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2014年7月14日月曜日

飛鳥古京・平城京・平安京、そしてTokyo 〜「みやこ」は国際都市?〜


 「みやこ」すなわち首都はその国家を統治する中心となる都市である。国家統治の権力と権威が存在する都市である。それと同時に、国内外の情報、文化と富が集まる交流の拠点である。グローバルな時代になればなるほど、その都市が如何に世界の交流拠点としての魅力があるかを競うことになる。今はもちろんその都市は必ずしも首都である必要は無いのだが、政治と経済と文化が一人の権力者の下に集中していた、いにしえの時代には、権力者、すなわち皇帝や国王のいる場所に、国中、世界中から富と情報が集まる。また国中,世界中に経済的富と政治的権力に基づく文化を発信する。それこそが大君の「みやこ」の権威なのだ。

 日本の「みやこ」の場合はどうであろう。私はこれまで、日本の古都である飛鳥、奈良、京都と歩き回り、ふと次のような考えが頭をよぎるようになった。確かに飛鳥・奈良はシルクロードの東の終着点で世界文明とつながる国際都市だった。しかし京都はどうであったのか?この千年の都には素晴らしい日本文化のレガシーがあるが、意外に国際都市としての「みやこ」というイメージがわいてこない。なぜなのか? 成り立ちを振り返ると少し何かが見えてくるような気がする。


飛鳥古京:

 飛鳥は、日本という国ができる以前、まだ倭と呼ばれていた国の「みやこ」が置かれた場所であった。すなわち倭京である。正確に言うと,大王(おおきみ)の宮殿があった地域で、かつては大王が死去し代が替わるたびに宮殿を立て替える「遷都」が、この狭い飛鳥、奈良盆地南部中心に行われていた。何時しかその伝統は破られて、板蓋宮跡地に浄御原宮が造営され、飛鳥古京と呼ばれるようになる。

 この時期は未だヤマト王権確立途上であり、天皇制は未成立であった。有力豪族が押す大王が統治の「権威」を主張した時代である。また中華帝国皇帝への朝貢、柵封により倭国の支配権の「権威」を得た大王(漢倭奴国王、親魏倭王、倭の五王の時代より)であった。いや倭は未だ国ではなかった。いわば倭連合王国 (The United Kingdom of Wa)であり、その王は、魏志倭人伝に描かれた3世紀の倭国、邪馬台国の卑弥呼と基本的には変わらない共立された王であった。そもそも国とは国王が統治する体制である。全土の土地と人民は国王の統治・支配の対象である。倭は当時、各地の豪族や氏族が各自の土地と人民を領有・支配(私地私民制)しており、この段階では倭に統一政権は存在しなかった。

 やがて、大陸からの渡来人による外来文化の導入、とりわけ6世紀に仏教という国際文化を取り入れ、倭京飛鳥は仏教を通じて倭が国際社会に進出し交流する「みやこ」となってゆく。大陸との人の往来も盛んになり、飛鳥は異文化の集積地となった。法興寺(飛鳥寺)の建立はそれを可視化させるのに充分なシンボルとなった。遣隋使の派遣による積極外交も行われた。外来文化の受容の是非、その支配を巡る有力豪族間の権力闘争、宮廷クーデター(乙巳の変)も起こった。唐・新羅連合との白村江の戦いの敗北による、倭存続の危機にも遭遇する。そして、滅ぼされた百済の遺臣達も大勢倭にやってくる。やがて古代最大にして最後の内乱と言われる壬申の乱を経て、ようやく大王を中心とした中央集権国家という国内統一のステージにむかう。倭国は中国型の律令制国家を目指す。中国の正史にならい歴史書編纂(記紀)、豪族優位の社会経済システムの改変(私地私民制から公地公民制へ)、中国皇帝の向こうを張る天皇制(大王から天皇へ)確立。そしてついに国号改称(倭から日本へ)。これは単なる国の名称を変えたと言うことではなく、その本質としてようやく「日本」と言う「国」が出現したことを意味する。そしてこの新国家にふさわしい「みやこ」は中華帝国のそれに負けないの都城として造営が企画された。

 こうした背景には、倭国内での権力闘争や、経済体制の変化という事情だけでなく、当時の東アジア情勢の変化、とくに中華王朝の交代、それに伴う朝鮮半島における勢力図の変化、人の大移動が大きく影響している。今は、のどかできわめて日本の原風景のような飛鳥だが、そうした国際的(東アジア的)な激動のただ中に居た「みやこ」であった。いわば内憂外患の歴史の舞台であった。


平城京:

