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2017年6月4日日曜日

東山魁夷の京都 その今は...

東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
山種美術館蔵

2016年(平成26年)2月同じアングルで撮影
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から


 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作がこの1982年に描いた「緑響く」。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

東山魁夷「緑響く」
1982年
長野県信濃美術館蔵


 一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになるわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか、と。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。

 私も京都での定宿にしているホテルオークラ京都、かつての京都ホテル。その東山側の部屋からは賀茂川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た途端、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかな。

 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋のとうとうたる甍の波は消え去っていた。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。

 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日の本のミヤコ、ミカドの住まう帝都として繁栄を維持してきた。そしてその伝統的な街並み、景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても「応仁の乱」ではないぞよ)で戦火に巻き込まれることもなく、生き残ったこの町が、平和と繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊されるとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、カネで地上げするのも人間の業なのだ。物欲煩悩止まるところを知らず、か。



与謝蕪村「夜色楼台図」
1778年(安永7年)〜1783年(天明3年)頃の作品
京都賀茂川の西岸三本木町の茶屋から眺めた雪の夜景だとか。
しかし実際の風景を写実的に描いたのではなく、蕪村の心象風景を描いたのだろう。


2016年2月
夜景
一本の光の道は南禅寺参道

2016年2月
翌朝
東山三条は曇っている