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2017年10月28日土曜日

那の津/博多港で考えるコト 〜Think Globally, Act Locally〜

本日のクルーズ船はCosta Atlantica
博多港から志賀島、玄界島を望む

対馬航路のフェリーが博多湾を出て行く

空から見る博多港全景




大型旅客船埠頭/ターミナルが足りなくて
手前の貨物埠頭にも停泊中のクルーズ船


 マリンメッセ福岡で「ものづくりフェアー2017」というトレードショーがあった。九州最大級の産業見本市である。そのイベントの一つとして「産学共創で地域創生」と題したパネルディスカッションが開催された。パネラーは九州大学久保総長、西日本シティー銀行谷川頭取、そして九大在学中に起業した日本風洞製作所ローン・ジョシュア社長、という錚々たるメンバーだ。私は力不足ながらそのモデレーターをやらせていただいた。

 アジアへのゲートウェーシティー福岡、九州シリコンアイランドの地域創成と人材育成がテーマであった。特に九州大学は創立100周年、伊都キャンパス移転を期に、新たな「知の殿堂」「イノベーション発信」の世紀を創造すべく再スタートを切ることとなる。これまでの九州唯一の帝国大学という伝統を重んじつつも、新たなパラダイムへ脱皮することを宣言した訳である。九州/福岡の地から世界に向けてイノベーションを発信してゆくというまさにThink Globally, Act Locally!だ。また九州大学と西日本シティー銀行が共同で創設したベンチャーファンド第1号出資の学生ベンチャーが先ほどのローン氏の日本風洞製作所だ。こうした九州発、世界に向けた新しい事業創生が始まっている。栄枯盛衰はあれユーラシア大陸に門戸を開いてきた海外貿易港としての博多の2000年の歴史を考えると、まさに時と場を得た感があるが、その地でこういうテーマで議論することに運命を感じる。The best way to predict future is to invent it.不確実な未来を予測する最も良い方法はその未来を自ら創造することだ。博多/福岡が、九州が世界に向けてそういう創造の場になる時が来た。

 紀元前、列島に稲作農耕文明が入ってきた最先端の地域であった北部九州。縄文時代から弥生時代へのパラダイムシフトはここから始まった。朝鮮半島や中国中原の王朝と密接な交流を持ち、奴国や伊都国、邪馬台国などの「倭国」の先進的「クニ、国」が生まれた地域であった。そしてここから列島を東に文明の波が広がっていった。しかし時代を経て、いつのまにか九州は、中央からはるかに離れた地方「天下がる鄙」の地、みやこの出先である「遠の朝廷」太宰府が治める地となる。しかし、那の津には大和王権の外交/交易施設「鴻臚館」が置かれ、大陸との外交交易の拠点となり、遣唐使の出港地となる。さらに中世に入ると那の津/博多はアジアに向けた国際貿易港として江戸時代初期まで「博多黄金の日々」を謳歌する。やがて鎖国が博多の地位を衰退させ、長崎にその繁栄を譲る。いわば「博多冬の時代」の到来である。開国後、明治の産業近代化の時代には、海外交流といえば欧米諸国との交流をメインに太平洋側の港、函館、横浜、神戸が新しい開港上となり、日本海側、九州はまるで文化果つる地域となってしまった。こうして博多が近代日本の開港場になることはなかった。鎖国以前は太平洋こそ、文化の果つる海。熊野灘の先は補陀落浄土、常世につながる死の海であったのだが。戦後は博多/福岡は東京を本店とする企業の支店が集まる街、「支店文化の街」という位置付けに甘んじてきた。しかし、時代はめぐる。21世紀はアジアの時代に突入。博多港国際ターミナルには連日、中国やアジア諸国からの観光客を満載した大型クルーズ船が入港。韓国プサンへの高速船が頻繁に出入りする。いまや博多港は国際旅客船による外国人入国者数では日本一の規模を誇る国際港となった。再び「黄金の日々」を取り戻しつつある博多。

 会場となったマリンメッセ福岡は、国際港として発展する博多港に隣接する国際展示場。周辺には福岡国際会館(大相撲九州場所会場)、サンパレス、福岡国際会議場があり福岡の一大国際交易コンファレンス・イベントスペースとなっている。さしずめ「現代の筑紫鴻臚館」と言っても良い。ここからは博多湾が一望に見渡すことができる。今日も大型クルーズ船が国際埠頭に停泊している。プサン行きの高速船が港を出てゆく。湾に造成されたアイランドシティーのコンテナヤードはアジアの物流の重要なハブとしてのポジションを築きつつある。そして空を見上げると、博多湾上空には福岡空港に離発着する航空機が忙しく旋回している。まさにここは古代那の津/博多津の栄光を思い起こさせ、アジアの時代に向けて発展する新しい博多を予見させるロケーションだ。

