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2017年7月30日日曜日

クラシックカメラ遍歴(1)Nikonのレンジファインダーカメラたち 〜Nikon創業100周年記念〜


私のNikonカメラコレクションの中でもまず見ていただきたいのは、この美しい工芸品のようなカメラ達。Nikon、いやNIPPON KOGAKUの初期の距離計連動ファインダーカメラ達だ。まさにState of the Art Technologyだ。真鍮素材にクロームメッキのボディー。レンズ鏡胴も同じ素材でできている。精密なローレット加工のレンズのピントリングとシャッターダイアルやノブ。大口径の高性能な光学ガラス。メカニカルな光学製品の極致だ。もうこのような製品は世の中に出て来ないだろう。実は、この美人達はどれもかつて銀座の三共カメラやスキヤカメラに、ほぼジャンク品として並んでいた中古カメラだ。メカニカルカメラの良いところは「修理し整備すれば復活できる」ということだ。サビを取り、部品を取り替え、シャッター幕を張り替え、駆動部分は分解、清掃、注油。ファインダーガラスを分解してクリーニングする。さすがにレンズクリーニングはプロに任せたが、たいていは自分で出来る。分解工具もほぼ手製。こうして復活した歴史的名器をご披露できるのは中古カメラファンの無常の喜びだ。



Nikon S in 1950


ニコンは戦後、大井工場での製造の主力を軍需品から民生品へと転換し、1947年には早くもカメラ製造に着手した。カメラ先進国のドイツのコンタックス、ライカというはるか手の届かない先行モデルを参考に、距離計連動ファインダー(Range Finder)式カメラ、Nikon I, Mを開発。1950年には改良版のSを市場に投入した。見ての通りコンタックスの外観にライカのメカニズムを詰め込んだ、と揶揄されるハイブリッドコピーであった。ボディー本体は鋳物で重い。フォーマットはライカ判よりもひとまわり小さいニッポン判。手に取るとずっしりとした手応えに、上質なクロームメッキ。メカニズムは精密でスムース。よくこんな小さなファインダーでピント合わせができたものだと感心するような距離計ファインダーだが、技術者の心意気を感じる。




Nikon S2 in 1953


1953年になると、Sの改良版であるS2を開発、翌年リリースする。フィルムフォーマットも「本来の」ライカ判となり、外見はますますコンタックス然としたものとなるが、軽合金ダイキャストボディーで軽量化された。またS型の小さくて見にくいファインダーは、等倍のクリアーなブライトフレーム入りとなった。フィルム巻き上げはレバー式となり、速写性に優れる実用性の高いカメラとなる。標準レンズはゾナー式で解像度の高い優れたレンズ。本家のコンタックス、ゾナーに引けを取らないカメラに仕上がった。しかし、1954年に誕生したS2はたちまち過酷な運命に見舞われることになる。



Nikon SP in 1957

S2が生まれた1954年、カメラ業界に衝撃が走った。そう、Ernst Leitz社が満を持してRange Finder式カメラLeica M3を発表。等倍ファインダーにレンズ交換に応じてブラートフレームが変わる究極の距離計連動カメラの登場だ。これに対抗できるカメラは出てこないだろうとまで言われた究極のカメラであった。しかし日本のカメラメーカーは果敢に挑戦し、M3に追いつけ追い越せとばかり、レンジファインダー式カメラの開発にしのぎを削った。NIPPON KOGAKUがLeica M3に対抗して出した答えが、この1957年に発表したNikon SPだ。28mmから135mmまでの画角に対応できる複雑な構造のレンジファインダーを搭載したカメラだ。その工夫されたメカニズムは驚愕だ。しかし、技術的に驚愕であってもプロやハイアマチュアに支持されるかは別問題。商業的には成功を収めることはできなかった。これ以降、NikonはRange Finderカメラ開発を諦め、ペンタプリズムとミラーを搭載する一眼レフカメラへと転換した話は有名だ。しかも、その転換が成功し、プロフォトグラファー御用達の一眼レフ、Nikon Fという時代の画期を生み出すこととなる。NikonがモデルにしたCarl ZeissやErnst Leitzは、その後トップランナーの地位を追われ、Nikonの後塵を拝することとなる。ちなみに、SPの廉価版として同年にS3が発表された。公式にはS2の後継機という位置付けであったが、上記のような強敵の登場によりS3はわずかな台数が製造されただけで終わっている。