 新たなる国「日本」の都の造営は、新国家の重要政策課題であった。最初飛鳥の地に中国風の都城の創出を試みた新益京(藤原京)造営は、その立地(水はけの悪い湿地)の不備から断念。新たに盆地の北の平城山(ならやま)に造営されたのが平城京である。飛鳥古京の、仏教という国際文化を通じて国際的に進出し、交流する「みやこ」という性格は、平城京に引き継がれた。

 この時期は、いわば新国家の創建期であり、政治的支配者となった天皇にとって、積極的に海外との交流を進め、国内統治の確立、国際社会に置ける立ち位置を確保しようと必死であった時期だ。仏教は世界思想、哲学、文化であり、仏法による鎮護国家思想を国家経営の基本理念と位置づけ、遣唐使の派遣、帰国留学生、渡唐僧の登用、国家プロジェクトとしての東大寺大仏開眼、全国に国分寺創設、唐の高僧鑑真の招聘、戒壇院と授戒制度の確立等々、天皇と仏教による、いわば「近代」国家体制が整備されていった時期だ。正倉院に残された国際交流の証を見てもこの時期がいかに海外との交流が活発であったかが分かる。奈良は国際的な都に発展し、筑紫鴻臚館、太宰府を窓口とした大陸との文物の交流がさらに活発になった。


平安京:

 しかし、新国家「日本」の首都、国際都市平城京の「みやこ」としての歴史はわずか84年で幕を閉じる。再び遷都が企画される。長岡京などいくつかの試みの後、平安京が造営された。実は平安遷都の理由は謎である。旧都の仏教勢力の増大に嫌気がさした、天武天皇系の奈良に決別した、藤原氏勢力との距離をおく、さらには怨霊払いなどの理由が語られているが、ともあれ大和奈良盆地を出て、さらに北の山城国のカドノの地に遷都した。

 中国風の風水により四方を神で守られた都を造営。仏教勢力を極力排除する観点から、奈良からの仏教寺院の移転は禁じられた。平城京遷都時に飛鳥や藤原京から有力寺院が移転してきた事情とは大きく異なる。やがて唐王朝が衰退期に向かうと、遣唐使が廃止(菅原道真の進言)され、一種の南都仏教禁教令、鎖国に近い時代に進んで行く。その結果として国風文化の隆盛、日本史上、対外的な軋轢の少ない平和が続く時代となる。仏教は、鎮護国家思想から変質して、世の末法思想の広まりとあいまって、現世利益を求める貴族や民の宗教(阿弥陀信仰)になって行った。平安京は文字通り平安な国の内向きの都になっていった。

 この頃から日本の社会はドメスティックになっていった。博多津では,相変わらず商人達が唐、新羅との交易に従事していたが、政治権力者が国際交流に再び目覚めるには平清盛の時代を待たねばならない。瀬戸内、太宰府、博多を押さえた唐物、南宋貿易で大きな財を成した平家一族は、「みやこ」を制する権力者一門となる。清盛は京に近い福原に遷都、大和田の泊にて国際貿易を企図する。一方、平氏滅亡後、東国に拠点を置く源氏、北条氏は国際認識に疎く、元の使者の来訪時にも対応を誤り、元寇を招いている。再び大陸との政権レベルでの交易が本格化するのは室町幕府、足利将軍の勘合貿易の時代に入ってからだ。やがて世界地図は塗り替えられ、大航海時代に入ったヨーロッパ諸国が東アジアに出没するようになる。そうした異人の来訪を受け入れたのは、「ほうけもん」の織田信長。堺や博多の豪商がいわば権力者のエージェントとして交易に従事し、莫大な利益を上げた。しかし徳川幕府時代に入ると、権力中枢は東国の江戸に移り、キリスト教禁教と再びの鎖国へ。歴史は繰り返す。しかし,これらは「みやこ」の外での出来事であり、「みやこ」はグローバリズム、反グローバリズムの動きの蚊帳の外に置かれ始める。


地政学的視点:

 奈良盆地は西に水運ルートが開けている。シルクロードは、那の津、瀬戸内海、ナニワ津、河内湖、大和川を通じて終着点、飛鳥、平城京へとつながっていた。もともと北部九州にあった倭の中心部が、次第に、版図を東に広げ、あるいはある時期、大陸からの脅威に備えるために、東遷していった結果選ばれた地が、奈良盆地なのだから。いわば稲作農耕文明の東遷トレンドにあったうごきだ。しかし、奈良盆地は東に山塊が行く手を阻み、倭、日本が、さらに東国へと支配を拡張してゆく過程に入ると不便なロケーションとなる。

 一方、京都盆地は、日本の中心に位置し、東西に走る街道、琵琶湖の水運により、国内統治には適したロケーションである。結果として、遷都後1000年もの間日本の首都であり続けた。しかし、平安京はナニワ津からは淀川、木津川、鴨川を通じて世界につながる位置にはあったが、飛鳥や平城京のように、シルクロードに直結する文明の終着点のイメージは無い。那の津、博多、太宰府、後にナニワすなわち大坂(さらには堺)が「みやこ」の外港の役割を果たし世界との窓口になるが、グローバルの波を「みやこ」には入れなかった。