 マリンメッセのすぐ横に「那の津往還」「引揚船入港地記念碑」が建っている。博多港は舞鶴港とともに戦後、満州や朝鮮半島から引き揚げてくる日本人同胞の帰港地であった。「岸壁の母」「大地の子」「帰り船」の世界である。私の叔母も幼少のころ満州から命からがらまさにここ博多港に引揚げてきた。この場所に小さな弟と母に手を引かれて上陸し安堵するとともに、現地でソ連にシベリア抑留された父の帰りを待つ日々の始まりだった。結局、焦燥感に苛まれながら待ちわびる家族の元に届いたのは一片の死亡通知書だけであった。我が国開闢以来、未曾有の敗戦を経験し、日本人だけでも320万人が戦争で命を失い、同胞が悲劇の難民となった時代である。しかし、一方、ここは戦争終結とともに列島から朝鮮半島、中国へ引揚げる人々の出港地でもあったことを忘れてはならない。あの北朝鮮の「祖国帰還事業」の出港地でもある。為政者の掲げる「王道楽土」のスローガンはいつものちに悲劇の枕詞となったことを思い起こすべきである。歴史の光と影を背負う博多港。これからの進歩を確かなものにするには常に歴史に学ぶことが不可欠である。


 博多を語るキーワード:

安曇海人族、漢委奴国王、那の津、筑紫館、鴻臚館、遣唐使、平清盛の袖の港、元寇、大唐房街(謝国明など宋の海商)、「博多黄金の日々」(神屋宗湛、島井宗室、大賀宗及、末次平蔵、伊藤小四郎など日本の海商)鎖国「博多冬の時代」、博多港、戦後引揚船、クルーズシップ。アジアのゲートウェー。


韓国プサン行き高速船が出港

プサン行きJR九州のVenus

外航船の国際埠頭

博多国際ターミナル

「博多往還」「引揚船入港記念碑」


鴻臚館跡

 7世紀後半から11世紀前半の約400年間(飛鳥時代〜平安時代)、対外交渉/交易の重要な拠点としての役割を果たした。唐や新羅からの外交使節の接受、官製の交易を担ったほか、のちには民間貿易の商人たちの拠点ともなった。また日本側からの外交使節である遣唐使や遣新羅使の送迎にも使われた。同様の施設は平安京や難波津にも設けられた記録があるが、実際の遺構が発掘されたのはここ筑紫鴻臚館だけ。

 その位置については江戸時代までは下呉服町にあったと想定されていたが、九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が、万葉集の古歌などを根拠に福岡城内説を唱え、実際に昭和62年の平和台球場の改修工事で鴻臚館遺構が発見され中山説が裏付けられた。

 鴻臚館遺跡からは、大量の中国、新羅、高句麗の陶磁器や、イスラム系陶磁器、ペルシャ系ガラス器が出土している。北館、南館などの居館の配置や構造についても解明されてきており、日本における国際港湾都市としての原点がここにあったことが証明されている。


福岡城内の「鴻臚館跡」と「展示館」

青磁の椀
打ち捨てられた陶磁器も大量に見つかっている

鴻臚館南館遺構

鴻臚館北館の正面玄関跡

1987年(昭和62年)
西鉄ライオンズのフランチャイズ平和台球場の改修工事時に見つかった
「鴻臚館跡」
(福岡市観光パンフレットより)

黒田如水/長政築城の福岡城

福岡城外堀のハス
















参考:2014年11月13日のブログ
 日本最古の都市 博多 〜博多遺跡発掘が語り始めた二千年都市の諸相〜



2017年10月10日火曜日

人生の分かれ道


  英国の小説家Kazuo Ishiguroが本年度のノーベル文学賞に選ばれた。巷の下馬評では毎年、村上春樹が候補者筆頭にノミネートされるのだが、今年は後輩のKazuo Ishiguroが選ばれた。私にとっては、その昔The Remain of the Day(1989年のブッカー賞受賞作品)を単なる英国のライフスタイルへのノスタルジーで手にとって読んだのが最初だった。Kazuo Ishiguroという日本人名の英国作家というのにも興味を持った。しかし、あの時はそれ以上でもそれ以下でもなかった。私がロンドンに赴任していた1995年には彼は大英帝国勲章を授与され、そんなニュースがロンドン在住の日本人の間で話題になっていた記憶はある。

