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2018年2月24日土曜日

池上梅園に春が来た! 〜江戸無血開城を巡る攻防の地〜

 


 池上梅園は池上本門寺の西に位置し、戦前は日本画家伊東深水の自宅兼アトリエで、「月白山荘」と呼ばれていたが、戦災で焼失。戦後は築地の料亭経営者小倉氏が買取り、別邸としていた。小倉氏没後に遺族が東京都に庭園として残すことを条件に譲渡。昭和53年に大田区に移管され梅園として拡張、市民に開放されている。白梅150本、紅梅220本、30種類の梅が楽しめる(大田区立池上梅園パンフレットより)。

 毎年2月末から3月初旬が梅の見頃となる。今年は厳冬の影響で開花が遅れているが、24日のこの日は久しぶりの好天で、寒さもやや緩み、梅が六分咲きであった。その割には人出も限られていて、都心の名所にありがちな、人でごった返し、花を見に来たのか、人を見に来たのかわからないような状態でもなく、ゆったりと「花見」を楽しむことができた。ここは先述のように紅梅が多く、梅園全体が紅白のグラデュエーションで美しく彩られる。あたりに馥郁たる梅の香が漂い春の訪れを感じる一日であった。

 池上本門寺は、長栄山本門寺と号し、身延山久遠寺と並ぶ、日蓮宗の大本山である。弘安五年(1282年)、日蓮により創建されたが、同年、この地で日蓮上人入滅。地元の池上氏の寄進により大きく拡張された本門寺が建立された。本門寺は鎌倉、室町時代を通じて関東武士団の信仰拠点として崇敬され、江戸時代に入っては加藤清正、紀伊徳川家の祈願寺として繁栄した。時代が下って明治の戊辰戦争では、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛を参謀とした新政府軍がここ本門寺に江戸進駐本営を構えた。慶応4年(1868年)3月12日、勝海舟は、東征軍の駐屯するここ本門寺まで足を運び、西郷に江戸無血開城を訴え会談した(松濤園にそに記念碑がある)。歴史の教科書では、江戸三田の薩摩藩邸で西郷、勝会談が行われ、江戸無血開城が決まったと書いてあった気がしたが、その前にここ本門寺で、いわば予備会談が行われた。そうして3月13、14日江戸薩摩藩邸での会談で無血開城が決まった。実際には、さらにその前、幕府側山岡鉄舟が、新政府軍の進軍途中の駿府に赴き西郷と交渉しているが、はかばかしくないまま、東征軍は江戸に入ったわけだ。歴史ドラマのように、決して一回の会談で「わかりもうした」となったわけではなかった。

 西郷/勝会談が本門寺松濤園で行われたのは3月12日。その時も梅の花が満開であったであろう。長い冬が終わり季節は春。美しい紅梅と白梅が、このギリギリの歴史的意思決定に色を添えたに違いない。もののふの心情を表すという桜花のような潔い散り際の美だけではなく、グラデュエーション豊かで、多様なトーンが織りなす紅梅、白梅が一斉に咲き誇る景観、一つの時代が終わりを告げ、新しい時代の到来を予感させるものであったと思う。2018年2月24日のこの日は、梅花だけではなく、なんと石段わきの山桜が咲き始めていた。その心も忘れてくれるなとばかりに。

























座論梅













本門寺石段わきには山桜が早くも開花!














2018年2月3日土曜日

大阪城 〜それは戦国時代の終わりを告げる墓標であった〜




 大阪のシンボルといえば、そう「大阪城」。太閤さんの「大坂城」だ。黒田孝高(官兵衛)が築城奉行となり縄張りを行った天下に名だたる名城である。内郭だけでなく、その外側に広大な外郭を配した総構えは「三国無双」と言われる。上町台地の北端にそそり立つ本丸天守を中心に広大な総構えを持つ城下町。その北は淀川に面し、天然の要害とし、内堀、外堀に水を引き入れた。城下町の西には船場、西船場、島内、天満と東西に伸びる長堀、道頓堀、南北に伸びる東横堀、西横堀に囲まれた「太閤割」の商業都市を設けた。いまの大阪は太閤さん、豊臣秀吉によって作られこれまで繁栄を続けてきた。従って大阪人の太閤贔屓は半端でない。「徳川の江戸なんかなんぼのもんや」だ。今でもナニワっ子の心の拠り所がこの大阪城なのだ。

