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2013年5月20日月曜日

ならまち御霊神社 ー「祟り」と「崇め」の関係性ー

久しぶりに奈良の「ならまち」を散策する。五月晴れの週末には大勢の観光客が出て賑わっている。ここは古くは飛鳥から平城遷都で遷って来た飛鳥寺(元興寺)の境内であったところ。中世以降、元興寺衰退にともない境内には人家が移入するようになり、今では古い町家が集積し良く保存されている奈良の景観地区になっている。そうした由緒から、町歩きだけではなく、特に歴史好きの女性(歴女)の仏像巡り、パワースポット巡りのツアーが人気だそうで、元興寺極楽坊の智光曼荼羅や、庚申堂参拝、十輪院の説法拝聴など、参拝客が増えているのだそうだ。そのなかでも、旧元興寺南大門付近に鎮座する御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、縁結びの神、恋の成就神として若い女性の人気スポットになっている。

 この日も若い女性の一団がキャーピーキャーピー言いながら、御霊神社でおみくじ引いたり、お守り買ったり、にぎやかであった。たしかに彼女達の最大の関心事である「恋」をかなえてくれるというのであるから人気スポットになるのも不思議ではない。また「昔キャピキャピギャル」=「今大阪のオバちゃん」ご一行様も「ここが「オレイ」神社ヤデ!」と押し掛ける。「あれから40年」。いったい何を祈るのか。しかし、以下のような御霊(「ゴリョウ」ですからね)神社の創建の由来を知ると不思議に思うだろう。なぜ「縁結びの神様」になって行ったのか。

 この御霊神社のご神体は早良親王、井上皇后、他戸親王、藤原広嗣、橘逸勢など八体となっている。そして桓武天皇勅願所とある。しかし、これら祀られている神々は、政変や争乱により、非業の死を遂げた人たちばかりだ。無実の罪を着せられて殺されたり、流罪になったり、恨みを持って死んで行った、いわば政治的敗者となった人々だ。しかも創建は桓武天皇。すなわち彼等を無念の死に追いやった政治的勝者その人である。そういえば、この辺りには崇道天皇社や井上神社がある。崇道天皇は非業の死を遂げた早良親王のことで、その死後に名誉回復のために贈られた諡である。この蘇我馬子ゆかりの元興寺境内の南大門付近にこうした政治的敗者が祀られているのも不思議である。

 しかし、何故このような形で政治的敗者が政治的勝者によって祀られるのか? 決して敗者を哀れむ勝者の余裕などと言うものではなかった事が知れる。当時は、天変地異や飢饉、病気は全て人知を越えるもので,怨霊の祟りから来ると信じられていた。政敵を計略を持って陥れ、呪詛、讒言で無実の罪を着せて殺し、身分を剥奪し、流刑にし、そうやって政治権力を奪取していった政治的勝者は、その過程で犯した罪への恐れという潜在意識がどこか拭えないのだろうか、我が身、我が一族に振りかかる災いを、政治的敗者の怨霊による「祟り」であると考えた。自然現象発生のメカニズム理解にもとづく災害の予知や、病気の治癒などの医学も発達していなかった当時、頼るは神仏の力のみ。栄華を極めてみても自分の良心の呵責に耐えきれないその人間につきまとう弱き心が、「祟り封じ」をすれば災いから逃れられるであろう,と考えさせた。災害、病気、死... いかな権力者であってもどうにもコントロール出来ないものがあった。権力者にとっての「祟り封じ」は単なる私的な不安除去のまじないの域を超えて、マジメで立派な政治行為として執り行われていた。

 「祟り封じ」の例は、太宰府へ流されて非業の死を遂げた菅原道真公の怨霊を鎮めるための天満宮創建や、反逆者として殺された平将門の怨霊を鎮める神田明神社など、奈良時代後半から、平安時代に数多く見られる。映画「陰陽師」で表現されていたように、平安貴族はこうした怨霊を鎮め、祟りを取り除くために陰陽師を重用した。陰陽師は私的な祈祷師ではなく、ちゃんとした陰陽寮という国の役所の官僚であった。無実の罪で死に追いやられた早良親王の怨霊が、平安の都を破壊と荒廃の渦に巻き込まんとするのを安倍晴明が封じる,と言うのが映画のストーリーである。

 まさに御霊神社は、藤原百川の計略により冤罪で非業の死を遂げさせられた、光仁天皇の皇子、他戸親王と、天皇の后であった井上皇后、また桓武帝の信任厚かった藤原種継の暗殺の嫌疑をかけられ無実を訴えながら流刑地へ向う途中憤死した早良親王などの恨み、怨霊を封じ込める「祟り封じ」の神社であった。また、太宰少弐に左遷された藤原広嗣や、承和の乱で流罪となった橘逸勢(三筆と言われた遣唐使帰国組のエリート貴族)も祀られている。京都には上御霊、下御霊の両神社があり、彼等は八所御霊として祀られている。桓武天皇勅願はそうした理由からなのだ。

 「祟り封じ」と言えば、梅原猛氏の「隠された十字架。法隆寺論」によれば、再建された法隆寺、東院伽藍はまさに、藤原一族に抹殺された聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるための「祟り寺」であるとする。奈良時代初期に。こうした怨霊信仰があったのか、という疑問を投げかける説も出されているが、精緻な史料の読み込みに基づくストーリー展開と仮説の検証がサスペンス小説を読むような興奮を味わわせてくれる。なによりも人間の飽くなき権力への執着と,手段を選ばない闘争。そしてその反作用としての祟りへの恐れが、時代を動かしていたのだ。

 しかし、「祟り封じ」の寺や社が、後世、太子信仰、天神信仰や、学業成就、縁結び、無病息災、家内安全などの現世利益の神仏として「崇められる」ようになるのは何故だろう。もはや「祟り」を恐れた権力者の手を離れ、聖徳太子や天神様となり、庶民の現世利益を守る神仏へと変遷していったのであろうか。いやいや、権力者達が、彼等の霊を慰め、再び災いを為さぬようにするため、むしろ聖人化し、美しい諡号を贈り、尊崇の対象化してしまったのかもしれない。ともあれ、前にも述べたように、長い藤原一族の栄華の陰に滅びて行った数々の人々がこのような形で神として日本各地に祀られて、地元の守り神になっているのも不思議なことだ。日本独特の精神構造を物語るように思う。そういえば「祟(たたり)」と「崇(あがめる)」と字が似ていると感じるのは私だけか。




(御霊神社鳥居。朱塗りの鳥居が可愛らしい「えんむすびの神さま」だが...)




(恋愛成就を神前に祈る。女性達のパワースポット)




(御霊神社の御祭神は奈良時代末期に非業の死を遂げた人々ばかり。桓武天皇勅願。その意味は?)




(柊鰯(ひいらぎいわし)。平安時代に始まる玄関の鬼除けのおまじない。ここならまちでは各家に普通に見かける。権力者じゃなくったて鬼や祟りは怖い。)