 Kazuo Ishiguroいや石黒一雄は1954年長崎生まれ。1960年、6歳の時に海洋学者であった父の英国赴任で家族と一緒に英国に渡る。Surrey州Gildfordに住んでいた。最初はいずれ日本へ帰る海外赴任であったはずが、結果的には1983年に英国に帰化することになる。Kent大学とEast Anglia大学に学び、ミュージシャンを志し、やがて小説家に。とまあ、日本人として生まれ英国人になった。William Adams、三浦按針の逆人生を歩んだ。その間、日本には一度も帰らず日本の記憶はどんどん彼方に薄れていったと言っている。家族同士は日本語で話していたそうだが、大人になるにつれ日本語もしゃべれなくなり、思考様式もどんどん英国人になっていったという。名前と外見は日本人だが、中身は英国人。日本という要素は薄れる記憶の中にある5歳の頃の長崎のイメージだけであったという。かれはもはや紛れもない英国の小説家なのだ。しかしそんなことは彼の小説家としての価値にとっては重要な要素ではない。彼が語っているように、あまり日本人だ、英国人だ、と意識して小説を書いてはいない。一人の人間として独特の世界を紡ぎ出している。英国でも日本でもない、いやどちらにも通じる普遍性。そう文学作品としてのメッセージの普遍性は政治的な産物である国境/国籍を超越する。小説家はフィクションで真実を描き出す。ウソとフィクションは違う。人を混乱させ、当惑させるのがウソ。そこに真実はない。虚構により真実を語るのがフィクション。比喩、暗喩により普遍性を描いてみせる。あのバトラーの人生は多くの人間の人生そのものだ。

 こうしてKazuo Ishiguroは今年のノーベル賞受賞作家として脚光を浴びるのだが、私には彼の作品や表現の持つ普遍性についてよりも、むしろその生い立ちに強い関心を抱いた。彼は海洋学者であった父の仕事の関係で英国に渡り、日本人から英国人になった。それを知ってふと、自分の人生とどこか一瞬重なる記憶、ある既視感のような不思議な感覚に囚われた。生まれた年代も50年代。実は私も研究者であった父の仕事の関係で米国に渡り、ひょっとするとそのまま米国人になっていたかもしれなかったからだ。しかし、私は日本に残った。一瞬そのお互いの人生はクロスして、すれ違い全く違う方向へ別れていった。

 私の父は生薬学の研究者であった。私は東京で生まれたが、その後父の赴任にともなって福岡に移った。そこから父は1956年にフルブライト研究員として米国ワシントンDC郊外ベセスダのNIH(National Institute of Health:国立衛生研究所)に2年の任期で赴任した。米国赴任に際し、父は大きな決断を迫られた。6歳の私を米国へ連れて行くか。当時は今のように日本人学校があったり、帰国後も帰国子女として日本の教育システムに復帰できたりする仕組みはなかった。当時の海外赴任には子供の教育が大きな課題であった。連れて行くということは米国での教育を受けさせるということになる。日本に帰れば、留年し落ちこぼれになる。今のように米国で教育を受けさせるいいチャンスという認識よりも、日本のシステムからドロップアウトするリスクを感じたにちがいない。日本があらゆる面でグローバルに飛躍するのはまだまだ後のことで、日々の貧しい生活の中で落ちこぼれないように必死で生きていた時代だ。悩んだ末、私を祖父母に預け父は母と二人で赴任した。

 父は2年の任期を終え日本に戻る。しかし、実は米国で当初の2年の赴任期間が終了した時点でNIHに残るよう上司のM博士に強く要請されていた。より良いポジションが用意され、さらなる研究成果が期待されていた。子供を残しているので帰国したいという父の申し出に、M博士は米国での子供の教育は私が面倒見るから呼び寄せるようにと。戦後の混乱からようやく抜け出しつつあった1950年代当時の敗戦国日本と戦勝国米国の国力の差は歴然としていた。父が望む研究環境は米国の方が圧倒的な優位性があったことはいうまでもない。結局父はそれを断り帰国したわけだ。子供をとるか研究をとるか。研究者としては断腸の思いであっただろう。父の懊悩を、私はこの歳になって察することができるようになった。この時、父も米国での研究継続を選んでいたら、また違った人生を歩んでいたかもしれない。私もあの時父に連れられ米国に行っていたら、あるいは途中で呼び寄せられ、さらにM博士のもとで米国の大学へ進学していたら、今とは大きく違った人生を歩んでいただろう。きっとKazuo Ishiguroのような人生を送っていたかもしれない。もちろんノーベル賞作家になっていたかもしれない、という意味ではない。しかし、米国に定住し日系米国人になっていた可能性はある。