Nikon F in 1961

1961年のNikon F。レンジファインダーカメラ路線を放棄し、ペンタプリズムとミラーを搭載した一眼レフカメラへと転換した第1号。ロゴマークが「NIPPON KOGAKU TOKYO」と刻印された最初期バージョンだ。これがこの後プロフォトグラファー用の定番カメラとなって、デジタル化される直前のF6まで製造される。そしてNikkorレンズは、世界的な写真家集団であるマグナム(Magnum)所属の多くの報道カメラマン達の絶大な支持を受け、特にLife誌のカメラマンであったDavid D. Duncanが朝鮮戦争やベトナム戦争での報道写真に活用したことで一気にステータスを確立した。Nikonのブランドが戦後のカメラ・レンズのdependable and durableの代名詞となる。ちなみに発売当初は、この三角形のペンタ部が、あるものを連想させて「縁起が悪い」と一部の人から批判されたという。もちろん日本だけでの話だが、そんなエピソードまで生み出した。。今はすっかり一眼レフの原器として定着した。


The first pentaprismSLR Nikon F
made by Nippon Kogaku Tokyo

ニコン大井工場101号館
戦前は海軍の光学兵器開発製造の拠点で、戦艦大和の測距儀はここで生まれた。
戦後、日本光学工業として民生品製造に転換する。1947年のニコンカメラ(ニコンI型)試作に始まる35mm判レンジファインダーカメラの時代を経て、一眼レフカメラ製造に着手し、1961年のニコンFを皮切りに、ニコンF3(1980年〜2000年まで生産)の途中までは、実際にこの101号館の中に生産ラインが存在していた。
昨年から取り壊しが始まり今は跡形もない。


 Nikonは今年創業100周年を迎えた。栄光の歴史に一つの区切りをつけるわけだが、その100年目はNikonにとってなかなか厳しい年となった。歴史は繰り返す。「驕れるものは久しからず。盛者必衰の理あり」。Nikonは今、経営の危機に直面している。大型のリストラを断行し、参入市場の選択と集中を始めている。デジタルカメラの時代に入り、技術も市場も大きく変化してゆく。デジタル化は製品のコモディティー化を加速させ、普及機はどんどんスマホに代替されてゆく。ハイエンド機は固定需要があるが、ミラーレス機やより高速で高画質で動画機との区分がないなものへと進化してゆく。プロフォトグラファーに絶大の信頼を得ているカメラの行く末が心配だ。Nikonというブランドは不滅だろう。かつてのLeicaがそうであるように。しかし、カメラがメカニカルな精密機械、いや工芸品的な技術で成り立っていた時代が終わり、ソフトウェアーで動く電子機器になってしまった時代、伝統のブランドを背負う老舗が生き延びるには大きなビジネスモデルイノベーションと、モノ造りからのパラダイムシフトを迫られるだろう。




2017年7月12日水曜日

Leica M10 ファームウェアー問題

 

Leica M10


 最新のライカM10をゲットしてから4ヶ月余り経った。その完成度に満足し、出番が大いに増して手放せない愛機になってきた。ところがその蜜月ムードに水を差すような出来事がまたぞろ発生しはじめた。ライカ社から見れば大した問題ではないのかもしれないのだが、バグが出はじめたようだ。

 ライカのこれまでのデジタルMはとにかく想定外のメジャー・マイナーを問わずバグが多かった。特にM8、M9は酷かったが、Type240では一連の改善でようやくバグがとれ安定した。バグに悩まされ続けたそのトラウマのせいか、M10になって、最初期バージョンでは珍しく何の問題もなかったのでホッとして嬉しかった。ところが悪夢の再来だ。SDカードのコンパチビリティーを改善するとした、ver.1.7.4.0が6月にリリースされた。SDカードの相性問題がまだあるのか?と訝しがったが、問題はそんなところとは関係ないところで発生した。この1.7.4.0をインストールしたとたん、不思議な症状が現れはじめたのだ。露出補正表示が、±0以外では設定値に関わらず、再生にすると常に−3を示すようになった。またISO感度をオートにセットして、絞り1.4開放、シャッター速度オートでシャッターを切ると、通常はISO100を選択する場面でいきなりISO1600になり、露出オーバーで画面が白飛びしてしまうカットが出現した。気になったのでFaceBook上のM10ユーザフォーラムをチェックしてみると、ISO感度オート設定での感度固定化の現象が報告されていていて、複数のユーザが同様のクレームをアップしている。問題はないとするユーザもいる。私の個体も特にその固定化には遭遇してない。また露出補正値が常に−3表示になる不具合も投稿されている。ISO設定の不安定さと関連があるのだろうか?ともあれver.1.7.4.0以降、不具合が出始めている模様だ。

