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2009年11月2日月曜日

昭和の情景 〜宮本常一との時空旅〜

平成も21年が経ち、間もなく22年になろうとしている。「昭和は遠くなりにけり」。昭和は歴史になりつつある。書店を廻ると「昭和もの」の本が平積みになっている。これも懐古的昭和ブームの現れなんだろう。「今」を生きている20代から80代の人々の大部分が昭和生まれなのだから。ポテンシャルな購買層はまことに広い。なにしろ「昭和の町」なるものまで地域おこしで出現しているくらいだから

昭和は長い。戦前,戦中,戦後、高度成長期、とまさに日本の歴史の中の激動の時代だ。
私は戦後生まれのベビーブーマー、団塊世代の最後尾の世代だが、戦争の余塵を知っている世代でもある。父母、祖父母から聞いた戦争の悲惨さ、日本人が味わった歴史的屈辱、戦前と戦後の価値観激変ギャップへのとまどいの話からだけではない。 当時、福岡で育った小学生,中学生の私にとって戦争の残した土煙は日常の光景でもあった。特攻隊生き残りの小学校の先生(やさくれていた。すぐに生徒にもビンタが飛んだ。体罰なんて普通だった。)、小学校の同級生は満州、朝鮮半島からの引揚者(博多港は引揚げ港だった)の子供達が多かった。反対に大陸の故郷へ帰れない在日の子も友達にたくさんいた。皆名前は日本名だったが... 学校給食で出た米国支援物資の脱脂粉乳ミルク(まずい。しかしこれで育った)、南公園の高台に設置されていた米軍(進駐軍といっていた)の高射砲陣地(朝鮮半島を向いていた)、雁ノ巣の米軍飛行場(大きな格納庫と小さなかまぼこ兵舎が....)、春日原、白木原の米軍キャンプ(そこはアメリカだった)、博多の町を走り回るジープ(Give me chocolate.か?)、ラジオから聞こえるFEN「This is the Far East Network from Itazuke.」。南公園の動物園は米軍家族デーには我ら少国民は入れなかった。迷彩塗装の残る修猷館の校舎(なんで消さなかったの?)、新天町、西鉄街のバラック商店街の賑わい、土埃の電車道、街頭の傷痍軍人のアコーディオンとバイオリンの音.....全ては私自身の生活体感から来るあの頃の昭和の光景だ。後で知ったが、なんと私は連合国軍占領下の日本で生まれたのだ。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約調印のわずか以前。Made in Occupied Japanじゃなくて、Born in Occupied Japanだ!

昭和の写真集もいろいろあるが、そういった中でふと眼にとまった写真集があった。「宮本常一が撮った昭和の情景」(毎日新聞)上下二巻である。いや、正確に言えばこれは写真集ではなく、宮本常一氏自身も写真家ではない。著名な民俗学者である。宮本氏が日本全国を旅して撮りためた10万枚に及ぶ写真は昭和の日本人の輝きと忘れられていた昭和を克明に記録した,いわば民俗学フィールドノートである。

しかし,そこに記録された昭和の人々の生活やそれを取り巻く情景は、どんな写真家の写真集にも残されていない貴重な作品だ。本の帯に記載された宮本氏自身の言葉「旅の中でいわゆる民俗的なことよりも,そこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。.....民俗的な調査も大切であるが、民衆の生活自体を知ることの方がもっと大切なことのように思えてきた。」と。

上巻は昭和30年〜39年,下巻は昭和40年〜55年の記録である。従ってそこに記録されているのは終戦直後の焼け跡の姿ではなく、高度経済成長前夜の人々の貧しくものたくましい日常の生活だ。そしてそこに写し出されているモノクロ写真の人々の姿、情景は古写真のそれではなく、私の記憶の中に鮮やかに蘇る私自身の情景だ。坊主頭にランニングシャツの男の子は靴下なしでズック靴。女の子はおかっぱ頭にゴムの入ったスカートかちょうちんブルマ。足には下駄。なんと粗末な姿だ。しかしなんと笑顔が輝いていることか。

ただただ懐かしいという気持ちと、「あの時」と「今」とのギャップへの驚きと、そして、豊かになったはずの「今」の我々が失ってしまったものがそこに鮮やかに写し出されていることへの感動と。自分自身が、「あの時」とはすっかり変わってしまっていたことを確認させられたような気分になる。しかし、一方忘れかけていた幼い日のナイーブな自分をフラッシュバックさせてくれる。写真家とは異なる民俗学者としての視点と、事実を事実として記録する科学者の眼。そして宮本氏が述べているように旅の中で知った民衆の生活自体への愛情がこの2冊にあふれている。ArtとしてではなくScienceとして記録し続けたものの中にArtを垣間みることが出来る。なんと楽しいことよ。

ちなみに、これらの写真はオリンパス・ペンSで撮られたものだそうだ。そのことが益々私にとっては愛着を感じさせる本になっている。高価なニコンやライカではなく、文字通り手軽にいつも持ち歩けるペンで綴られた写真ノートだ。フィルムが高価だった時代にハーフサイズで36枚撮りフィルムなら72枚も撮れる。メモ代わりに撮って歩くには最適な選択肢であっただろう。私的にも「写真家」ならぬ「写真家」ならではの愛着を感じざるを得ない。私が中学生の時、修学旅行用にと父が初めて買ってくれたカメラがこのオリンパス・ペンだった。これが「写真機家」の始まりだったわけだから。

”「眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和35年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした。......だが3万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何かを見、何かを感じようとしたかはわかるだろう。それはそれで記録としてものこるものだと思う。」”(宮本常一『私の日本地図1 天竜川に沿って』(あとがき)