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2015年9月18日金曜日

「横須賀ストーリー」 〜「富国強兵」の栄光と挫折〜

横須賀へ行ったら、記念艦「三笠」と横須賀海軍カレー、Navy Burger、どぶ板通りのスカジャンショップ。 おおっと、三浦按針夫妻の墓も忘れちゃいけない。しかし、横須賀と言えば基地の町、山口百恵の横須賀ストーリーの町。そんな横須賀の今を歴史散歩。


連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥像と記念艦「三笠」



徳川幕府はフランスの技術協力を得て横須賀奉行小栗上野介のもとで横須賀造船所、製鉄所を建設した。現在の住友重工のドックや米軍基地になっているところはその跡地。フランス人技師ヴェルニーの名を冠したヴェルニー公園が記念公園として市民の憩いの場となっている。ここからは米海軍基地と海上自衛隊基地の両方が見渡せる。そして明治維新後はこれらの施設は明治新政府に引き継がれ、やがて大日本帝国海軍の横須賀鎮守府となる。佐世保、呉、舞鶴などとともに我が国有数の軍港となる。戦後は米軍に接収され、いまは米軍海軍基地と海上自衛隊基地が共存。日米安全保障体制のシンボルとなっている。

この横須賀に「三笠公園」がある。そう、あの日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破って、日本に大勝利をもたらした連合艦隊司令長官東郷平八郎と、その旗艦「三笠」が美しい勇姿を誇っている。その「三笠」が保存される場所は、広大な米海軍基地の一角にある。華々しい日本海海戦の勝利のシンボル、日本近代化の成果として展示保存されている。

日露戦争における日本海海戦の大勝利についての歴史的な意義、解釈については司馬遼太郎「坂の上の雲」など、多くの記述がある。歴史的事件が時代の大きな転換点になった。この勝利が世界を驚かせ、日本が西欧列強と肩を並べる「一等国」になった、ということだけでなく、その後の「一等国日本」の運命を決定づける意味でも。すなわち19世紀の終わり、白色人種・西欧列強に虐げれてきた有色人種、植民地化されて劣等国にされてしまったアジア諸国の希望の星となった日本人、日本が、その後何故アジアの人々期待を裏切る敵のような扱いになってしまったのか?

昨今の中国・韓国の政治指導者たちによる日帝侵略歴史認識のプロパガンダには、自国における彼らの不安定な政治権力基盤が見え隠れするが、それにしても日本は先の大戦で未曾有の大敗北を喫してしまう。その結果320万人もの同胞が犠牲となり、幕末明治維新であんなに恐れていた事態、すなわちわが国土が外国軍隊によって占領され植民地化されるという悪夢。それが正夢になってしまった。なんと我が国の歴史始まって以来初めての独立喪失を経験する。いわば日露戦争の大勝利を頂点に、日本は「坂の上の雲」から「焼土」に転落してしまう。日本海海戦の「トーゴーターン」が日本を勝利に導いたが、その後の国策の「トージョーターン」が日本を敗北に導く結果となってしまう。どこでどう間違ったのか?

明治維新の志、「殖産興業」「富国強兵」という近代化政策。文明開化運動。これらを進めたその大きなモチベーションは、このままでは西欧列強の帝国主義的な植民地拡大の餌食になってしまう、という強い恐怖が基礎になっている。当時のアジア諸国の中で数少ない独立国(日本、タイ、トルコなど)のなかで、いち早く近代化を果たした日本はアジアの希望の星となった。清やロシアという大国を破り「一等国」として西欧列強と伍すアジアで初めての国家になった。しかしやがて激しい帝国主義的権益獲得競争の渦のなかに巻込まれて行くことを意味した。

そもそもこのような権益確保、植民地争奪戦の帝国主義跋扈の時代、弱肉強食の世界の中で生きてゆこうとすると、自国のみを強くして守っていれば良いのか。周辺事態は刻々と変化してゆく。特にアジアの大国であった清の弱体化による東アジアパワーバランスの不安定化は欧米列強の東アジア進出を招くことになる。英国はアフリカ、中東、インド、ビルマ、マレー半島から香港、上海へとその帝国拡張の食指を伸ばしてきた。フランス・ドイツはこれに遅れじと中国大陸に権益を求めた。

日本にとって直接的な脅威はロシアの南下政策。これらが先鋭化された地域が満州であり朝鮮半島であった。すなわち日本のすぐ目と鼻の先にロシアが清の弱体化の間隙をついて進出してきた。朝鮮は清の冊封国であった。朝鮮の近代化は遅れ、近代化を進めようとする動きへの抵抗勢力が王朝を支配していた。そこにロシアが食指を伸ばしてきた。幕末の日本が恐れていた事態が朝鮮半島で起ころうとしている。これを黙って新生日本は見ていて良かったのか。前近代的で保守的な旧文明諸国。そこへ跳梁跋扈する帝国主義的近代国家。こういう構図のなかでなんとか近代化を果たした新興国日本はどんなアジアのホラーストーリーを見たのか?自らの安全保障のためにどんな世界戦略、サクセスストーリーを持っておくべきなのか?極めてセンシティブで重要な国家経営の課題であった。