 ところが今見ている大阪城は、実は太閤さんの大坂城ではない。なんとその豊臣家を抹殺した徳川家康の城なのだ。目の前に広がる天守閣を始め、壮大な石垣を持つ本丸も豊臣の大坂城ではないのだ。ナニワっ子には申し訳ないが全く別物であると言っていいほどだ。では太閤さんの大坂城はどこへ行った?実は、徹底的に壊されて今の大阪城の地下深くに埋もれている。

 徳川大坂城は、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされたあと、藤堂高虎を築城奉行としてあらたに縄張りが行われた城である。奇しくも黒田孝高官兵衛、藤堂高虎、とそれぞれの時代の築城の名手による「作品」が大坂の街を睥睨していたわけだ。現在の大阪城を壮大に見せている延々と続く見事な高石垣と深い堀は、徳川が全国の大名に命じて建設させた「天下普請」によるもの(城内には各地の大名の紋所を刻んだ切り出し石が並べられている)。太閤贔屓の大坂に徳川の権威を見せつけ、「時代は変わったのだ」という強烈なメッセージを発するために設けられた。「三国無双」と言われた豊臣大坂城は徹底的に破壊され、その上に厚く盛り土をして新たな本丸城郭構造が覆いかぶさっているのだ。すなわち今見ている「大阪のシンボル大阪城」は豊臣の仇、徳川家の城の遺構であるというわけだ。

 その大坂夏の陣は、史上稀に見る残虐な戦いであったという。大坂城に籠城する豊臣一族、浪人たちを徹底して抹殺するだけでなくだけでなく、住民を巻き込む市街戦が展開され、放火、略奪、虐殺が逃げ惑う住民を襲った。黒田長政が描かせたと伝わる「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)はその戦いの残虐さ、悲惨さを今に伝えていて「戦国ゲルニカ」と評されている。この大坂の街の堀や地下奥深くには大量の遺骨が埋められたままになっているという。特に豊臣大坂城はその痕跡をかき消すように全てが高石垣に囲まれた徳川大阪城に封印されてしまった。今でも大阪城の南の二の丸、三の丸あたりには武将や女どもの怨霊が夜な夜な現れるという。成仏できない無数の怨霊が馬場町、法円坂あたりを徘徊している。まるで今の大阪城は巨大な墓標である。中世、戦国時代の終わりを告げるモニュメントだ。ある意味では大仙古墳を遥かに上回る巨大な「塚」であると言える。

 城というものは華麗で壮大であるとともに残虐な一面を持っている。壮大であればあるほど概して血なまぐさい歴史が付きまとう。1600年の関ヶ原以降、近世に築城された城は、もはや戦いを想定しない平城が中心となり、藩庁としての統治機能を重視したものとなってゆくため血生臭さがなくなってゆく。しかし戦国時代に落城した小谷城や北ノ庄城のような数多の山城は戦いの砦であり居館であったわけだから、栄枯盛衰の歴史の影の部分、悲劇の舞台となったことは言うまでもない。近世最大にして最後の戦い、島原の乱の舞台となった原城もその代表だ。落城後は城は徹底的に破壊され、その跡からは、老若男女を問わず城とともに埋められたおびただしい遺骸が発掘されている。戊辰戦争で落城した会津若松城など徳川レジームの墓標(あるいは近世の墓標)と言って良いと思う。廃城跡は敗者の歴史の墓標であり時代の墓標でもある。実はこの大坂城も落城した廃城である。しかし、その後に勝者が、以前に増して壮麗な城を再建したので、そんな悲劇性、血なまぐささが封印されただけなのだ。知られているように、江戸城の無血開城が江戸を戦火から救った。大阪城の二の舞を避けられたことは明治の近代化の中心となった東京にとって、近代日本にとって幸いであった。

