺跡は完全位離れた場所に形成されている。6世紀の飛鳥も「王都」の地であった。飛鳥は転々と移り変わる宮殿や外来宗教である仏教寺院などの異国風建築物がひしめく「近代的な」人工的都市であった。その周辺部には大王家や有力氏族の古墳が散在していた。これまでの弥生倭国的な地域とは異なっていた。今感じる「国のまほろば」「豊葦原瑞穂の国」といった田園景観は、むしろ奈良盆地の中央部から北に広がっていたのだろう。すなわち古代奈良湖が干上がった跡に稲作耕作地が拡げられた。舒明天皇が天香山に登り、そこから北に広がる豊かに実る奈良盆地を展望して「うまし国ぞ秋津洲大和国は」と読んだ風景だ。

 稲淵、栢野森は飛鳥の中でも南の果てである。吉野へと抜ける峠道(芋峠)へと続く山がちな地域、すなわち飛鳥世界の絶界である。大海人皇子が吉野へ逃れ、壬申の乱で飛鳥に凱旋して天武天皇として即位。その皇后、のちの持統天皇が度々吉野行幸を行った道だ。また都に疱瘡が伝染せぬように峠に疱瘡除けの猿石を置いたりもした。今の稲淵や飛鳥のこの田園風景は、必ずしも飛鳥時代を代表する風景ではなかったにちがいない。当時は水利に恵まれた平地以外は稲作には向かない土地柄だったであろう。棚田という耕作形態はずっと後世になってからのものだろう。

 ここ稲淵にも一時期宮都が営まれた。飛鳥稲淵宮だ。発掘調査の結果、祝戸地区にその遺構らしき物が見つかった。どの時代の宮都なのか?確定できていないが、645年の乙巳の変後、皇極上皇、中大兄皇子は一時都を難波に移したが、やがて孝徳天皇を難波宮に置き去りにして再び飛鳥に戻った。その時に造営された行宮(仮宮)ではないかと言われている。だとするとなぜこのような辺鄙なところに行宮を置いたのだろう。

 また最近話題になった都塚古墳。今年の発掘で石積みの階段状ミラミッド構造の方墳であることがわかった。誰の墓であるか決定的な証拠は出ていないが、かなり手の込んだ方墳であることや、蘇我氏の奥津城で蘇我馬子の石舞台古墳に近いことから、蘇我稲目の墓ではないかと言われている。

 飛鳥から吉野へ向かうここ稲淵から栢野森辺りはなかなか謎の多い場所だ。今は長閑で豊かな棚田風景が広がる田園地帯だが、おそらく飛鳥人はこうした風景をここに見ることはなかっただろう。稲作農耕を行う土地というより、聖なる地、異界へつながる土地という理解であっただろう。今でもこの地区では毎年1月には綱掛け神事(男綱)が執り行われ、「子孫繁栄」「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈念する習わしだ。この時飛鳥川をまたいで結界が張られていることを見ても、ここは彼の地、此の地を隔てる場所だった。飛鳥なる世界の鄙の地は奥が深い。

稲淵の棚田

嶋庄あたり

都塚古墳
最近の調査で階段ピラミッド状の方墳であることがわかった
蘇我稲目の墓ではないかと言われている

石棺がそのまま残る珍しい古墳

石舞台付近の棚田

石舞台地区の背後には多武峰が
中大兄皇子と中臣鎌足がクーデタの謀議を行った談合(語らい)山からは飛鳥の全体が見渡せる

毎年1月に行われる綱掛け神事
(男綱を掛けて、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、
無病息災を祈る)
対をなす女綱は下流に掛けられる。
聖なる世界、異界との結界だ。
(写真はmahonoHPより)
飛鳥稲淵宮跡
(明日香村世界遺産HPより)





2016年9月6日火曜日

東山石塀小路散策 〜もう一つの伝統的建造物群保存地区〜

石塀小路
高台寺通り側の入り口


 八坂神社(祇園社)、円山公園から南、高台寺界隈は、いわゆる「ねねの道」として観光客に人気の地区になっている。高台寺通りと下河原町通りの間には狭い路地がいくつか通っている。どれも狭くて鍵の手になっているので行き止まりのように見えるが、実は通り抜けができる。そうした閑静な一角、ここが「石塀小路」である。

 この辺りは、豊臣秀吉の北政所、ねね縁の地である。太閤の没後、剃髪して高台院と名乗ってから暮らしたと言われる現在の園徳院、高台寺を中心とした一帯は「祇園廻り」と呼ばれていた。江戸時代には、この辺りに芸妓街、お茶屋街ができた。明治初期までは遊郭もあったが廃絶になり、その後はお茶屋の貸家街になった。石塀小路と呼ばれるようになったのは意外に新しく、明治後期から大正初期に入ってからだと言われている。当時は妾宅が多かったらしく「お妾さん街」などとも呼ばれたそうだ。閑静で落ち着いた街並みで、街の格を上げるために高い石塀を築き、石畳を敷き詰めた。最近の石畳は京都市電廃止の時に出た路面の切り石を敷き詰めたものだ。今はこじんまりした趣のある旅館や料亭、貸席などが連なっている。

 最近は観光客にこの隠れ家的スポットの存在が気付かれて、ワイワイと押し寄せてくるようになったらしい。小路のいたるところに「静」という札が掲げられている。その札も板に墨で流れるように書かれていて町の雰囲気を壊さない配慮がある。しかし、貸衣装の浴衣姿に慣れない下駄履きでやってくる女性の集団は、自撮り棒片手に、中国語で声高にキャーピーキャーピーワメキあっている。それを欧米系の観光客が「 Look at  them! Chinese Geisha Girls!」と笑いながら写真を撮る。確かにあまりここの静謐な雰囲気を壊してほしくないものだ。地元の人にとっては迷惑なことだろうが、Visit Japan!, OMOTENSHI!と言ってる以上我慢するしかないのだろう。まったく観光客というものは...... 通りすがりの時空旅写真家である私も、この路地の閑静な雰囲気のカットをモノするのに苦労した。なかなか人がいなくなる瞬間が来ない。待ち続ける忍耐力が求められる。

 産寧坂地区一帯は重要伝統的建造物群指定地区に指定されているが、1996年にこの石塀小路地区が追加された。

高台寺通り
最近は「ねねの道」というらしい

石塀小路


京都市電廃止のときに出た敷石を利用した石畳道
京都の路地には珍しく石塀を高く築いている

お宿「玉半」

観光客が少ないように見えるが、人通りがなくなるのを待って撮影

円徳院

円徳院庭園

円徳院から石塀小路へ抜ける小径

ここは赤レンガ塀にガス灯


石塀小路
下河原町通り側出口の一つ

多少の高低差があるところが奥ゆかしい


(撮影機材:Leica SL+Vario-Elmarit-SL 24-90mm f.2.8-4 ASPH)