こうして日清・日露の戦役で勝利し、清、ロシアの脅威を取り除いたが、気がつくと日本は帝国主義的な植民地争奪戦、権益獲得戦のど真ん中にいて、そのプレーヤーの一人となっていた。清朝が瓦解し、辛亥革命後の混乱の中、中国大陸では蒋介石率いる国民党政権との泥沼の戦いにズルズルと入って行き、果てしなき戦線拡大の先には、イギリスでもなく、オランダでもなく、フランスでもなく、新興の資本主義大国アメリカが立ちはだかっていた。そして敗北。

広大な米太平洋艦隊横須賀基地。街を歩けばアメリカンな匂い。米兵がいっぱい乗って鎌倉見物に向かう横須賀駅。ドルが使えるドブ板通り。米国海軍ニミッツ提督が尊敬してやまない東郷元帥とその旗艦「三笠」。彼は戦後その保存に尽力し、今の記念艦「三笠」がある。かつて日本を開国に導いたアメリカ。ペリー提督は浦賀に上陸した。そして日本と戦争して日本を占領したアメリカ。日米の歴史が詰まった街だ。そして宇崎竜童と阿木耀子と山口百恵は横須賀を新しい夢のステージに変えた。「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ♫」が響く街。山口百恵の「もうこれっきりですか?」日本の近代化と帝國海軍横須賀軍港物語は、GIブルース物語へ。そしていま横須賀ストーリーへ。明治維新以降、戦後に至る日本の歴史を象徴する街になっている。




「さかみ」でなく「みかさ」
1902年英国ヴィッカース造船所建造
Z旗上がる
「天気晴朗なれど波高し。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」


現在の横須賀港
左は海上自衛隊横須賀基地
右は米海軍横須賀基地

旧横須賀製鉄所の鍛造装置。蒸気機関で動いた(ヴェルニー記念館)
幕臣小栗上野介がフランスのヴェルニーの技術協力を得て建設した横須賀ドックと製鉄所。
小栗上野介は幕末混乱の中、官軍に斬首刑に処せられる。
のちに薩摩出身である東郷平八郎は、小栗の遺族を自邸に招き、
日露戦争に勝てたのは彼のおかげであった、と小栗の遺徳を讃え、感謝の言葉を述べた。



追記:「一撃講和」の夢?


日露戦争の背景:

先の日清戦争による朝鮮半島における権益、遼東半島割譲へのドイツ・フランス・ロシアによる三国干渉。「臥薪嘗胆」
朝鮮王国の宗主国「清」の衰退と、朝鮮半島へのロシアの触手(朝鮮王高祖を取り込み)。三国干渉で放棄させた遼東半島旅順港の火事場泥棒的な獲得。満州への進出(東清鉄道)。
日本の地域安全保障が脅かされる事態に。日露交渉で「満州におけるロシア権益を認める」かわりに「朝鮮半島からの撤退」という妥協案を提案するも拒否。ロシアはますます軍備増強、英独仏の満州からの撤兵要請も無視し、朝鮮半島にも権益を拡大しようとしてきた。日本の存立危機へ。ロシアという大国にとって日本という極東の小国に妥協しなくてはならない理由はなかった。

しかして日本はロシアに宣戦布告。しかし相手は国力10倍。勝てるはずがない、と誰もが見ていた。したがって「初戦で圧勝し全面講和に持ち込む」という方針。戦争を長引かせると国力が持たない、そして成功するわけだが、その背景には外交による苦心の布石があった。

①反露政策を伝統的に取る英国と日英同盟によるロシアの東西挟み撃ち(小村寿太郎)
②反露ユダヤ系金融資本による戦費調達。(高橋是清)
③アメリカルーズベルトによる講和仲介。(金子堅太郎)(小村寿太郎)
④ロシア国内調略、すなわちロシア革命支援(明石元二郎)


太平洋戦争の敗北:

しかし、この「一撃講和」戦略は、その後の軍部の常套手段になりつつあった。戦争回避という手段を取らず戦争に持ち込む場合、国力が劣る小国が大国に対して戦争を仕掛けて勝つ方法はこれしかないと考えた。日露戦争は数々の僥倖が功を奏し、この勝ちパターンが確立したかに見えた。しかし、先述のように、それには様々な条件を満たす必要があったことをどこまで教訓として学んだのだろうか。同じ柳の下にドジョウは二匹いない。