 あの時の父の決断がTatsuo Kawasakiと川崎達男の分かれ道だった。私は、日本人としてその後日本の大学を卒業し、日本の企業に職を得て、英国に留学する。さらに海外業務にその職業人生を大半を使い、英国Londonと米国New Yorkの双方に複数回赴任し、子供たちは日本と英国と米国で初等教育を受けることになる。そして娘は米国籍の伴侶を見つけて米国で家庭を築いた。海外生活が長く、家族も多国籍だが、私自身は全くの日本人として生きている。日本語を喋り、思考も日本語、夢も日本語で見る。定年後は、ますます日本文化に目覚め、幸いにも破壊されずに残る日本の美しい田舎にはまり、海外旅行よりも国内旅行を楽しむ。娘のところに行く以外は海外へ出かけることも少なくなった。父のおかげで日本人として充実した幸せな人生を送らせてもらっている。

 Kazuo Ishiguroをノーベル賞作家としてではなく、期せずして英国人としての人生を送ることになった一人の同世代、同郷の男として見ると、不思議な縁(えにし)を感じてしまう。ともに九州で幼少期を過ごし、ともに研究者である父親の海外赴任に伴い同じような人生の岐路に立ち、片方は父の決断で英国へ渡り、その後英国人としての人生を歩むことになり、片方は、同様に父の決断で日本に残り日本人としての人生を歩む。そんな道を分けた二人が、ある時期、英国での時間と空間をほんの一瞬共有していた。Surrey州Gildfordは英国留学中住んだKent州West Wickhamとは近い。鉄道でロンドンへの通勤圏内にあり、かつ南部イングランドの美しい田園風景が広がる「英国の庭園」(Garden of England)と呼ばれる地域だ。1979年〜81年、私がLondon大学LSEに在籍していた頃、彼は1978年Kent大学英文科を卒業し、1980年にEast Anglia大学修士課程に進学している。私も同年の夏、NorwichのEast Anglia大学でBritish Councilのサマースクールに参加していた。どこかで若き日のヒッピーな長髪の彼とすれ違っていたかもしれない。それが、いまやノーベル賞作家とサラリーマン定年オヤジに分かれるのだが。人生とは面白いモノだ。


Kent州Hever城にて
LSE留学時代
1980年

Russel Sq.のUniversity of London HQ

LSE: London School of Economics and Political Science正面玄関

Norwich
East Anglia大学にて
1980年

Edinburgh大学Martin Fransman教授と
ロンドン勤務時代
1995年

2017年10月1日日曜日

芙蓉の花 その志は今何処?



芙蓉の雪の精をとり   芳野の花の華を奪ひ
清き心の益良雄が    劔と筆とをとり持ちて
一たび起たば何事か   人生の偉業成らざらん


(旧制一高寮歌:矢野勘治作詞)



芙蓉峰とは富士山の美称。芳野の花は桜。富士と桜花。日本人の心情を表す二つの象徴。散り際の桜花だけでなく富士の名に冠せられた芙蓉の気高さも忘れてはならない。かつての若き日本のエリートたちは、芙蓉と桜花を胸に、私を捨て人のために尽くす。それが人生の偉業だと。エリートとはそういう社会的義務感を背負うものだと。

これはかつての日本の武士道や維新後のエリートだけの美徳ではない。欧州でもこの伝統は生きている。noblesse oblige. 例えば戦争があれば上流階級の人間が真っ先に戦場へ出て戦う。オックスフォード大学やケンブリッジ大学の戦没学生のplaqueには数え切れないほどの若者の名前が刻まれている。自己犠牲を人に強いるのではなく、自らに課して人に尽くすのがエリートだ。

そんな志は何処へ?そんなエリートは日本にはいなくなったのか。

9月28日国会開催日冒頭解散。野党勢力が混乱している状況に乗じて解散する。政局をみた戦術としては狡猾で正しいのだろう。しかし大義なき「me first」の時代の幕開け... 国のエリートたちの「XX first」がぶつかり合って争いになると「滅私奉公」と言い換えて人々を戦争に駆り立てたあの時代が脳裏をよぎる。大義を忘れたエリートについて行くほど主権者は愚かではない。




酔芙蓉












品川区民公園にて

(撮影機材:Nikon D850 + Nikkor24-70/2.8)