 その後、ver.1.7.4.0のバグを修正するとしてver.1.9.4.0が7月10日急遽リリースされた。しかし、これは高速シャッターでの画面のブラックアウトを修正するためのもの、とかで上記の問題は全く改善されていない。ちなみに私の個体でプラックアウトは経験していない。が、そんな不具合もあったのか...と逆に不安が増す。

 ライカショップ銀座に持ち込む。サービス担当はこの露出補正の不具合については認識していなかったという。点検の結果、同社のテスト機の背面のLEDディスプレー上の露出補正表示にも同様の問題が再現されたとのこと。EXIFデータには適正な補正値が反映されているというから背面ディスプレー表示上の問題のようだ。またISO感度移動(固定?)による白飛び現象は、テスト機では再現されなかったという。

 結局ライカショップ銀座店のサービス担当は、この現象はやはり個体の問題ではなく、ファームウェアーの問題のようなのでドイツ本社に報告して修正するよう依頼するという。しかし修正には時間がかかり、おそらく次・次期のファームウェアーバージョンアップに間に合うかどうかだと。やれやれ、そのスピード感にもびっくりさせられる。とにかくファームウェアーアップデートの際にコーディング誤りかなにかでバグを発生させてしまったようだ。不具合を改善しようとして他に不具合を発生させてしまうという、何れにしてもお粗末の極みだ。ライカ社はやはりソフトウェアーで動くカメラはまだまだ苦手のようだ。

 当面、日々の撮影自体に大きな支障はなさそうだが、なんか信頼感がない。つねに何かしらの爆弾を抱えているような気分だ。また何が起きるかわからないという疑心暗鬼に陥ってしまう。毎度のことながら、高いカメラなのに...という愚痴もつい出てしまう。「ライカユーザは細かいこというな、嫌なら手を出すな」なんていうライカ一神教の傲慢は許されない。まさかこれも「ライカの味」なんていうんじゃないだろうな。

 ちなみに、同時に持ち込んだM9のCCDセンサーチェックでも保護膜剥離が発見され、対策済みセンサーに無料交換することになった。この以前から問題となっているM9固有のセンサー不良。そもそも車ならエンジン取っ替えリコールに匹敵するほどの欠陥なのだが。悠長なものだ。しかもこちらは換装のためにドイツ送りで、11月くらいに戻ってくる予定だとか(!!!)其の間の代替機も用意されていない。OMG !

 私の知己でプロのライカ使いは「デジタルのライカは使わない」と言い切っている。別にトラブルが多いからという理由を言ってはいないが、フィルムライカはシンプルで信頼感があると惚れきっている。こうなるとなんとなく説得力を持っているように感じ始める。私も素人ながら長年のライカユーザで、デジタルへ乗り換えた愛好家として少々のことは慣れているつもりだしライカの悪口は言いたくない。ネット上でライカを誹謗中傷しているコメントを見るとイラッとくる。単純に他社カメラと比較はできないからだ。しかし、こうソフト不具合やセンサートラブルが続くと、やはり疲れる。自分の選択は間違いだったのかと。ライカさん、しっかり頼むよ品質管理。

絞り開放1.4、シャッタ速度オート、ISOオート、室内照明下での撮影。露出補正+0.3
前後のカットではISO200となっているが、ここでは1600にシフトし白トビ(露出オーバーの赤点滅)
露出補正値は何故か−3を表示



2017年7月9日日曜日

箱根の関所 〜関所の歴史は意外に面白い〜


復元された箱根の関所


 なん年ぶりかで箱根を訪れた。週末いつも込み合うイメージの箱根も、梅雨時の平日はがら空き。箱根ターンパイクから元箱根、芦ノ湖畔、箱根関所、恩賜公園へ。さらに伊豆スカイラインを南下して伊豆の隠れ家へというドライブコース。爽快に走り抜ける。これだけ空いているなら車も良いものだ。箱根の関所が復元されていた。なかなか堂々とした佇まいの関所だ。考えてみると関所っていつごろどういう理由で設けられたのだろう。ふと「時空トラベラー」的な興味が沸き起こってきた。簡単に振り返ってみよう。

