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2015年11月2日月曜日

平安京ここに始まる 〜東山将軍塚からの眺め〜

東山山頂の「将軍塚」からは京都市内を一望できる。
正面の緑地は京都御苑(御所)。
平安京の大極殿はこの画面の左奥に位置していたが現存しない


 平城京、長岡京からの遷都を考えていた桓武天皇は、側近の和気清麻呂の案内で山背国葛野(かどの)の地、東山の山頂に登り立った。山に囲まれ、豊かな川の流れに恵まれ、風水にかなった地形をみて、ここをあらたな都に決めたという。そして新都鎮護の祈りを込めて、将軍の像を造らせ、それに甲冑をまとわせて埋めたのが将軍塚だといわれている。793年のことだ。そしてわずか1年後の794年には平安遷都がなる。以来、この地は明治の東京奠都までの1000年の都となる。

 今でもここは京都を一望に見渡せる絶好のビューポイントだ。特に清澄な秋の空の下、とても視界が効いてよく見渡すことができる。ここには青蓮院の離れ青龍殿があり、大日如来を祀る大日堂があった。木造のテラスが去年新設され、新たな京都の観光名所として脚光をあびることとなった。ここには青不動(国宝)が安置されている。

 たしかにこうして見渡すと京都は四神相応にかなっている。日本における風水、四神相応は中国における地形の比定とは異なっているそうだが、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎であることは同様で、平安京について、東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池(今は干拓で消滅してしまったが)、北玄武を船岡山にあてる。もっとも比定地には諸説あるようだ。

 京都は日本の首都としては地の利を得たロケーションと言える。東西南北に延びる街道、淀川を経て瀬戸内に延びる水運、琵琶湖の水運など都が置かれる位置としては最適だった。このころはいまだ現在の東北地方は蝦夷の地とされ、朝廷の支配が安定している領域は今よりも日本列島のずっと西に偏っていたのでまさに日本の中心であった。西南の雄藩中心の明治新政府が、徳川幕藩体制の拠点であった江戸の制圧、それを最後まで支えた東北諸藩地域の統治、さらには北海道の開拓などで、都を京都から江戸、すなわち東の京都、東京に移したことで日本の中心がより東寄りになったのは比較的新しいことである。

 京都盆地は、以前の都があった奈良盆地とはどのように異なるのか。奈良盆地は西は河内、難波をへて瀬戸内海に開けて良いが、東へは山に阻まれて都合が悪い。ヤマト王権、さらには朝廷が東国への支配を強め、物流、情報流を活発にするにはやはり遷都が必要であった。飛鳥、奈良からさらに京都へと北に向かって都を移していった。この南北一直線上の遷都にも合理的意味があるのだろう。その地の利ゆえに京都はその後1000年もの間日本の首都として続いたわけだ。

 一方、奈良や飛鳥がシルクロードの東端として、積極的に都の国際化を図り、渡来人コミュニティーが出来ていた国際都市であったのと異なり、京都は国内の物流・情報流の中心としての性格がより濃くなった。すなわち飛鳥倭国時代は蘇我氏のような渡来人コミュニティーを権力基盤とした有力豪族が大王家と姻戚関係を結びつつ、大陸との文化・経済交流を国の安全保障と国富発展の基礎としてきた。しかし白村江の敗戦以降は国内統治体制整備と防衛に邁進し、都には比較的安定した国内の政治経済の中心としての役割が求められるようになる。それでも藤原京、平城京は対外関係を意識した壮大な中国風都城の建設を企図したものであったが、平安京は、菅原道眞の建議で遣唐使が廃止され、国風文化が盛んになる平安時代の象徴的な都であった。ある意味で日本がよりドメスティックで内向きになり平和な時代(平安時代)が続いた。のちの鎖国体制の江戸時代はその再来なのであろう。勿論唐物に対する憧れはあったにしろ、国際関係は、もっぱら都から遠い筑紫の太宰府、鴻臚館を中心とし、むしろ都には外国船を近づけない方策が取られた。これを破ろうとしたのは武家の棟梁平清盛で、瀬戸内海を国際航路として整備し、都に近い福原に国際貿易港を作り、さらには遷都すら企画した。しかし、こうしたグローバル派は歴史上は少数派である。平安遷都は国内と国際を分離する、二元論で生きてゆく時代の始まりであった。

 しかし、そのような遷都の歴史的合理性・意味づけが論じられるのはのちの時代のことである。実はそもそも平安遷都の理由は諸説ありはっきりしない。魑魅魍魎の跋扈する奈良を嫌がり、王位継承争いで非業の死を遂げた早良親王の怨霊から逃避、平城京の貴族政治勢力からの逃避、などなど。必ずしも日本という国家の行く末を展望した政治経済合理性に基づく遷都決定ではなかったのかもしれない。もっともこのころの陰陽道的世界観から見れば「怨霊封じ」は立派な合理的理由だったに違いない。一方で平城京が奈良仏教の拠点となり、仏教勢力が力を持ち始め、孝謙天皇の治世で起こった道鏡事件や、仏教勢力の政治への介入に嫌気がさしたためともいう。桓武天皇の信任厚かった和気清麻呂の遷都進言が大きかった。和気清麻呂といえば宇佐八幡宮のご神託で、道鏡を排して皇統を守った忠臣として語られる。またこの地は渡来系氏族である秦氏の本貫地で、その財力を頼ったとも言われている。太秦の広隆寺はもともとこの地に勢力を持っていた秦氏の氏寺。

 そのため奈良にあった寺の平安京移転を固く禁じた。聖武天皇創建の鎮護国家の寺、東大寺も、西大寺も、藤原京から移転してきた天武・持統天皇の薬師寺、鑑真和上の唐招提寺も移転していない。そして藤原氏の氏寺、興福寺も移転せず。こうして仏教勢力や有力貴族である藤原氏を避けて遷都されたはずなのだが、結果は衆知の通り、平安京は藤原摂関政治の都となり、比叡山や浄土宗、阿弥陀信仰など、新しい仏教勢力の拠点となってゆく(京都にはお寺さんがぎょうさんに居てはりますよね)。皮肉なものだ。さらに平安末期にはその藤原摂関政治や、後白河上皇の院政を脅かす政治勢力、南都北嶺すなわち奈良の興福寺、比叡山延暦寺の僧兵たちが春日大社や日枝神社の神輿を担ぎ出して跳梁跋扈する都となる。やがて朝廷や公家の番兵であった武士が勢力を握り、平氏や源氏の武家政権が誕生する。さらにその後の武家勢力の争いの場として応仁の乱、それに端を発する戦国の世に突入し都が荒廃してゆく。都が活気を取り戻すのは、皮肉にも武家政権の織豊政権から徳川政権になってからである。統治権力の都としてではなく、統治権威のおわします都としてであるが。



将軍塚

鴨川と下鴨神社
手前は京都大学

平安神宮の大鳥居



金戒光明寺

真如堂

青龍殿とガラスの茶室

南禅寺

青龍殿に新設されたウッドテラス



ここからの眺めは絶品
東寺五重塔、京都駅、京都タワー

夕日が二人を照らす

(撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)