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2011年8月6日土曜日

西宮夙川へ ー我がルーツへの旅 第2章ー

 今日は広島原爆忌。今年もまたギラギラと照りつける太陽、間断なく聞こえる蝉の鳴き声、あの日もこんな日だったんだろう。毎年暑いこの季節に一瞬の業火に焼かれた人々の苦しみを思う。ことしはさらに福島が放射能汚染被害の地に。多くの人々が苦難の道を再び歩み始め、日本全体が食料の放射能汚染への恐れ、原子力発電所の再開時期の不確かさと政治の混迷による電力事情の不透明さから、日本の製造業を中心とする産業界への大打撃。日本はますます負のスパイラルに...

 原子力と言う人間が作り出した技術は、技術的にも倫理的にもコントロール不能の技術となってそれを生み出した人類に災をもたらすことを改めて浮き彫りにした感がある。原子力の平和利用だからよい、安全だ,核アレルギーはよくない、と思っていたのだが...

 そんな時に天王寺から西宮に引越した。実は引っ越し前日に緊急入院、というオマケ付きだ。ようやく回復し昨日退院してきた。退院すると引越はすっかり終わっていた。家内が孤軍奮闘。暑い中を病院への見舞いと、引越の片付けと両方こなしてくれた。また彼女に借りを作ってしまったぞ。夫婦間の勢力バランスが崩れるきっかけにならねばよいが...(笑、汗)

 ところで,ここ新居のある西宮夙川は阪神間の閑静な住宅街。となりの苦楽園、芦屋六麓荘などは言わずと知れた日本のビバリーヒルズ、グリニッチコネチカット。阪急神戸線沿線、阪神間でもこの辺りはとりわけ人気のエリア。私立の超有名校もひしめき合い、学生の町でもある。

 実は夙川は、私の祖父母が天王寺、豊中と移り住んでようやく家を持てた所だ。祖父は,今で言うベンチャー起業家だったといってもよいような経歴の持ち主である。土佐の高知から一念発起して戦前の日本最大の経済都市、大大阪に出てきた。銀行マンからスタートし、やがて独立して道修町に製薬会社を起業。努力の甲斐あって事業が成功して,夙川に家を持った。関西のサクセスストーリそのものだ。しかし、戦争と言う想定外(?)の事業環境変化に、若い従業員の大半を戦地へ持って行かれ、奮闘の甲斐も無く遂に戦後は事業を再開することが出来ずに廃業。祖父は私財を売り払って借金を返し、奈良へ引っ込んで隠居した。もちろん夙川の豪邸(?)もだ。

 私は生まれたばっかりの時に夙川の家にいたらしいのだが,もちろん覚えている訳は無い。かろうじて赤ん坊の私を抱く祖父母の写真が残っており,それが夙川の家だと後で知った。そんな夙川に,住む事になった不思議。そもそも3年前に祖父母の立身出世物語のスタート地点、大阪天王寺北山町の近くに住む事になったこと自体が不思議な縁を感じたものだ。今回、祖父の人生の頂点だった夙川にまた移り住む事になる不思議。運命と言うか、祖父母に呼ばれたと言うか...

 父が生まれ育った大阪天王寺を振り出しに、予期せず祖父の足跡を歩む事となり、関西という土地のエリア毎のキャラクターを時空を超えて感ずる事となった訳だ。関西生活、次なるフェーズへ、ワクワクドキドキの時空旅行を続けて行くことにしよう。