古代

 関所は、大化の改新の詔により設置されたのが最初だと言われる。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(後に逢坂の関)の三関がそれだ。律令体制による人民支配の手段として「本貫地主義」、すなわち公地公民の制、庚午年籍により戸籍を定め、租庸調などの税収を確保するために公民を特定の土地に固定しようというものだ。このように関所は公民が勝手に他国へ移動しないように監視したのが始まりと言われている。もちろん都の防衛や政治犯の逃亡を防ぐ、流民の都への流入を防ぐことが重要な役割になってゆく。壬申の乱の時には鈴鹿の関守が大海人皇子に味方し、近江への進軍を助けたというエピソードが残っている。また、時代は下るが、東北に落ち延びる義経を助けるため弁慶が関守冨樫正親の前で空白の勧進帳を読み上げ、冨樫もそれに気付きながら通行を許したという、有名な歌舞伎「勧進帳」の安宅の関は平安末期、鎌倉初期ころの関所だ。

中世

 すでに平安時代ころから律令制は崩壊に向かい、公民を土地に固定する本貫地主義や京の治安維持という軍事、警察より、朝廷や荘園領主、武家勢力、有力寺社などの権門、地域の支配者が通行料を取る目的で数多くの関所が設けられた。これが彼らにとっては貴重な権益になったのだが、諸国間の自由な通行、流通の妨げとなったことは言を俟たない。一方で、通行の安全と治安を守るという役割も果たしたという。しかし戦国時代には、こうした通行銭稼ぎの関所が衰退し、さらに織田信長や豊臣秀吉が天下統一を果たすと、諸国の自由通行、交易を盛んにするために関所を徹底して廃止した。既得権益を解体し、新しい自由交易/情報流通体制を企図したわけだ。信長、秀吉は国内外の交易による国富を目指す、当時としては革命的な政治指導者であり経済構造改革者であった。

近世

 江戸幕府が開かれると、軍事、警察目的で、幕府や各藩は再び関所を設置するようになる。秀忠は五街道の整備と合わせ、江戸を守り、徳川幕藩体制を維持するために交通の要衝に関所を復活。元和5年(1619年)に東海道の要衝である箱根の峠に関所を設けた。このほかにも東海道の新居関、中山道の木曽福島関、碓氷関が江戸へ通じる要衝を守る規模も大きく重要な関所とされた。さらに寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化されると、全国の大名の行列を取り仕切る関所の役割がクローズアップされるようになる。さらに「入鉄砲出女」取り締まり、すなわち江戸に入る武器類と、江戸から出る女(大名の婦女子は江戸藩邸に留め置かれる人質であった)を監視することが重要な役割となった。こうした徳川幕府による参勤交代・大名支配の手段の一つとして、江戸期を通じて全国に53箇所あまり関所が設置されたという。こうした通行の監視は武家/大名に止まるわけではなく、一般の庶民の通行にも及んだ。庶民にはとんだトバッチリだったわけだ。

 箱根の関所は峻険な箱根山中に設けられ、山と湖に挟まれた狭隘な地形を通るように設計されている。それまでは御殿場ルートが一般的であったようだが、東海道整備とともにこの警備しやすい箱根ルートに付け替えられた。ゆえに旅人にとってはチェックの厳しい関所のイメージがあるが、のちにお伊勢参りなど、旅が信仰と行楽を兼ね、庶民にも広まると、通行手形があれば意外と自由に通行できたようだ。ただし関所破りは磔の刑。幾多の悲劇が語られている。そして箱根では「入り鉄砲」よりも「出女」の方が厳しくチェックされた。「あらためババア」が女性の髪の毛や身体検査をしたとされ、現在は人形で当時の模様が再現されている。幕府は箱根の芦ノ湖畔に関所を作ろうとした時、地元民の反対に直面した。ようやく、集落から少し離れた場所に東海道の箱根宿を新たに設けた上で関所を設置した経緯がある。現在の元箱根が、文字通りオリジナルの箱根の集落であった。ちなみに芦ノ湖は漁労禁止、進入禁止。高見番所から湖上を監視していた。関守は小田原藩の役割だった。

 明治に入って全ての関所が廃止された。国内は自由に行き来できるようになったわけだが、国と国をまたがる自由往来はまだまだ先のことだ。むしろ近代的な国民国家概念、主権国家概念などにより、国籍や国境が生まれ、通行はむしろ不自由になった感さえある。空港や港、国境の入国審査と税関検査が現在の関所であるわけだが、自由貿易協定やEUのような試みは、やはりこうした関所の長い長い歴史を考えると紆余曲折を経ることになるのだろう。パスポートという通行手形はしばらくは無くならない。





箱根関江戸口御門

関所の防御施設も復元されている
左上の高台には遠見番所が

大番所


遠見番所から関所と芦ノ湖を俯瞰する。

なんだか長崎港の古写真みたいな景観に見えてしまう...
観光用の帆船のせいだ


広重
東海道五十三次
箱根

東海道箱根峠道

(撮影機材:LeicaSL+24-95)