 最近、豊臣時代の大坂城を発掘する動きが出てきており、当時の石垣が地中奥深くから検出され始めている。当時の石垣は現在の壮麗な石組みの高石垣ではなく、自然石を積んだ「野面積み」の石垣であったようだ。もともと、ここには蓮如が創建した石山本願寺があり、一向宗徒勢力の中心拠点であった。織田信長に対峙する抵抗勢力の拠り所であったわけだが、その信長に降伏した石山本願寺の跡に秀吉が築城したのが大坂城だ。その縄張りはかなり現在のものとは異なっていたようだ。石山本願寺、と言っても強固な城郭構造を持つ砦然とした施設であったらしく、豊臣大坂城の縄張りにも、その痕跡があちこちに残されていたようだ。築城奉行黒田孝高官兵衛もさぞ苦労したことだろう。

 ちなみに、今の天守閣は戦後の復興天守で、鉄筋コンクリート造りでエレベータまである観光施設。主には大阪城博物館となっている。その位置は徳川時代の天守閣跡に再建された。豊臣時代の天守は今の天守の東に位置していた(下図参照)。デザインは豊臣時代の黒い天守ではなく、徳川時代の白い天守のイメージを再現しているという。しかし、徳川時代には再現されなかった豊臣時代の唐破風やファサード装飾を再現していて、豊臣/徳川のハイブリッドデザインとなっているようだ。あまり時代考証など厳密ではなく、戦争で荒廃した大阪の復興のシンボルを兎に角建てよう!という市民の熱意の産物だから細かいことは言うまい。

 今日も中国や韓国、台湾、東南アジアからの観光客がバスを連ねて大阪城見物にやって来る。彼らはここに何を見て、何を感じて帰るのだろうか? かつて我々日本人観光客がテムズ川沿いのロンドン塔を訪ね、ここが血なまぐさい政治犯の監獄であり処刑場であったこと、アン・ブーリンやトマス・モアやスコットランド女王メアリーが断頭台の露と消えた場所であることを知り、その壁や床に染み込んだ怨念を感じて戦慄したことを思い出す。あるいはその対極としてのエリザベス女王の世界最大のダイヤモンドの展示に驚嘆し、やがて呆れたことを思い出す。なんだこの両極端のエゲツなさは、と。しかし、大阪城に来てそうした歴史の怨念を感じて帰る人はいるのだろうか。天守閣と壮大な石垣をみて、セルフィー撮って、インスタグラムにポストして帰るだけなのだろう。稀代の英雄Prince Toyotomiが築城した天下統一のモニュメントであるとガイドブックに書いてあるのだから、それを見れば十分だとばかりに。しかし、この城の地下深くに豊臣の怨念が封じ込められているのだということを誰か教えてやって欲しい。ここは日本の中世から近世への転換を象徴するモニュメントであり「戦国時代の終わりを告げる墓標」なのだと。



戦後再建された復興天守は鉄筋コンクリート造り
天守の位置は徳川大坂城の配置に従っている。

豊臣大坂城をすっぽり盛り土して埋めてしまった徳川大坂城

美しく壮麗な高石垣は徳川の大阪支配のシンボル。

現在の櫓

明治の頃の櫓
大阪市HPから引用


優美な曲線の武者返し

蓮如の石山本願寺がここにあった





大阪市豊臣石垣復興プロジェクトHPから引用


大阪城公園
大阪市HPより






ここからは、本丸の東にある梅園の様子をご紹介したい。まだ開花には早いが、ぼちぼち紅梅、白梅が咲き始めていた。


梅園からみた本丸・天守
内堀で隔てられている。


白梅一輪


紅梅

蝋梅が満開に

大阪ビジネスパーク:OBPを背景に