同じ戦略が太平洋戦争では機能しなかった。もともと英米との協調を主張し、対英米戦争に懐疑的であった山本五十六提督が連合艦隊司令長官に抜擢されたのは皮肉であった。しかしそうなった以上、なんとか手を打たねばならぬ。山本提督の真珠湾奇襲差作戦は、まさに初戦圧勝、早期講和を期待したものであった。まさに日露戦争の勝ちパターンである。しかし、山本提督自身が真珠湾に米機動部隊の中核である空母を撃滅できなかった結果を見て、これは失敗したと悟ったという。すぐにミッドウェー海戦で連合艦隊は米機動部隊に大敗を帰すことになる。この状態で長期戦に入ってしまっては戦争の早期講和は望むべくもない。ということは日本は消耗戦の泥沼から抜け出せなることを意味した。東郷も山本もこうした全体像をよく把握し戦略を策定できるリーダーであった。そのような二大海軍提督を持てたことは日本が誇るべきことであろう。

しかし、山本提督はニューギニアで撃墜され戦死。その後の日本は太平洋での戦いで米国に次々と負け戦となり、とうとう本土爆撃、沖縄上陸、原爆投下を許すこととなる。しかし、軍部はこの期の及んでまだ「一撃講和」を主張し、特攻作戦で一撃を加えたのちに講和に持ち込もうという、大好きな勝ちパターンをここでも持ち出す。しかし事態はすでに圧倒的負けパターン。しかも同盟国ドイツは敗北。客観的な情勢判断を誤った楽観的作戦行動。最後は「本土決戦」「一億玉砕」などという捨て鉢でとても理性的とは言えない断末魔の判断すら下そうとした。

日露戦争の「一撃講和」の勝ちパターンは、外交戦略の成功と稀代の幸運の賜物、という分析と評価がなされぬまま、根拠のない、文字通りの希望的観測のお題目に祭り上げられてしまったようだ。先に見たように日露戦争を勝利に導いたのは巧みな外交戦略とのタイアップがあったからだ。太平洋戦争にそのような外交戦略が準備されていたのだろうか。

同盟:
国際連盟を脱退して孤立した日本が組んだ相手、ドイツは、日本の中国大陸・太平洋での戦いを展開すること力になったのか?確かに欧州戦線に英米ソを釘ずけにして戦力を東に向けさせなかった点では有利に働いた。ソ連は日本と不可侵条約を結んで欧州戦線に集中した。マレー半島・インドネシアで英国・オランダは降伏した。米国だけが太平洋での戦いに戦力を割く余裕があった。
しかし、欧州でドイツが敗北すると、連合国側は一斉に東に向かった日本との最後の戦いを挑んできた。ソ連は不可侵条約を破り、満州へ突如侵攻してくる。

戦費調達:
一方、戦費調達・石油などの資源はどうであったか?ロシアを敵とするユダヤ資本はドイツと同盟した日本に資金を出すはずもない。アメリカのユダヤ資本があてになるはずもない。国内の戦時国債が調達源となる。国が滅びれば借金も消え失せる自滅的な戦争であった。石油はアメリカが禁輸措置を取ったために、自ら南方進出して確保しなければならない。こうしてますます戦線が拡大してしまう。

講和:
「一撃講和」というけれど、誰に講和仲介を依頼するのか。終始、不可侵条約を結んでいたソ連を頼みにした。この判断の誤りは結果を見れば明らかだろう。ドイツが降伏し欧州戦線が収束し、背後に憂いのなくなったソ連は、連合国のヤルタ・ポツダム会談での密約もあり、またロシア伝統の南下政策を実行する好機である。、ここぞとばかり不可侵条約など無視して満州になだれ込んできた。開拓民を地獄に落としめ難民の群れに襲い掛かった。降伏し武装解除した日本軍将兵を襲ってシベリアへ抑留した。樺太と北海道の北方4島を不法占拠する。日露戦争の雪辱を果たせとばかりに。

相手国内調略:
米国内の世論を味方につけたか?厭戦気分を喚起できたか?全く逆であった。むしろ中華民国総統蒋介石、その夫人の宋美齢の米国における反日アピールが功を奏した。


そもそも国際連盟を脱退して世界を敵に回し、その孤立のなかから日独伊三国同盟を選択し、英米との協調路線を捨てた時点で外交は破綻していた。世界から孤立してしまったのだから。この同盟に反対した山本五十六は戦死し、広田弘毅は抵抗の術を失って外相、首相を辞任(その後極東裁判で唯一文官として絞首刑を宣告され、抗弁せず従容として死に赴いた)。自分の信念とは異なる結果を引き受けさせられる運命は得てしてあるものだ。

このように考えると、日清/日露の勝利がのちの大日本帝國の命運を皮肉な形で決めたのかもしれない。「勝って兜の緒を締めよ」