「みやこ」は日本文化の聖地・象徴へ:

 平安京は国際的文化交流の「みやこ」というよりは、独特の日本文化の揺籃の地になってゆく。さらには日本の統治「権力」の中心と言うよりは天皇という統治の「権威」のおわします「みやこ」となっていった。武家政権が日本を支配する時代に入ってからは、ますます「みやこ」は、政治支配者が自らの政権の正当性のお墨付き(錦の御旗)をいただくところとなる。かつて倭国の時代に,その権威を中華皇帝に求めたように。

 鎌倉時代、室町時代、戦国・安土桃山時代を通じて、日本の海外交流はとぎれとぎれになりながらも細々と続くが、その波は「みやこ」には至らなかった。博多であり堺にとどまっていたのであった。江戸時代鎖国の時代に入ると、「みやこ」は天皇のおわします聖域、禁裏となる。すなわち外国人を入れてはならないForbidden Cityとなって行く。幕府により天皇や公家は、ますます有職故実や古来からの文化・芸能を継承してゆく役割に押し込められてゆく。その政策が京都と言う街の性格を形成することになる。


サマリー:

 このように振り返ってみると、飛鳥は、前述のように「倭」の「みやこ」すなわち倭京であった。その倭王は中華帝国皇帝からの信認関係で成り立つ王であった。こうした「倭国」はすなわち中華帝国との朝貢、柵封、を軸とした外交使節の往来、すなわち「国際交流」が不可欠の国であったから、必然的にその「みやこ」は大陸との使節の往来が盛んになり、異国の文物や人が多く入り、その外来文化や財を一手に支配する事で、統治の「権威」と「権力」を蓄えることが出来た。のちに、対外的な緊張関係(白村江の戦いの敗北など)に遭遇するなどの時期を経て、国家意識、倭人としてのアイデンティティーが徐々に形成されて行く。やがて中華帝国の柵封体制から決別し、中華皇帝を中心とした宇宙から独立したもう一つの小宇宙の天帝、すなわち天皇を生み出す。そしてその東アジア世界に立ち位置を示した国家創世のシンボルたる「みやこ」が藤原京であり、平城京であることを知った。

 しかし、そういう新しい「日本」国家創世のプロセスがもう一段進むと、もう世界から学ぶことは無い、などとして「一種の鎖国」状態に進んでゆく。先述のように平安時代はその結果、国風文化が進み、「日本」文明が醸成されてゆく。江戸期の鎖国は、いわば第二の国風文化の時代を生み出したことになる。こうなると天皇のおわします「みやこ」は、国際交流の拠点ではなく、その性格を「日本」文明の聖地、権威の象徴、さらには禁断の地として外の世界から隔絶する「みやこ」へと変容してゆく。このように国際交流が「みやこ」の外に追いやられてきた歴史を観た。

 明治維新後の、かつての江戸への「遷都」は、新しい「みやこ」東京がそうした京都の1000年の呪縛から逃れ、新しい近代国家の国際交流の「みやこ」になった事を意味しているのである。飛鳥の時代の倭国を取り巻く中華圏グローバリズムとはまた別のグローバリズムが進む今日であるが、「みやこ」としての東京が、フラット化した世界の様々な面での交流拠点として発展することが求められる時代になった。「みやこ」Tokyoはこれからどこへ行く。

 一方、その結果、いにしえの風貌が文化遺産として残された、かつてのForbidden City京都は、国際的な観光都市として「日本文化」「和風」を求める外国人が押し掛ける町となった。歴史の皮肉であろう。そしてその昔、いわば血気盛んな若い国際人であった飛鳥/奈良は、まるで人生のあらゆる波乱を過去に脱ぎ捨ててきた、枯れた老人のような穏やかな佇まいになっている。「国のまほろば」の風景の中、山河、一木一草が語る歴史、老人がその背中で語る生涯がたまらなくいとおしい。


飛鳥板蓋宮跡。外交使節謁見の場で起こった権力者の暗殺。その現場からその一族の居館、甘樫丘が見える。

藤原京(新益京)跡。新生「日本」の「みやこ」を目指して計画されたが挫折。背後は耳成山



夏の藤原京跡は睡蓮の花畑となる。背後は畝傍山


闇に浮かぶ平城宮大極殿。国際都市に偉容を誇った。
京都御所。平安京大極殿はさらに西の現在の千本丸太町辺りにあった。
高い塀に囲まれ他を寄せ付けないまさに「禁裏」。