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2012年1月1日日曜日

年の始めに ー初夢はホラーストーリー!?ー

2012年の年が明けた。

昨年は東日本大震災に見舞われた3月11日以来,東北の復興と,原子力発電の危険性との戦いに明け暮れた。震災復興は遅々として進まず,放射能汚染の不安はいっこうに解消されず、日本国の電力事情にも赤信号がともったままだ。国家財政は破綻の道を歩み始めている。その間、世界を見渡せば、ヨーロッパにおけるユーロ危機、信用不安。新興国の経済の足踏み状態。歴史的な円高と、震災やタイにおける水害被害の影響で日本の製造業は未曾有の危機にも見舞われた。そして東アジアの波高し。

NHKの「坂の上の雲」が3年目に入って完結したが、今の日本に「坂の上の雲」は無いと知った一年だった。少なくとも明治の頃のような、誰もが共有出来るロールモデルの無い時代を迎えた事をはっきり認識した一年だった。司馬遼太郎の描いたように、日露戦争後の日本の停滞と、その20数年後に始まる昭和の破滅的な戦争への道筋にこそ,学ぶべき事があるのだが。人は明治人の、いや明治維新で世に頭角を現した若者達(いわば初期明治人)のその後の活躍に、リーダー像と英雄像を見出して、今の時代に出現する事をノスタルジックに夢想しているだけだ。

今年はいい年になるのだろうか?否。これまでの延長線上の停滞と思考停止の一年が過ぎるのだろう。サラリーマン化した経営者達は自分の出世栄達と保身のみを求めて、社内ロジックのみに従って行動する。サラリーマンは上司に右顧左眄して世渡りをする。そうして運良く成功し、出世したものだけが「取締役」、「社長」という栄冠を勝ち取る。社長はサラリーマンのナレノハテと化している。同じくサラリーマン化した官僚は、政治の無能と混乱を良い事に、公僕としての使命を忘れ、よくも悪くも国家のビジョンを語る気概をも無くしている。どちらも「公」を担う自己犠牲と奉仕の精神を忘れてしまった。

オリンパスや大王製紙のケースは,特異ではない。日本の会社制度のフィクション性と本音との矛盾が露呈しただけだ。係長の仕事しかしない部長や、管理職目線しか持ってない役員ではこの目標不明の時代を生き残って行けない。少なくともこれからは日本と言う閉鎖市場を抜け出して,世界の市場に出て行かねば生きる道は無いと言っているのに、こうしたマインドセットや人生観、行動様式ではガラパゴス化する事すら難しい。

政治にいたっては,全くの混迷と停滞の時代としかいいようが無い。自民党は人材を使い果たし、あとに続く人が育ってない。民主党は烏合の衆。戦前のように、政党政治に愛想を尽かした民衆のの心を掴む軍部みたいな勢力が台頭しないだけましかもしれない。しかし,一点突破、全面展開する力は何処からも生まれない。全ての分野でリーダー不在。民衆はローマ帝国末期のそれのように、パンと享楽のみを求める。組織の長達は、全員、指示待ち管理職状態だ。自分で考え行動しない。少子高齢化で年金は破綻への道筋が見えている。生産人口も激減で日本国の大転換の時期に入っているのも関わらず、皆、ドンドン小さくなる限られたパイの分け前争奪戦に入っている。パイを増やそうという発想も,ビジョンも,リーダーシップも無いのはどうした事か。人と違う考え方や、行動を受容する寛容性すら失われている。

こうしてみると、日本の唯一の資源である「人」が育っていない事に気付く。歌劇ローエングリンや,ニーベルンゲンの指輪のように、禁欲的な聖騎士団が私欲を捨てて神に尽くす。それを妨害し、堕落をもたらそうとする異教徒たち、すなわち悪魔達と戦う、というキリスト教的な図式が刷り込まれた西欧文明と異なり、異教徒や外来文化を比較的素直に受け入れてきた日本人には,自らが、いかに「異教徒=悪魔」に「堕落」させられて行ったかを気付かせるような「物語」もない。グローバル化するなかで、無見識に,芯も無く変質して行く事の危険性を感じる術も無い。「働き過ぎ」と言われ、勤勉性を批判されれば,即座に怠惰に流れる。教育レベルの高さを,詰め込みだと批判されれば,即座に「ゆとり教育」で知識も見識も、規範意識も無い、「パンと享楽さえ与えられれば良い」「人生、自分が楽しければ良い」という「人材」を大量に生み出す。「内需拡大」と言われれば,外へ出て行くエネルギーを押しとどめて、一斉に内向き思考に徹する。

一方で、狭い自分たちだけのムラに閉じこもって変わろうとしない、排他的で後ろ向きの人生観に安住しがちでもある。相変わらず日本には「国際」と「国内」の二分論しか無い。国内派は「国際派」を毛嫌いして排除しようとする。この国では基本的に「国際派」は常に少数派だ。一方で、国際派は「国内派」のアンチテーゼとしての存在意義を主張しているだけだ。「異教徒」に「堕落」させられるのも、結局はどちらも「井の中の蛙大海を知らず」だからだ。

Steve Jobsは今の日本には絶対生まれない。既成概念を疑い、心の中の「異教徒」と戦う戦士が育つ環境ではない。日本では、彼の、" Stay Hungry.  Stay Foolish."が空しく響く。日本人はその生来の気質であるはずのハングリーさを忘れてしまった。彼の言うFoolishは、訳されているように「愚直」では無い。「道化のように滑稽でバカバカしい」だ。愚直は日本人の得意な性質だが、世の中を道化る、「ほうけもん」や「かぶきもん」は既に過去のキャラクターになってしまった。織田信長のようなFoolishな変革者は現れない。

暗い年の幕開けだ。今の所あまり明るい展望は持てない。残念ながら... 日本人が本当にHungryになるほど国力が後退するのを待ってる訳に行かない。Foolishな人物が無気力な民衆をあっけにとらせて、天下統一を夢見るようなカオス状況になるのを待つ訳にもいかない。このまま愚痴ってて良い訳はない。ボヤキ漫才やってる場合ではない。過去の英雄伝説を読みあさっている場合でもない。