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2009年10月2日金曜日

鞆の浦埋め立て架橋事業差止判決 ー時代は変わるー

10月1日の新聞、NHKニュースをにぎわした話題に、広島県福山市の鞆の浦埋め立て架橋事業の差し止め判決がある。歴史的に価値のある鞆の浦の景観を残す為に、広島地方裁判所が住民の訴えを認めて県の湾の埋め立て事業を差し止めたものだ。景観の保護への配慮、あるいは、もっと進んで「景観利益」を保護することが、今後は公共事業の推進、デベロッパーによるマンションやショッピングセンター開発などの事業にも考慮されなければならなくなる時代が到来した。歴史的景観を求めて旅する時空トラベラーにとっては画期的な判決だと思う。

「景観利益」は必ずしも確立した法的権利ではない、というのが学会の有力説であるが、司法の場で景観が保護される判決が出たことには重要な意味がある。広島地裁は「鞆の浦の景観は住民だけではなく国民の財産というべき公益で、事業で重大な損害の恐れがある」として「公益」を守る為に事業の差し止めを命じた。

鞆の浦は江戸時代からの港町の景観と瀬戸内海の島々の景観両方ををよく残した美しい景勝地である。古くは朝鮮通信使が江戸へ向かう途中、必ずこの鞆の浦で宿を取り「日東第一の景勝地」と賛美した土地でもある。写真を見ても海辺の穏やかな町の佇まいに心癒される。私もいつか訪れたいと思いつつまだ果たしていない。しかし、利便性を求める現代の生活をもはやこの町が受けとめる余地はなく、車のすれ違いにも不自由な狭い道や、老朽化した水利施設などの社会インフラを整備する必要に迫られていたのも事実。ご多分にもれず過疎化と人口の老齢化が急速に進み、「若者が戻ってこない」ことが町の活性化を阻害しているとして、早急なインフラ整備を求める声が一方の住民のなかから上がったのもうなずける。

「景観か、利便性か」という二者択一の議論がなされがちだが、そのような二元論はなんの解決も生み出さない。利便性はどのような価値を実現する為の利便性なのか。景観はまたどのような価値を生み出すのか。ただのノスタルジアやロマンだけでは価値を認める人とそうでない人に分かれるだろう。こうした「価値論争」は充分な議論が尽くされてはいないし、地元住民や国民のコンセンサスも得られていない。また若者が戻ってきてどのように町を「活性化」するのか描けているとも思えない。まさかここに工場誘致したり、ショッピングモール造ったり、ディスコやゲーセン開いたりする為に道路を造る訳ではないだろう。通り過ぎる為だけのバイパスなら地元にカネは落ちない。景観が破壊されるだけだ。埋め立てなので取り返しのつかない破壊となる。「景観」が価値を有すというコンセンサスがどう形成されるか。こうした判決や議論が積み重ねられて一歩一歩進んでいくのだろう。

戦後日本が高度経済成長まっしぐらの時代には、「景観」なんて価値概念すらなかった。とにかく経済優先、成長優先。新しければよい。古いものは捨てる。結果、日本のランドマーク、東京日本橋をぶざまな高速道路の高架橋でフタしたり、江戸城の外堀を埋めて銀座の数寄屋橋を消滅させたり、伝統的町家を壊して無機質なマンション建てたり、緑の丘陵を剥ぎ取って博覧会したりゴルフ場造ったり..... ちょうど胡同四合院の生活を破壊してビル建てたり、紫禁城の外壁を撤去して高速環状道路造ったりの今の北京や上海と同じだった。しかし、今やアメリカやイギリスなどの成熟資本主義国家では高速道路の高架を撤去して景観を取り戻す動きが出ている。お隣韓国でもソウル市内の川を覆う高速道路の高架を撤去して清流を都市に蘇らせた。成熟した国では「景観」に価値を見いだし始めた。

どのみちこれから日本はグローバルエコノミーの戦いの中で経済大国にはならない。東京はますます世界の地方都市化しており、世界の富は少なくとも東京一極集中はしない。一方、首都への富の一極集中、という現象は、発展途上の国の都市と田舎の貧富格差を象徴するものであり、もういい加減終わりを迎えるだろう。そのような大都市への集中のおこぼれという富の分配を求めるのではなく、地方独自の価値を富に変える知恵出しと行動が必要だ。もともと日本は江戸時代までは地方分権国家だった。徳川幕藩体制は富を蓄積した地方の国々(藩)を統治する為の体制だ。中央集権が進んだのは西欧列強に対抗する為の「富国強兵」「殖産興業」を進める明治維新以降だ。

よく見ると今まで気付かなかった資源が、幸い都市部の経済発展による破壊に遭わなかった分だけ地方によく残っている。経済発展に取り残された地域ほどよく残っている。それを価値に換え、富に生まれ変わらせる。「景観」もその貴重な資源の一つだ。それがまず「価値」を持つことを共通認識とすることから始める必要がある。さらにそれが「富」を生む可能性を追いかける。ここからはさらにハードルが高くなる。何でも金に換えることを旨としてきたエコノミックアニマルマインドが薄れないと本当の「富」の創出は難しいかもしれない。

こういう話をしていると、私がかつて在籍したLSE(London School of Economics and Political Science)で指導教授Peter SelfとのTutorialで議論した、「経営(Business administration)と行政(Public administration)における合理的意思決定(Rational decision making)とは?」。「tangible valueとintangible valueのいずれを実現するかで企業経営か、行政サービスか分かれる、という議論はmake senseか?」。「科学的な分析手法(Cost Benefit Analysisのような)は合理的な意思決定を助けると言えるか?」といった古典的な問いをまた思い出した。もちろん答えはIt does not make sense.なのだが、ではどのような価値を実現するのが経営であり行政なのか?なにが合理的(rational)なのか、まだ答えは揺れている。

話がトンでもないところへ飛躍してしまったが、これからゆっくりした経済成長と少子高齢化が進む日本、経済合理性だけではなく、今までとは異なる価値を認め、もう少し成熟した落ち着いた大人の社会にしていくほうがいい。これは価値観の問題だ。価値観は多様であるべきだ。価値観は変わる。価値観が変わればそれによって生み出される富も変わる。合理性の判断基準も変わるだろう。

高度経済成長時代、バブル時代に話題になった交通標語「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」。今こそもう一度ほこりを払って看板出したらどうだろう。